6.グレゴワールの本気1
王都、アルフェオン。
スミレの咲き誇るその都は若者なら誰でも一度は憧れる場所である。
吟遊詩人は歌う。大通りに沿って並ぶ立派な建物、行き交う豪華な馬車、手の込んだ美しいドレス、あっと驚くような劇や大道芸にスポーツ、金色の甲冑を着た衛兵たち。そこで交わされる愛の物語や心躍る冒険。
王都には若者の夢が詰まっていた。
あれはフロランスが12歳のときのことだ。
秋の刈り入れがほぼ終わり冬支度がそろそろ始まろうかというころに、村の代官が突然、村人を王都に送ると言い出した。王都で晩秋に開かれるその年の感謝祭には病気に強い作物が北方地方から出品されるとかいうことで、直接その買い付けをせよとのことだった。
代官は同伴者としてヴァンサンとほか数名を選んだ。そして身軽な旅の小間使いとして――実際のところはむしろ当時の代官の好意によるものだが――フロランスとアリゼに声がかかった。
二人は飛び上がって喜んだ。遊びに行くわけではないが、一日中仕事をせねばならないということもない。
夢に見た楽しいお芝居、頬が落ちそうになるようなお菓子、最先端のお洋服、見たこともないほど綺麗な貴婦人たち――。
アリゼと共に浮かれながらフロランスはこっそり祖父に会えないかと期待した。祖父の住所は母親の日記に書いてある。
ところが、その後が問題だった。
「長雨で途上の橋がいくつか流されたらしい。通行料があがるというんで一人しか連れて行けなくなった。これ以上、代官様の甘えるわけにもいかんからな」
そう困った顔で言うヴァンサンは、躊躇いなくアリゼを選んだ。
フロランスは呆気にとられた。
仕事ならフロランスの方ができる。能力で選んだのではないならば、せめて籤引きかなにか納得する決め方をして欲しかった。
「なんで私は連れて行ってくれないの?」
「二人は連れて行けないと言っただろう。それにフロランスだけを連れて行ったらアリゼが可哀想だろう」
「なら私は可哀想じゃないの!?」
叫ぶように言うと、エリーズはだだっ子を宥めるような調子で言った。
「アリゼちゃんは王都のお芝居やお洋服を楽しみにしていたのよ? フロランスちゃんは真面目だし、アリゼちゃんほど楽しみにしていたわけじゃないでしょう?」
「そんな……そんなことない……」
フロランスは頭を殴られたようなショックを受けた。
(なんで? なんでアリゼばっかり。可愛いから? 私は可愛くないからダメなの?)
フロランスもあれほど喜んだというのに、いったい両親はなにを見ていたというのだろうか。ヴァンサンもエリーズも王都に行くのはアリゼだと悩みもせずに決めたのだ。
違う、楽しみにしていたのだ、そう言いたいのに、自分を否定する家族を目の前にするといつも口がうまく動かなくなる。
「でもフロランスちゃんは綺麗なお洋服でもいらないってアリゼちゃんにあげちゃうでしょう?」
「そんなことしてない! アリゼが勝手に……」
「フロランス! いい加減にしなさい、お前は実際にあの服を着てなかっただろう! 雑に扱って捨てたのにアリゼのせいにするのはやめなさい」
あまり着なかったのは汚したくなかっただけだ。だがそう言っても信じてもらえなかった。
アリゼは下を向いている。一見すれば言い争いを静かにやり過ごそうとしているようだが、同じくらいの身長のフロランスから見れば笑いを堪えているのがよくわかった。
(なんで。どうして信じてくれないの)
フロランスは目に涙を溜めた。
「楽しみに、してたもん! お祖父ちゃんに会えるかもって――」
ヴァンサンは顔をカッと赤くした。
