怪盗ミッシェルのプロローグ
ミッシェルは、イーゼルの前で絵を見比べていた。水彩画だ。羊が描いてある。二枚の絵は同じ構図だ。色使いも同じ。毛の曲線、瞳の濡れ具合、芝のタッチ、どれも違和感なく再現できている。
「上手く描けてる」
ミッシェルが褒めると、ファカは頬に手を当て、伏し目がちにうなずいた。
「夕食まだだろう? 今すぐ食べれるけど、どうする? 食欲はあるか?」
「食べます。ミッシェルはもう食べましたか?」
ファカはエプロンのすそを掴んだ。手もエプロンも絵の具で汚れていた。視線は斜め下のパレットに向けられている。
「まだだ。一緒に食べよう。ベーカリー通りで、サンドイッチとフルーツゼリーを買って来た」
「ありがとうございます。いつも私に合わせてくれて」
ファカの喉を通る食べ物は限られている。肉は駄目だ。油っこいものも駄目。辛い物も駄目。野菜と果物を好む。
外に出る。二人の住む隠れ家は丘の上にあった。丘には他に家がなく、西には森、東には住宅街が見える。
手作りのベンチに座る。眼下には森が広がていて、夜空には星々が散りばめられていた。
風が吹いた。ファカの長い紫髪が空を隠しつつ、蠱惑的になびく。
「風、気持ちいいですね」
「寒くはないか?」
「大丈夫です」
ファカは髪を押えると、ミッシェルの方へ体一つ分寄った。小さな口でサンドイッチをかじる。ミッシェルはマグカップを渡し、握らせる。白い湯気が昇った。中身はホットミルクだ。
「あの万華鏡もきれいでした。この風景も同じくらいきれいです」
ファカが呟いた。他に音はない。
「名匠センドラゴも現実には勝てないさ。万華鏡、週末には持ち出す。それまでに堪能しといてくれ」
「もう返却ですか?」
「ルシーに見せるんだ」
彼女の名を口にしたからか、身がすくんだ。
ファカには過去のことを話していた。キンリエとエドナには話していない。ファカ以外の誰にも話していない。密閉して閉じこめておくつもりだった。でもなぜかファカには話してしまった。
「私はここにいます」
手と手が触れた。
「留守番してます」
「頼む」
もとよりルシーのもとへ連れて行く気はなかった。
銀の器に入った、冷たいフルーツゼリーを食べる。最後には、サクランボの種だけが器に残った。
食後だ。入浴だ。ファカの入っていたお湯からは花の香りがした。
温まった体が冷え切らない内に、ベッドに入る。ベッドは一つしかない。ミッシェルとファカは身を寄せ合ことにしている。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
まぶたを閉じる。
ファカが夢に登場したことは、まだない。