第八話 「サボり魔警部」
船の汽笛が聞こえた。マイケルは顔に被せていた帽子を取り、ベンチから起き上がる。港には人とドワーフが集まっていた。なじみの顔ばかりだ。酒瓶を片手に、平日の昼間から酔っている者もいた。
中型船が港に停まる。マイケルたちは歓声を上げた。船に乗れば、現実の厄介言から距離を置ける。無料ではないが、タバコや酒より遙かに安かった。船長は自分の道楽でやっていることだと言っていた。マイケルは、昇進することばかり考えている同僚の警官より、船長の方が上等な人間だと思っている。
船が乗船準備を整えた頃には、一本の列ができていた。ここにいるのはろくでもない馬鹿ばかりだが、マナーを知ってる馬鹿なのだ。マイケルは最後尾に並んだ。
マイケルがタラップに足をかけたとき、後ろから声がした。
「警部」
声の主を遠目に見て、マイケルはタラップの手すりを揺らした。
「やばい。おい、急いでくれ」
「マイケルの旦那、俺たちに急げっていうのは無理な話ですぜ。遅刻常習犯の集まりなんだから」
前の男が言った。
マイケルは一刻も早く階段を駆け上がり、船長室や食堂に隠れなくてはならない。
「早くしやがれ。てめえら全員逮捕すっぞ」
「逮捕されるのはあんたでしょうに」
言い返そうとしたら、後ろから耳元で怒鳴られた。
「マイケル警部。あなた一体何を考えているんですか」
振り返らなくても、顔が想像できた。キンリエ警部補とはもう三年の付き合いになる。
タラップを登って来たキンリエはマイケルの肩をつかんで振り向かせた。力の入った大きな黒目に、マイケルはたじろぐ。
「あれ? 今日は祝日じゃなかったっけ? ほら、勤労感謝の日だよ」
「ごまかさないでください。たとえ今日が勤労感謝の日であっても、あなたには働いてもらいます。普段からサボってばかりのあなたに祝日はありません」
「相変わらず厳しいな。俺はこれでもお前の上司なんだけどな」
部下に叱られる上司を他の乗客は笑った。
「行きますよ」
キンリエはフェイントを入れて、マイケルの手首を掴む。
「くそ。おーい、船長。出港だー。船を出せ。今すぐ出せ」
「な、何を言ってるんですか。帰りますよ」
汽笛が鳴り、船体が震えた。タラップを引きずりながら、船はゆっくりと進み始める。急ぐことはできないと言っていた乗客は一人残らず、甲板目指して階段を駆け上がった。マイケルの片足は何とか甲板に届いた。キンリエはタラップと共に海に落ちていく。
「跳べ」
マイケルが叫ぶ。
キンリエは太ももとふくらはぎがつくぐらいに足を折り畳み、跳んだ。マイケルが手を伸ばしていたが、必要なかった。甲板に着地したキンリエはマイケルを海に落とそうと、腕を突き出す。マイケルは両腕を振り回して、体のバランスをとる。
「あ、やばい」
マイケルの体が大きく傾いた。手を伸ばすと、キンリエが掴んだ。
死人は出そうにないと分かると、他の乗客は散っていった。沈んでいくタラップを見ている者たちもいた。仕事の話をしているのは、青い制服を来た二人だけだ。
「今日の勲章授与式、忘れていたわけではないですよね? 主役が理由もなく欠席なんてあり得ないことですよ。反省してください。警部は能力がおありなのに、人間性に問題があります。聞いてますか?」
マイケルは聞いているふりをして、港が小さくなるのを見ていた。適当に相づちを打つ。
「勲章ね、うん。まあ、いいじゃねえか。バッジもらって喜ぶのなんてガキぐれえさ」
「確かに勲章は形式的なものです。でも、力ある者は、それ相応の評価を嫌でも受け取らないといけないんです。あなたが不真面目だと、あなたに憧れている警官は皆、不真面目になります」
「けっこう、けっこう」
キンリエの目が吊り上がった。額が太陽の光を反射している。前髪をヘアピンでとめているから、額が広いのだ。
