探偵ミゲルのプロローグ
シックな家具に囲まれた一室。
エドナは革張りのソファに深く腰を下ろし、片手に紅茶のカップを、片手にペンを持ち、口にはビスケットをくわえている。卓には参考書とノートが広げられている。
明日の追試で欠点を取れば、留年が決まるらしい。
「追いついてないなー。私の学力が、じゃないよ。問題が、私のレベルに、追いついてないなー」
「なら解け。半分も取れてないぞ。数学に至っては壊滅だ。王都随一の名探偵ミゲル氏の助手留年決定、なんて記事、俺は嫌だぞ」
ミゲルは丸付けをしていた。協力しないわけにはいかなかった。エドナの両親には責任を持って預かると言ってある。責任という言葉の範囲は広いのだ。
「体は一つ。心も一つ。二つ同時に考えるなんてできないよ」
「今考えるべきは、どう明日の追試を乗り切るかだ。他に何がある?」
「ラブレターへの返答」
さりげなく言った。夕食の献立を告げるみたいな言い方だった。
ミゲルは頭を振る。
「冗談はいい」
「これを見ても同じことが言える?」
そう言ってペンを置き、手提げカバンから手紙を取り出した。
中身を読んでみると、思いが綴られていた。文字と文字の間は狭く、読みづらい。いくつも文を重ねてはいるが、伝えたいことは最初の一文、「好きです」というその一文だろう。
ミゲルは過去のこと、湖のある森や雷を思い出した。それから、ルシー・フェルナンデスのことを。
手紙には、ミゲルが失ったものがインクとなってにじんでおり、笑ってしまった。
「私がラブレターもらうの、おかしい?」
「失敬。別の理由だ」
ミゲルは手紙を返し、赤ペンを置く。勉強どころじゃない。何と言ったって俺はこの子に対して責任があるのだ。
「エドナの魅力は分かり辛い。馬鹿ではあるが、ただの馬鹿じゃない。かといって天才でもない。独特なんだ。差出人は見る目がある」
「馬鹿にされてる? ものすごく褒められてる?」
エドナは首を傾げた。桜色のツインテールが揺れる。
「どっちもだ」
「なんだかなー」
カップの紅茶が波を立てた。スカートのプリーツの谷にはビスケットのカスが挟まっている。
エドナの顔が引き締まる。おふざけタイムは終わりらしい。
「初めてなの。正解が分からない。どうすればいい?」
「正直に返事をすればいい」
エドナは紅茶を一口飲む。
「怖いな」
「自分の美貌がか?」
半分は冗談だが、半分は本気で言った。透くようなピンクの髪は重力を忘れさせる。目を縁取るまつ毛は長く、橙色の眼光は温かい。汚れてない小鼻に、髪色より少しだけ濃い唇。胸の膨らみは小さくない。服の上から分かる程度にはある。
エドナの瞳がミゲルに迫り、冗談を押しつぶした。
「怖いの。私の一言で人が傷つく。他人じゃない。私に好意を寄せてくれるような優しい人だよ」
ミゲルはスラックスのポケットに手を突っ込む。キャラメルが三つ残っていた。転がす。考える。恋の問題は丸付けも難しい。
「傷つけるとは、自ら望んで相手を害することをいう。今回の場合、傷つくが正解だ。確かに相手は傷つくだろうが、お前が傷つけるわけじゃない。以上。問題を解け」
エドナは紅茶を飲み干した。一息ついて言う。
「ミゲルの淹れる紅茶、少し苦いよ」
十九時まで解き続けた。もう窓の外は暗くなっていた。
ミゲルは送っていくと申し出たが、エドナは子供じゃないと言って、一人で、肩を揺らして帰って行った。
恋の宿題、ちゃんと告白への返事ができたら、今度キャラメルをやろう、とミゲルは思った。