第五話 「命日」
空間軸を多用するミカエルに対し、ルシーは時間軸を使ったことがなかった。
ある日の授業の終わりにバストロが提案した。
「一度か二度、未来に飛んでみるのがよろしいかと。軸を使えると認識しておくことは有益です。もちろん、遅刻を回避するために軸を使う、どこぞの馬鹿のようになられては困りますが」
「何か言ったか?」
バストロは咳をして、続ける。
「過去へ飛ぶのはリスキーです。ルシー様がなさったことが未来を大きく変えてしまう恐れがあります。我々が生きている現在も影響を受けるでしょう。戻ってきたら世界が滅んでいたということになりかねない。未来へ飛んでみてはどうでしょう?」
「では、ついでに時間軸所有者としての義務も果たしてきましょう」
「未来に飛ぶにあたっての注意はいくつかあります。まず――」
二人はタイムパラドックスについて話し始めた。頭が痛くなりそうだったので、ミカエルは、城から二十キロ南、王都南部のフルーツ市場に飛んだ。
客引きの声と甘酸っぱい匂い。石畳の大通りに人が溢れている。人だけじゃない。ドワーフとエルフもいた。硬貨と果物が空を飛び交っている。
「王子、またサボりか?」
浅黒く日焼けした青年が言った。青年の店は品ぞろえがよく、ミカエルは常連だった。パイナップル、チェリー、柑橘系の果物などが籠に積まれている。
金髪に緑色の瞳をしたミカエルは目立つ。何を買おうか迷っている内に人が集まって来た。歓声もあったし、悪口も聞こえた。ミカエルは適当に返事をする。悪口にも程度があり、笑って許せる類とそうでないものがあった。聞くに堪えない言葉を言った男は、ブロウ山の頂に飛ばした。一日あれば下山できる安全な山だ。問題ない。王子を侮辱した罰としては軽すぎるぐらいだ。
「グレープフルーツを二つ、それから、さくらんぼを器いっぱいにくれ」
ミカエルは二枚の銀硬貨をトスする。
「釣りはいらん」
「足りねえよ。王子」
もう一枚投げる。ミカエルの所持金はゼロになった。ルシーのせいだ。国を案内しろと言われ、観光名所を北のベール岬から南のコウノス天文台まで連れて行った。空通費はゼロでも、お土産はタダでない。貯めていたお小遣いは、気がつくと、銀硬貨三枚になっていたというわけだ。お小遣いの前借を父と母に頼む事態だけは避けたい。
紙袋を受け取る。サービスで甘夏も入っていた。
日はまだ高い。夕食まで自由時間だったが、ミカエルは自分の部屋に戻った。空間把握の範囲を城全体に広げる。国王は書類にサインしている。王妃は中庭で草木の世話。バストロは半裸になって筋トレしている。森まで範囲を広げても、ルシーを知覚できなかった。まだ未来から帰って来ていないらしい。
買ってきたものをマントルピースの上に置く。食欲はない。性欲をまだ知らないミカエルは睡眠欲に従うほかなかった。カーテンと窓を全開にして眠る。部屋の鍵は開けておいた。
三時間眠った。起きたときには、陽が沈みかけていた。西日が浅い角度で部屋に差し込んでいる。ミカエルは再度、空間把握を試みる。ルシーは隣の部屋にいた。空間の履歴を見たところ、一時間前に帰っている。
夕食は王族のみで食べる。具体的に言うと、ルシーとミカエル、それぞれの両親だ。給仕や食器の片づけは執事が行う。テーブルのどこに座ろうと自由である。ミカエルは決まって端に座る。いつもはルシーが対面に座るのだが、今日はルシーの父親が対面に座った。ルシーはミカエルの対角線上に腰かけている。
夕食の間、ルシーは最低限の返事をするだけで、自分から話題を振らなかった。今日はやけに静かだな、とミカエルは思う。普段は下品にならない程度に楽しくおしゃべりするのに。
「ルシー。どこか具合が悪いの?」
「いいえ。お母様。大丈夫です。少し考え事をしていましたの」
「気分がすぐれないなら、我慢せず言うんだよ」
「ご心配痛み入ります。国王様」
