7.グレゴワールの本気2
フロランスは口ごもって挙動不審になった。
いつもならばアリゼに捧げられるような情熱的な台詞に動揺してしまう。まるで物語で活躍する、姫を魔王からから救い出す騎士だ。……見た目は魔王寄りとはいえ。
しかし発言者は庶民ですらなく貴族の宮廷魔術師様、フロランスを口説くはずもないお人である。
(貴族の社交界ではきっと、女の子にこれくらいは言えないとダメなんだ)
貴族は華麗に言葉を操って会話を楽しむと聞くから、貴族の男は女性に粋な言葉の一つもかけられないようではやっていけないに違いない。
それにグレゴワールは優しい。フロランスの憂いを払拭しようとこう言ったと考えれば納得がいく。
「……いいのですか。私、こんなんですよ。特技もありませんし」
「ボリー修道院長に聞いたら、キミは働き者で勇敢な良い娘だって太鼓判を押してたヨ」
「本当に違うんです、私は……ただの臆病者で」
「臆病者が人を助けるために燃える建物の中に飛び込んでいけるかい」
「あれは自分のためにしただけです。それに……なんで、なんで私なんですか? ただの村娘なのに?」
「キミが適任だと思ったからさ。言わなかったっけ」
「で、も……私程度の人なんていっぱいいるでしょう? わっ、私に、グレゴワールさんがわざわざ王都へ連れて行くほどの価値があるんですか?」
褒められるうちにかえって心の内にモヤモヤとした不安定な感情が積もって、フロランスはつい叫ぶように言ってしまった。
アリゼになりたかった。家族に肯定されたかった。貶められることもなく、頑張ったらその分褒められて、認められたかった。
フロランスは自分はアリゼよりは働き者だと思っている。アリゼの取り巻きが貶めてくるほどの無能でもなければ不器用でもないと思っている。
だがふとした弾みに周りから向けられた鋭い棘のような言葉が、その記憶が、耳元で囁かれて、フロランスを傷だらけにする。
――なんだ、藁頭のフロランスかよ。おまえがアリゼだったらよかったのに。
――お前はホントになんもできないなあ、ヴァンサンさんにもそう言われたろ。
――義姉さんは不器用でちょっと失敗しちゃうだけよ。手際が悪いだけ、ねえ?
――それをダメっていうんだよ。アリゼとは大違いだなあ。
違う! そう言いたいのに、言い返せない。侮蔑が積み重なっていつの間にか侮蔑で形容された姿が村でのフロランスの姿になっていく。
私はダメなんかじゃない、母さんも修道女たちも褒めてくれるじゃないかと自分に言い聞かせても、心の中に潜むアリゼの意地の悪い笑顔が問いかけてくる。
――今日ね、旅の途中のお貴族様に一緒に来ないかって誘われちゃった。断ったらほら、宝石をもらったの。義姉さんはこういうときどうする……あら、ごめんね? そういう経験はないわよね。
――また求婚されちゃった、天使みたいだって。ほら、こんなドレスまでもらっちゃって、困っちゃう。義姉さんはそういう経験なくていいなあ……?
――家族にも男の人にも愛されない娘に価値なんてないものね。ね、義姉さん?
――うふふ、可哀想な義姉さん。なんにもできなくって。
――家族にさえ信じてもらえないんだものね、可哀想ね?