「分かったよ。お前が正しい」
話を打ち切って、マイケルはデッキを一周する。キンリエは小言を言いながら、ついて回った。乗客はそれぞれのやり方でくつろいでいた。椅子に寝そべり体を焼いている者、釣りをしている者、写真を撮っている者、酒を海に流している者。
今日の波は穏やかだった。季節はまだ初夏。潮風に暑さを忘れる。
マイケルは、カフェ「ノルマンの旗」から椅子を持ち出し、船首の近くに陣取る。
「ゆっくりしようや。飲み物いるなら、もらってこい。そこの店主は美人に甘いから、きっとタダだぞ」
「勤務時間中です」
キンリエは制服に乱れがないか確かめてから、椅子に座った。デッキにいる連中を注意深く観察している。
「もっと自由にくつろげよ。事件なんて起きないさ。お前も肌を焼いてきたらどうだ? 少しは色気が出るぞ」
「セクハラで訴えますので」
キンリエは胸を両手で隠す。胸と言っても、絶壁である。二十一歳のキンリエ警部補は自身の胸にコンプレックスを感じている。マイケルが「肌を焼いたら色気が出る」と言えば、「胸が小さいから、肌の色で色気出すしかねえな」と変換してしまうのだ。
「案ずるな。貧乳好きは世界にいくらでもいる」
「案じてません」
「なら職務のことも案ずるな。不真面目になれ。馬鹿になれ。俺がお前を正しくない方に矯正し直してやる」
キンリエはため息をついた。
甲板を細い影がよぎる。カモメが船に付き添って飛んでいた。高度を下げたり、上げたりを繰り返す。翼は止まっているときもあった。でも、飛べている。風に乗るには脱力しなければならないのだ。
カモメを眺めながら、キンリエは言った。
「いろいろと理由をつけましたけど、結局私は個人的な理由で怒っていたんです」
「俺の顔が嫌いとか?」
マイケルは街を歩けば、視線を集めてしまう。金髪に緑色の瞳という組み合わせは珍しいのだ。
「違います。今回、警部が逮捕した殺人鬼が計十人に達したので、警視庁官は勲章を授与することにしたんです」
「話が見えないな」
「だから」
キンリエが制服の胸ポケットから、エメラルドの粒を銀で縁取った勲章を取り出し、机に押しつける。
「私はあなたが良い評価を得て、嬉しかったんです」
キンリエは勲章から指を離す。
「でも、あなたは式に出席しなかった。だから、怒っているんです」
マイケルは黙って勲章を受け取った。
潮風と共に、船上カフェから旋律が流れてきた。エルフとドワーフの二人組「キャレイ&ガル」の曲だ。流行りの曲というより、長く慣れ親しんだ曲だった。軽快だがマーチよりは遅めのテンポだ。イントロが終わると、キャレイとガルが交互に歌い始める。サビでエルフの高温とドワーフの低音がハモる。乗客は静かに聞いていた。
二番の歌詞からは、乗客も黙ってはいない。メロディーラインをハミングする。エルフの高温は口笛で、ドラムやベースは足や手を叩いて表現する。サビはみんなで歌う。マイケルもキンリエも声を重ねた。声を合わせる気はなく、それぞれが好き勝手に歌った。曲の終わりに近づくにつれて、歌声は一つにまとまっていった。
曲が終わると、皆、叫んだり、飛び跳ねたりした。キンリエは頬を上気させて、音を立てないで控えめに拍手していた。
「サボるのもありだろ? たまになら」
マイケルがそう言うと、キンリエは目を閉じた。
「毎日は困ります」
「毎日じゃない。週に三、四日だ」
「それをたまにとは言いません。もういいです。私は寝ます」
キンリエは腕を組んだまま、眠り始める。絵画の中に入ってしまったかのように、動かない。周りの空気まで流れていないように見えた。
マイケルは背中に冷や汗をかいた。深い息をしながら、自分に言い聞かせる。キンリエは起きる。二度と目を覚まさないわけじゃない。