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
「あんなやつの話はするな! 言っただろう、あの男はお前の母親を捨ててクレドーから逃げたんだ」
「そんなこと言わないで!」
説教師だった祖父が妻子を置いてクレドーから去ったのは事実だ。だがそれには理由があったに違いないとカロルは言っていた。
けれどもヴァンサンはそうは考えていなかった。ヴァンサンはこの祖父のことを嫌っていた。
フロランスが悲鳴を上げるかのように叫んで涙をこぼすと、ヴァンサンは大きくため息をついた。
「なあ、フロランス。仕方ないことなんだ。意地悪を言っているわけじゃない……ティエリと一緒に留守番をしなさい。な? ちゃんと土産は買ってきてやるから」
「ね、姉ちゃん……、僕は一緒にいられて嬉しいよ」
ティエリが慰めるかのように言って、その話は仕舞いになった。
王都から帰ってきたヴァンサンはちゃんと土産を買ってきた。アリゼが買ってもらった首飾りと同じくらい綺麗な花をかたどった腕輪だった。
「ほらな、ちゃんと約束は守ったろう?」
ヴァンサンは得意そうにしていた。
けれども、フロランスの心は晴れなかった。
「それでそのときにね、舞台の端からさっそうと騎士様が登場したの……剣をね、こうさっと振って。お姫様に駆け寄ったのよ。本当にかっこよかったの!」
アリゼは楽しそうに王都の話をしていた。綺麗なお姫様を助ける騎士の舞台を見た、火を噴く大道芸を見た、行き交う人がみんな綺麗で、食べたお菓子も舌に乗せたらふんわり溶ける……。
楽しい思いをしたアリゼが妬ましくて、自分が惨めで、悔しくて仕方がなかった。
そんなフロランスに、アリゼは例の困ったような笑顔で言ってのけた。
「ごめんねえ? アリゼだけが王都に行っちゃって」
「アリゼちゃんのせいじゃないのに優しいわねえ。良い子、良い子」
唇を噛みしめるフロランスにも気がつかずに、エリーズはそう言ってアリゼの頭を撫でた。
六年経った今でも、その日のことをフロランスはよく覚えている。
***
襲撃の翌朝、フロランスがクレドー女子修道院の跡地に着いたころには、元気な修道女たちが忙しくあちらこちらを片付けて回っていた。敷地は焼けて真っ黒になり鐘楼塔も崩れて惨憺たる有様だが、とにかく人はみな無事だ。
ボリー女子修道院長は折れて地面に横たわった柱の上に腰をかけて煤だらけになった銀杯をせっせと磨いている。
一人の修道女がフロランスを見つけて声をあげると、他の者たちも一斉に歓声を上げて次々とフロランスを抱きしめに来た。
ボリーまでもが杖をついて近寄ってくる。
「フロランス! よかった、あなたも元気そうですね。昨日は本当にありがとう。あなたがいなければ私は今頃マニエットの元へ旅立っていたわ」
「……きっとマニエットがまだその時ではないとお考えになったのだと思います」
謙遜しつつも心がぽっと温かくなる。女子修道院の建物は燃えてしまっても、修道女たちがいればそこにはフロランスの居場所があった。
フロランスは素直な謝辞に照れくさくなった。
(人助けなんて偉そうなもんじゃないわ)
フロランスは大事な人を、大事な居場所を失いたくなかった。ただそれだけだ。
「ボリー先生、お足の具合はどうですか」
「大丈夫ですよ。まだ痛むけど大したことはありません」
フロランスはボリーに肩を貸して元の場所へ座らせた。それを合図にみなまた散り散りになる。使えるものを拾い集めて、洗って、することはたくさんある。