会話に耳をそばだてながら、ミカエルは足を小刻みに揺らしていた。食べることも忘れていた。おかげで一皿分のスパゲティをフォークに巻きつけていた。解いて、巻きなおす。小さな笑い声が斜め前方から聞こえた気がした。顔を上げると、ルシーと目が合う。一連の動作を見ていたらしい。目が笑っていた。青い瞳が見る見るうちに濡れて輝いた。涙がこぼれ落ちる前にルシーは席を立ち、「すみません。今日は食欲がありません。失礼します」と言い残して出て行ってしまった。
ミカエルは後の会話には参加せず、一気に残りのスパゲティを食べた。食器をバストロが下げるより早く、ルシーの部屋に飛んだ。同時に、自分の部屋から今日買った果物も瞬間移動させる。
ルシーは椅子に腰かけ、うなだれていた。ミカエルが声をかけると、顔だけ背けた。
「果物あるぞ。酸っぱいの好きか?」
ミカエルは床に座る。手で空を握るとそこにナイフが現れる。空間移動は慣れたものだった。ナイフでグレープフルーツをカットする。中の実はピンク色をしていた。
「なあ、何とか言えよ」
「何とか」
「そうじゃない」
切ったグレープフルーツを皿に乗せる。ルシーが手を伸ばして一切れつまんだ。
「実はお腹減ってた」
小さな口でかじりつく。ミカエルの話は無視して食べ続けた。唇が果汁で濡れて光っている。
「ミカエル。今日は一緒に寝て」
命令だった。
ランタンの明かりを消す。二人はベッドで背中を合わせた。月光が部屋を薄く照らしている。
ルシーが動いた。寝返りを打ったのかもしれない。
「私」
声が掠れていた。ルシーがどんな顔をしているのか、ミカエルには想像がつかなかった。
「私、死ぬみたい。一週間後に死ぬの」
あまりに突拍子もないことを言うので、ミカエルは笑ってしまった。
「何を言ってるんだ?」
「今日、未来に飛んで自分の墓を見つけたの。お墓にはいつ生まれて、いつ死んだか書かれているでしょ。何度も確認したのよ。でも、刻まれている命日は変わらなかった。それで――」
ミカエルは向き直り、ルシーの肩に手を置く。でも、肩の震えは止まらなかった。
「私、死ぬんだよ」
嘘をついている目はなかった。死という言葉からグラジエルを連想する。胸に空いた穴がさらに広がる予感がした。体が冷たくなる。ルシーの手も冷たかった。
長い間、二人は手を握り合って、お互いの存在を確認していた。夜が明けないで欲しい。ミカエルは初めてそう願った。しかし、太陽は例外なく今日を照らした。
午前中から授業だったが、身が入るわけがなかった。未来を変えるにはどうしたらいいか考える。ルシーの死には軸の継承が伴うはずだ。軸の継承がルシーに死をもたらすと言い換えることもできる。では、ルシーが時間軸を持っていなければ、死は訪れないのではないか。
ミカエルは笑った。数式の説明をしていたバストロが手を止める。
「簡単じゃないか。ルシー、過去に飛ぶぞ。俺たちが軸を継承した日に飛ぶ」
ルシーは顔を上げなかった。
「何をしている? 過去に飛んで事情を話して、継承を止めてもらうんだ。お前の命がかかってるんだから、カレサンダーもうなずくはずだ」
「なりません」
バストロがミカエルの前に立った。獅子のような目をしている。
「お前は事情を知っているのか?」
「昨日、ルシー様から聞きました」
「話がつながらねえな。なぜ止める?」
ミカエルは立ち上がる。拍子に椅子が後ろへ飛んだ。
「軸の有無は寿命とは関係ありません。前例がございます」
「やってみなくちゃ分からない」
「分かっているから言っているのです。書物庫の奥に軸に関する全記録がございます。今から行って確かめますか? 過去を改変したら、今現在も大きく変わることになる。些細なことがきっかけで、何百人の命が失われたり、死んだはずの人が死ななくなったりするのです。過去は木の根っこです。根がなくなれば幹が揺らぎかねない」
「ごちゃごちゃうるせえよ」