そのたびに、自分でも気がつかぬうちに、フロランスは少しずつ自信を無くしていった。
本当に、本当に自分は働き者なのだろうか。本当に無能ではないのだろうか。アリゼや村の若い男たちの言う通りなのではないか。そうでなければ、家族にも村人にもここまで蔑まれるだろうか……。
実母カロルにかつてかけられた温かな言葉はフロランスを慰め鼓舞したけれど、思い出だけで自信をつけるには限界があった。
フロランスは顔を歪めた。
こんなはずではなかった。認められれば褒められれば自信がつくはずが、実際に知り合ったばかりのグレゴワールに手放しで褒められてみればかえって心が膿がどろりとフロランスの足を掬った。
――私じゃこの優しい人の役に立たない。
――役立たずな、藁頭のフロランス。
自信のなさがフロランスの足を竦ませる。こんな自分は素敵な人には似合わないのだと。
フロランスは地面に両膝をついて頭を下げた。
「ごめんなさいグレゴワールさん、感情的になって。せっかく声をかけて下さっているのに。……でも、王都には私よりも働き者で優秀で……綺麗な人はいっぱいいるでしょう?」
「そうでもないヨ。……ねえ、フロランス。キミは綺麗だよ」
フロランスは項垂れた。
うまく対応するつもりが、結局は自分の事情でグレゴワールに気を遣わせてしまった。
同じ貴族でも女子修道院を訪れたご婦人や頭の固いクレドーの役人には卒なく対応できたのに、なぜかグレゴワールを前にすると上手くいかなくなる。
「いいんです、自分が綺麗でもなんでもないってことはよくわかってるから。お世辞なんか言わせてしまってごめんなさい、本当に」
「お世辞じゃない。綺麗だヨ、私の太陽。キミはリュエノーの太陽そのものだ。だから、私と一緒においで」
グレゴワールはフロランスの前にしゃがみこんで
、深淵のような目でフロランスを見つめた。
「フロランス。こちらを見て。ほら。私の言葉が信じられない?」
「……はい」
「どうして」
「どうしてって……顔も美人じゃないし、体つきが魅力的なわけでもないし……髪の毛も踏まれた藁みたいだし、性格も……感情的だし」
アリゼはフロランスと違って怒鳴ったりはしない。いつも微笑むか静かに泣くかのどちらかだ。その態度もまた人に好まれる。
グレゴワールは首を横に振った。
「それはキミの思い込みだ。それに光の神は苛烈で感情的な神様だからネ、そのままでいいんだ」
「……そうでしょうか……」
「ウン。私は本気だよ、フロランス。私たちは明後日クレドーを立つ。屯所で待っているヨ」
グレゴワールは慈しむようにフロランスを頭を撫でて、修道女たちにもニタリと笑いかけると書庫から出て行った。
彼の姿が見えなくなると、フロランスはわっと修道女に囲まれた。
「ちょっとフロランス、なに話してたの!?」
「見初められたの!? 頬を撫でられたりして」
「フロランスも赤くなってたわよね」
「頭も撫でられてたわね……」
「最後のあの笑みはどんな意味だったのかしら」
「その、こ、怖かったわね」
フロランスはなにかを言おうと思ったが、グレゴワールの言葉について考えるのが精一杯で、結局頭を横に振るだけにとどめた。
***
昼近くになって、フロランスはクレドーのパン屋に向かった。修道女たちのパンはいつもならば自分たちで焼いていたが、山賊の襲撃と放火のせいで釜が崩れて使えなくなってしまっていた。
鞄をパンで膨らませて大広場を通ったところでフロランスは声をかけられた。
「あらあ、義姉さん?」
「フロランス、お使いか?」
(げっ……)
嫌々振り返ると休憩を取っているらしいアランとその腕に絡みついているアリゼがいた。アリゼは胸を強調した酒場のエプロンを身につけていて、普段着よりも一層魅力的に見えた。
フロランスはアリゼを目に入れないようにした。
「そうよ、修道院の釜が壊れちゃって。パンをこねる台もないしね」
「火は大丈夫か」
「うん。燻ってたのはもう全部消えた」
「なら片付け中?」
「そうそう、瓦礫をどけてるとこ」
アリゼは微笑んでいるだけでなにも言わなかったが、アランが話している最中にふいにその腕を引っ張って頬にキスをした。
とたん、アランはテレッとしてアリゼを抱きしめた。アリゼはアランの顔にキスを降らせる。
フロランスにとってはもはや見慣れた光景だ。アリゼはフロランスを呼び出しては目の前でアランといちゃつくのが好きだった。
「やめろよ、アリゼ。こんな綺麗な子にキスされたら街中なのにニヤニヤしちまうだろ」