ボリーは磨いていた銀杯を持ち上げてみせた。
「これは書庫に埋もれていたのよ。最初に山賊が押し入ったのはあそこだったでしょう、盗られなかったのは奇跡なのでしょうね。この資金難ですからなおさら有り難いことだわ」
「資金難……ボリー先生、しばらくトゥールの女子修道院に移動するって本当ですか」
「ええ、そうしようと思っています。再建が終わるまで家を借り続ける費用はありませんし、野宿というわけにもいきませんからね」
フロランスが顔を曇らせると、ボリーは銀杯を置いて両手でフロランスの手をぎゅっと握った。
「フロランス。一度だけ言わせてね。あなたも修道女になって一緒に来ない? あなたは働き者で信心も厚いわ。ぜひ私たちとトゥールに来てほしいのよ」
フロランスは泣きそうになった。
認めてもらえることがなにより嬉しい。それはずっとフロランスが飢えているものだから
それなのに素直に受け入れられない。
(私はボリー先生が思うほど清くない)
胸の奥に苦いものが生まれた。
「ありがとうございます、ボリー先生。私こそ、本当に」
フロランスは目を閉じた。
修道院で熱心に働くのはそこではアリゼと比べられることがないからだ。ボリーが言うように信心が厚いからではない。修道女と同じく修道院を拠り所としていても、フロランスにとってはルケルヴェ教そのものが大事なわけではない。修道女たちとフロランスの間には決定的な違いがあった。
だから修道院はフロランスの大事な居場所ではあるが、フロランスがずっと居ていい場所ではない。仮初めの宿り木にすぎない。そんな思いがある。
(……結局、私はアリゼに負けたのね。家族としても女としても)
村で居場所を失い、街でも追い詰められ、修道院を見つけ、だが一生を神に捧げる覚悟もなく、母親の面影を求めて祖父を探す希望を捨てられない。
アリゼは自分の望みのためならばなんでもする。不細工でいやらしい男の頬にキスをして高価な耳飾りを強請っているのも見たことがある。
だがフロランスにはそこまで徹底できない。
(ほんとに中途半端ね、私は)
フロランスは自嘲した。
だがボリーは優しく微笑んだ。
「では、否ということですね」
「ごめんなさい……」
「いいえ、いいのですよフロランス。私はあなたに自ら望む道を行ってほしい。この先どうするつもりなのか聞いても?」
「実は、私たちを助けて下さった魔術師様に王都で働かないかと誘われたんです」
「まあ、それは」
フロランスは言葉を切って視線をうろうろと彷徨わせた。
「ボリー先生。私、行ってもいいと思いますか?」
「ええ、もちろん。好機ですわね、お祖父様に会いに行きたいんでしょう?」
「そうなんですけど……私でも役に立つのかなあとか、大丈夫かなあと不安になってしまって」
フロランスがぼそぼそと呟くと、ボリーはにっこり笑った。
「大丈夫。あなたはあなたが思っている以上に働き者で有能です。それに、あなたがここで働きたいと言ったときも今と同じくらい不安そうな顔をしていたわ。でも大丈夫だったでしょう?」
「……はい」
フロランスが子供のようにこっくり頷くと、ボリーはパンパンと手を打った。
「さ、フロランスも手伝って頂戴。書庫の方はまだ瓦礫の山だからまだ中に掘り出し物が残っているかもしれないわ」
フロランスは気を取り直すと瓦礫に躓かないように気をつけながら書庫へ向かった。
と、修道女たちが何人も書庫にちらちらと視線を送りながらも遠巻きにしているのが見えた。フロランスもつられて、壁が崩れて空いたところから書庫の中をのぞき込む。
(まっ……魔術師様ー!?)