寿命だからといって納得できるわけがなかった。ミカエルは助ける方法を考え続けた。時間軸と空間軸があれば世界を手にしたも同然だ。なのに、人一人救えないなんておかしいじゃないか。ルシーと力を合わせれば、あらゆる時空間上に同時存在することができるのだ。寿命程度の問題を解決できないのは、まだまだ捨て身になっていないからだ。ルシーの命以外捨てる前提で考えれば、どうとでもなるはずだ。
答えは出た。
「ルシー」
ルシーが無言でミカエルを見返した。
「時間軸で俺と飛ぶぞ。いつの時代でもいい。二度と現在には戻らない。そうすれば、いつまでも寿命はやってこない」
ミカエルは説明した。ルシーが寿命で死ぬ未来は来週やって来る。ならば、今日この時点を放棄してしまえばいい。別の時代に飛んで、歳を取って婆さんになってから現在に帰り、来週の命日を迎えればいい。
ミカエルが話を終えても、ルシーは頷かなかった。ミカエルは凝視する。瞳に映るまつ毛の影まで見えた。
「何が不満なんだ?」
ルシーは答えない。バストロがミカエルの手首をつかんだ。
「王子の案は却下されたようです。諦めなさい」
ミカエルは手を振り回しながら、わめいた。けれど、バストロの手は振りほどけなかった。
「分からないなら、教えてあげましょう。時間軸の使用は最低限に控えなければなりません。本来、自分が存在しないはずの時代に長くとどまるなどもってのほかです。ルシー様はよく分かっていらっしゃる。一方、王子。あなたは何も分かっていない」
「時間軸の使用は最低限にだと? 関係ねえだろ、そんなこと。あんまりふざけたことをぬかすなよ」
一度も勝てたことのない相手をミカエルは睨みつけた。空間軸を使えば勝算はある。最悪、殺すしかない。
空間軸を使おうと意識した瞬間、バストロが手刀を放った。ミカエルは音もなく崩れ落ちる。自分の名を呼ぶルシーの声が遠くに聞こえた。
断片的な考えが浮かんでは消えていった。バストロの強さ。がらくた同然の空間軸。ルシー。
ミカエルは医務室で意識を取り戻した。体に痛みはなかった。右手をルシーが両手で挟むようにして握っていた。
「起きた?」
「心配するな。どこも痛くない」
ルシーの後ろに立っていた医者が二、三質問した。ミカエルは医務室の常連だから、医者のことは良く知っている。名医だが、アル中でもある。今も片手にウィスキーのボトルを持っている。
「ルシー王女に後は頼もうか。俺はいい酒をくすねてくる」
医者は地下の酒蔵に向かった。取り残された二人は視線を合わせずにいた。ミカエルはもう自分の考えを押しつける気はなかった。ルシーの生死も重要だが、ルシーの意思はさらに重要だ。
バストロに完敗したおかげで頭は冴えていたから、今言える言葉はすぐに見つかった。
「ごめん」
声が重なった。
ルシーは目じりをひくつかせていた。涙はまだ見えない。
「実は私もミカエルと同じことを考えてた。でも、やっぱりそれはズルなんだよ。ただのズルじゃない。大勢の人に迷惑をかけるズル。場合によってはたくさんの人の存在自体が消える。駄目だよ。私、そこまでして生きていく自信がない」
ミカエルもルシーも大なり小なり犠牲の上に成り立っている。城での豊かな暮らしは国民の税金によるものだ。祖父母の死と引き換えに軸を手に入れた。決して小さな犠牲ではない。でも、過去や未来に干渉するのは次元が違う。命どころか、いくつもの世界そのものを消滅させ、ないはずの世界を新たに生み出してしまう。一度手を出したら、今ある世界は二度と届かない場所になってしまう。
「お前は優しい奴だよ」
言外に自分を貶める意味を含ませる。自分は優しくない。ルシーがうんと言いいさえすれば、一緒にどこへでも飛ぶつもりだった。ズルだろうが、何人死のうが、世界が滅びようが痛くもかゆくもない。どんな代償を支払ってでもルシーを生かしたい。願いは消えてくれなかった。
「優しいのはミカエルだよ。私のことを何より大事に考えてくれる」
ルシーはミカエルの手を頬にくっつける。
「だから、その時が来るまで、あなたの時間を私にください」
ミカエルは返事の代わりに、ルシーの頬を手の平で包んだ。




