第二十三話 「真贋」
隠れ家の一室でファカは今日も絵を描いている。
「進み具合はどうだ?」
「もうすぐ完成です」
キャンバスに描かれているのは、翼の生えた虎だ。あとは背景の流星を仕上げるだけだ。審美眼のないミッシェルには、オリジナルと模写絵の区別がつかなくなるだろう。
「最後の一枚は王立博物館だ。明日、予告状を出そう思う」
「もう最後なんですね」
雨は深夜になっても降り続いていた。
ベッドの上でミッシェルもファカもまだ眠っていなかった。ファカは腕に抱きつき、頬をミッシェルの肩にすり寄せていた。甘い香りがミッシェルを包んだ。
カーテンが光った。光は一瞬で消え、暗闇に還る。耳をつんざく轟音が鳴り響いた。屋根が軋むような音を立てた。
ミッシェルの腕を締めつける力が強くなった。ファカは目をつむり、震えている。
「ただの雷だよ」
ミッシェルは空いている手をファカの背中に回す。手が触れたところから、震えは収まっていった。
「ミッシェル」
ファカが上目遣いをした。ミッシェルはファカを抱きしめる。体温が混じり合って体の境界が消えた。鼓動が怖いぐらいに胸を打った。
「好きにしていいですよ」
頭が芯から揺さぶれる心地がした。ミッシェルは唇を噛んで、本来の自分を取り戻そうとした。
「お前を好きにしていいのは、お前を本当に愛してる奴だけだ。俺じゃない」
「いいんです。私、分かってます。ルシーさんが一番なんですよね。私は二番でも三番でも最下位でもかまいません。代用品でもかまいません」
「代用品だなんて思ってない」
「本当に?」
ファカはミッシェルの髪をいじりながら、小首を傾げた。瞳の焦点はミッシェルの心だった。嘘も建前も言い訳も通用しないとミッシェルは悟る。
「すまない」
「私の方こそ、ごめんなさい。意地悪でした。もう言葉はいらないです。何も言わずに抱いてください」
「そんなことはできない。今までもそうだっただろう」
自分の下心に負けそうになったことはあった。でも、ルシーのことを思うと、踏みとどまることができていた。
「ならなぜ私を離そうとしないんです?」
「離すさ。今すぐにでも」
どんなに心で叫んでも、体は従わなかった。ルシーとの過去はもう役に立たなかった。風化しない過去などなかった。ルシーはいない。ファカはいる。二つの事実がミッシェルの体を支配していた。
「そんな顔しないでください」
「俺はルシーのことが」
「好きなんですよね。それでいいんですよ」
違った。ミッシェルの中で、好きが好きだったに変わりかけていた。罪悪感が体を蝕む。
ファカがミッシェルの顔を包むようにして胸元で抱いた。
「俺は最低だ」
「なら、私も最低です」
ファカの胸はラベンダーの香りがした。ミッシェルはそのまま眠ってしまった。
予告状。十一月月三十日、深夜。王立博物館に保管されている絵画「湖髑髏」(シドル・ソロット作)を頂戴します。怪盗ミッシェル。
予告状に示した通り、十一月三十日深夜、ミッシェルとファカは王立博物館に忍び込んだ。方法は瞬間移動。いつもの手だ。シドルの絵は展示エリアになく、倉庫に保管してあるので、一気に倉庫に飛んだ。倉庫内にも警官がいた。警官も学習するらしい。ミッシェルは警官を駅に飛ばした。
倉庫内は広く、迷ってしまいそうだった。あらかじめ調べておいた保存番号を頼りに、目当ての棚に行き着く。箱から絵を取り出す。湖のほとりに頭蓋骨が二つ並べてある絵だった。
「引き上げるか」
「違います」
ファカが絵の中の一点を凝視していた。
「サインが違います。筆のタッチも違う。贋作です」
ミッシェルには判断がつかなかった。けれど、ずっと父の絵と対峙してきたファカの言葉は信用できる。
「こういう手できたか」
ミシェルはファカの手を取り、飛んだ。
二人は黄金のシャンデリアの上に立っていた。下は王立博物館エントランスホールだ。警官ではなく、博物館の警備員が二人待機していた。
「おーい。そこの君たち。中にいる警官の皆さんを呼んできてくれない?」
すぐに館内の全警官が駆けつけた。変装しているので、ミッシェルをマイケルだと気づく者はいなかった。ミッシェルになるときは、髪色を黒に変えている。さらに念をいれて、目元は布で隠している。これはファカもつけていた。
「キンリエ警部補がいないようだけど?」
返答の代わりに銃声があった。ミッシェルは銃弾をよそへ飛ばす。もう一度同じ問いを繰り返すと、返答があった。
「今回からマイケル警部とキンリエ警部補には、怪盗ミッシェルの担当を外れてもらった」
そう言えば、そんなことをキンリエが言っていたかもしれない。
ミッシェル=マイケルは基本的に会議中は寝てるし、上からの指示も無視する。だから、キンリエが大事なことだけ後で教えてくれるのだ。それすらも聞き流すことがたびたびあった。
「キンリエ警部補がいないなら、この中で一番偉い奴は誰?」
「私だ」
さっきからミッシェルの質問に答えていた男が前に進み出た。白髪に茶色の瞳、細い顎。ミッシェルは見覚えがあった。が、名前までは思い出せない。
「お初にお目にかかる。私のことは知っているかね? 警察庁長官のクナイフだ。私の策は気に入ってもらえたかな?」
「本物はどこだ?」
「教えよう。君が牢屋に入るなら」
ミッシェルは両手を挙げた。ファカに小声で言う。
「先に帰ってろ。明日までには絵を持って帰る」
「大丈夫ですか? 今日は引いてもいいんじゃ」
ファカがミッシェルのマントを引っ張った。
「大丈夫だ。俺の力は知っているだろ」
ミッシェルはファカを隠れ家に飛ばした。自分はクナイフ長官の背後に飛び、長官の膝の裏を押してひざまずかせる。
「とっとと連れて行け」
ミッシェルはクナイフの後頭部を見下ろしながら言った。
クナイフは作り笑いを絶やさず、手錠をかけた。