「うふふ、ニヤニヤしていいのよ?」
――綺麗だヨ、私の太陽。
ふいにグレゴワールの言葉を思い出してフロランスは赤くなった。言われたときはただ自己嫌悪と申し訳なさを感じるばかりだったが、考えてみれば身もだえしたくなるような言葉だ。貴族の男というのは恐ろしい。
「愛してるよ、アリゼ。お前のことは俺が守るからな」
「うん……私も愛しているわ、アラン。これからも私だけを見ていてね?」
――私がキミを守ろう、私の太陽。
次々に言葉が思い出されて胸がドキドキして、なにかよくわからない甘酸っぱい気持ちがわき起こる。お世辞でも甘やかだ。
フロランスはなんでもない風を取り繕うので必死になった。
と、アランの腕の中にいるアリゼがこちらを向いて困ったような微笑みを浮かべた。
「あら、義姉さん……ごめんね? 義姉さんの前でアランとこんなことしちゃって」
「気にしいだなあ、謝らなくていいんだよアリゼ」
「でもぉ……義姉さんに申し訳なくて」
アリゼはフロランスの顔色をチラチラ伺いながら優越感に嗤っている。
よくもまあ毎度同じことを言えるものだ、とフロランスは内心呆れた。フロランスとアランは恋人同士ではなかったのだ、遠慮するなと何度言い聞かせてもこうである。
要は当てつけだ。
いつもならフロランスは「気にしないで」と答えつつも苛々するのだが、今日は無言でアランとアリゼをまじまじと見てしまった。
目の前にいるアリゼはこのあたりで一番の美少女だ。アランは平凡顔だが優しくて次の名鍛冶屋だと評判高い。……それでも二人とも普通の若者にすぎない。
それに比べてグレゴワールは今までフロランスが見たどんな人間とも違っていた。貴族で、魔術師で、しかも死霊術師で、宮廷魔術師団の部隊長だ。気品があって、なのに不気味で生気がなく、誰よりもフロランスに甘い言葉をかけてくる。
――フロランス、屯所で待っているヨ。
グレゴワールのことで頭が一杯になって今や目の前にいるアリゼはどうでもいい。
(母さん……頑張れるかな? 行ってもいい、かな)
胸に下げた、母親の似姿を入れた古ぼけたロケットを握りしめる。
アリゼは目を見開いて珍しく顔を歪めた。アランは首を傾げた。
「お前、顔が赤い……もしかして好きなやつでもできたのか?」
「ええっ」
「声が裏返ってる、怪しい。秘密にするなんて水くさいなあ、フロランスは……え、まさか、あのマントのやつか?」
「なっ、いや、そうじゃなくって、違うから!」
別に恋をしたわけではない。
フロランスは必死で頭を横に振った。今日に限って妙に鋭いアランが恨めしい。
「うーん、それは応援しにくいな。王軍のエリートと俺たちじゃあ釣り合いが、なあ……」
「だから違うって!」
「そうよ……義姉さん、だまされちゃダメ。姉さんはその、まじめだから……男の人のこと、あまり知らないでしょう? 遊ばれておしまいよ」
アリゼは一瞬目を細めたが、すぐに眉を下げて心配しているような顔を作った。
フロランスはムッとして鞄を抱え直した。
「そんなんじゃないわよ。勝手な想像お疲れさま。私はもう行くからどうぞごゆっくり」
「そっか。ならそうするよ、へへ」
空気の読めないアランの声がやたら暢気に聞こえた。
***
その日の夕方、グレゴワールが屯所に戻るとローアンヌ軍の老いた兵士が部屋へやってきた。どうやら連絡係らしい彼は青ざめた面持ちで背筋をピンと伸ばしていた。
「フーシェ部隊長様! 伝言をお伝えしに参りました」
「誰からだい?」
「アリゼと名乗っていました。先ほどフーシェ部隊長様がお帰りになる前に来まして」
「ふうん」
グレゴワールは記憶を探ったがその名前に覚えはなかった。修道女でもないはずだ。
「記憶にないんだけどネ、どんな子だった?」
「若い綺麗な娘です、輝くような金髪の。うちの若いもんによると両替商のそばの酒場で働いているようです」
「ウーン。それで、なんだって?」
「それが、マントがなにやら……家族の不手際で、とかなんとか……また来る、と言って帰ったようです」
「……曖昧だネ」
「申し訳ありません! どうやら伝言を受け取ったやつがその娘を口説いていた模様で。以後このようなことは無きようにクレドー駐在軍一同気を引き締めて――」
「わかった、もう気にしないでいいヨ」
平身低頭で汗をかく老兵死にグレゴワールがひらりと手をふると、彼は足を引きずりながら脱兎のごとく逃げていった。