そこにはなぜか例の怪しげな笑顔を浮かべるグレゴワールがいた。フードを目深に被っているが、妙に生々しい生気の無い肌といい、顔色の悪さといい青白い唇といい、あの溢れ出す死体感はグレゴワールに間違いない。あんな強烈な見た目の魔術師が二人いるとは思えない。
彼は焼け落ちた書棚や壁を熱心に調べているようだった。
フロランスが突っ立っているとジョゼが近寄ってきた。
「あの方、宮廷魔術師団の死霊術師様なんですって」
「うん、知ってる。昨日危ないところを助けてもらったの」
「そうだったの」
ジョゼは目を丸くしている。
いつの間にか書庫の周りにいた修道女たちはフロランスの背後でひとかたまりになり、後ろからのぞくようにしてグレゴワールを遠目で見ている。
フロランスは首を傾げてジョゼに尋ねた。
「ねえ、なんでみんな遠巻きにしてるの。書庫の中は片付けなくていいの?」
「そうじゃないけど……だって死霊術師様でしょう? 恐れ多くって近寄れないわ」
「あなたたちは?」
フロランスが後ろを振り返ると修道女たちは小声で口々に言った。
「まさか死霊術師様がいらっしゃるなんてね……」
「私はちょっと、見た目が怖くて」
「ま、失礼なことを言っちゃいけませんよ」
「なによ、あなただって言ったじゃない」
修道女たちが騒いでいるのに気がついたのか、グレゴワールが顔をあげた。
修道女たちは一斉に口をつぐんで跪拝をする。死霊術師は特に彼女たちにとっては重要な存在であるから当然なのだが、フロランスだけは反応が遅れた。
目が合った。
フロランスは固まった。
濃い隈に縁取られた、どろりと濁った闇よりも深い目には底なし沼のようになにかを引きつける力が合った。無礼はいけない、お辞儀をしなければ、そう思うのに目が離せない。
彼は怒りもせず手招きをした。
フロランスは腹をくくって崩れた壁のところから書庫へ侵入し、グレゴワールの元へ参上した。
グレゴワールは長身を屈めてフロランスをのぞき込んだ。
「やあおはよう、フロランス」
「お、おはようございます、フー……じゃなくて、ええと、グレゴワール卿?」
「畏まったのは好きじゃないんだヨ。もう少し柔らかく」
「グレゴワール部隊長様? グレゴワール様?」
「もう一声」
「……グレゴワールさん?」
恐る恐る口にすると、グレゴワールは満足げにニンマリして右手の指先を擦り合わせた。
(本当に、変わった人ね)
フロランスはグレゴワールを見上げた。
変わっているのは見た目だけではない。普通は貴族なら敬われるのが当たり前、より権威的に振る舞うのが家のためでもある。だがグレゴワールはその正反対を行っている。
「身体の状態を見るヨ」
グレゴワールはさりげない仕草でフロランスの頬に手を当てた。覚悟をする間もなくトロリと何かが身体を伝い、くすぐったいような弱い痺れが全身に走って、フロランスは思わず「あっ」と声をあげた。
身体がカッと熱くなる。
「はっ……はあ、グ、レゴ、さん」
「もう少し。……ウン、捻挫はきちんと治ったようだネ」
グレゴワールは頬をひと撫でして手を離した。痺れはすぐに消えた。
フロランスは両手で胸を押さえて必死で呼吸を整えた。なぜかグレゴワールに赤裸々に素の自分を見られてしまったような気がして、恥ずかしくて仕方がない。
「……ふ、う……あの、これは魔法なんですか?」
「というほど大したものではないかな。私の魔力をキミの身体に張り巡らせて身体の反応を見るんだヨ。それで健康状態がわかるんだ」
「すごい……そんなことできるんですね」
「死霊術師は人体に詳しいからネ」
フロランスは自分の頬を押さえた。そこに残ったグレゴワールの大きな掌のぬくもりが気恥ずかしくて、ただの診療なのに恥ずかしくなってしまうことがまた一層恥ずかしかった。
フロランスは話題を変えることにした。
「すみません、マントをお返しするのは明日でもいいですか? まだ乾いていなくて」
「気にしなくていいヨ、たいしたものじゃない。それよりも考えてくれたかい? 王都の話」
「あ、の。本気と受け取っていいんですよね」
「もちろん」
王都。
フロランスの祖父の故郷にして、いつか祖父に会いに行こうとカロルと約束した場所。ずっと行きたかった場所。
ふと脳裏にヴァンサンがかつて王都土産で買ってきた腕輪が浮かんだ。フロランスはヴァンサンの前でそれを身につけたが、ヴァンサンがいなくなるといつも袖の下に隠した。見ればアリゼが妬ましくなるから。
……けれども、今度こそ、フロランスは王都に行ける。
気がつけば闇色の目が目前にあって、フロランスははっとした。
「すみません、つい考え事を――」
「フロランス。不安かい? キミが一緒に来てくれるのならば私がキミを守ろう、私の太陽」
唐突な、まるで騎士の誓いのような言葉に、フロランスは一瞬なにを言われたのか理解できなかった。
(た、たいよう……?)
グレゴワールは怪しげにニタニタと笑った。その様子は、やはり騎士からはほど遠かった。