5.思惑
フロランスは濡らした手ぬぐいをアランの顔に押しつけて胡散臭そうに見た。
「なんで窓から? お忍び? アリゼなら家族と一緒よ」
「ち、違うよ。扉の前で親父が酔っ払って寝てたから窓からしか出れなかったんだ」
「……そこまでしてどこ行くの。今日は月明かりも朧だし危ないんじゃない?」
「ヴァンサンさんの大声が聞こえて、外から誰かの足音がしたから。フロランスがまた家出したんじゃないかと思って」
フロランスはアランが心配そうな顔をしていることにようやく気がついた。
そういえばフロランスが家族と喧嘩して家を飛び出すといつもアランは気がついてくれた。女心には鈍いが優しい男なのだ。
その優しさはアランがアリゼと婚約してからも変わらなかった。他の男のようにフロランスを貶めてアリゼを褒めることもなければフロランスを理不尽に非難することもなかった。アリゼからフロランスの悪口を吹き込まれているだろうに。
だから警戒したのかアリゼは婚約以来アランとフロランスが二人になることを極度に嫌がった。
こうして二人きりで話をするのは久しぶりだ。
アランはほっとした顔でフロランスの横にしゃがみ込み、フロランスの肩をぽんと叩いた。
「家出じゃなかったんだな。……それにホント無事でよかった。あの大騒ぎの中、修道院のことを聞いて青くなったよ」
その素直な思いにささくれだった心が癒やされて憤りは徐々に収まっていく。
フロランスは怒りをはき出すように大きく息を吐いて微笑んだ。
「ありがと。心配かけてごめん」
「いいって、フロランスは悪くないだろ。とにかく怪我もしてないみたいだし、それがなによりだ」
フロランスは悪くない。そんな単純な言葉が今はとても嬉しかった。
アランは地べたに座り込んで空を見上げた。
「昔はよくこうやって二人で星を見たよなあ」
「うん。懐かしいね」
フロランスも手を動かしながら日が落ちたばかりの空を見上げた。あいにく星は見えないが、雲間からときおり半月が顔を覗かせるのが綺麗だった。
フロランスとアランは幼いころからずっと仲良しだった。フロランスが母親を亡くして泣いていたときもアランが一緒だったし、アランが父親の鍛冶屋を継げずに落ち込んでいたときもフロランスが側にいた。そして、こっそり家を抜け出して二人で星を見たのだ。
狭い村の中で毎日を精一杯生きていたあのころ。今は二人ともクレドーで働き、アランの横にはフロランスではなくアリゼがいる。
そして、フロランスはあの魔術師に出会った。
フロランスはアランの横顔を見つめた。
……普通である。どこを取っても。夜目にも顔色はいい。墨を塗ったような隈もない。ぱっくり裂けそうな口もないし、ランプの光がちらちら顔に影を落としても不気味さの欠片もない。
あの魔術師は屋内でも屋外でも、なにをしていても異様な雰囲気を醸し出していた。そこにいるだけで体からあふれ出す禍々さに絡め取られて窒息してしまいそうな雰囲気を。様々な荒くれ者を見てきたであろうローアンヌ軍の衛生兵が畏怖するような。
そのくせ、彼はただの村娘を手当てしたりする。
フロランスは彼を優しい人だと思っているが、彼の本心がどのあたりにあるのかは全く読めなかった。単純明快なアランとはある意味正反対だ。
アランは盥に顔を近づけて目をすがめた。
「フロランス、それなに洗ってんだ? 銀粉みたいにキラキラしてて綺麗だな」
「う、わっ! 洗いすぎたかも!」
フロランスはマントを慌てて盥の水から引き上げた。上質で繊細な毛織物のマントだったが、それは幸い何事もなく美しいままだった。
「なんだこりゃ、マント? どうしたんだこれ。うちの上客でもこんないいの着てないよ」
「王軍の人のなのよ。服が破れているから着ていきなさいって貸してくれたの」
「おまえ、そこまで酷い状態だったのか!?」
青ざめたアランに、逆にフロランスが慌てた。
「大丈夫、二の腕のところが少し破けただけ。でも心配してくれたみたいで」
「その人、貴族か?」
「たぶんね」
フロランスのような村娘は二の腕が多少露出しようとも気にしない。だがグレゴワールにはその感覚がわからず、貴族の娘にするようにフロランスに気を遣ってくれたのだろう。
フロランスは柔らかな手触りのマントを丁寧に押して水を絞りながら考え込んだ。
(行っていいのかな、一緒に)
フロランスははっきりと迷っていた。
宮廷魔術師であるグレゴワールの身分は明らかだし仕事も犯罪的なものではないだろう。だが、いざ誰も知り合いのいない王都へ一人で行くとなると心許なくて躊躇ってしまう。
墓場から這い出た魔物のような姿をしたグレゴワール。不気味さと裏腹の優しさ。土気色の命の恩人。
(……仕事、死体を掘り起こせとか死体を買ってこいとか言われたらどうしよう)
さすがにそんな作業は「雑用」には入っていないと信じたいが、相手は死霊術師である。
「ねえ、アラン。私が王都に行くって言ったら反対する?」
「えっ王都ぉ!?」
「しーっ、声が大きい!」
アランは目を白黒させて両手で口を押さえた。
フロランスは祖父を探す話をアランにはしていない。普通、村の人間は村のそばで一生を終える。村娘が自分の望みのために王都へ行くというのはフロランスたちにとっては通常では考えられぬことなのだ。第一、他領へ行くには領主の許可が必要だ。アランが驚くのも無理はなかった。
アランは恐ろしいものを見たような顔で尋ねた。
「フロランス、まさか旅に出るつもり?」
「放浪するつもりはないわよ、さすがに。……ちょっと聞いただけ。忘れて」
「わかった。マントも大事だけど早く寝なよ。疲れてんだろ」
「うん、ありがとう」
明日はすることがたくさんあるだろう。修道院の片付けを手伝って、それからトゥールへの移動の話も確かめなければならない。
王都へ行くかどうか悩むのはその後で良い。
フロランスはマントを盥に入れて立ち上がった。
***
フロランスが屯所から去った後、グレゴワールはしばし部屋に立ち尽くした。
右手を当てた血色の悪い唇には深い笑みが浮かんでいた。そして思わず心の声が漏れたというように独りごちる。
「フフッ、あの子。フロランス、か」
修道院で山賊に襲われているところを間一髪で助けた村娘。そのときは煤で全身が汚れていて顔もよくわからぬほどだったが、最後は安心した子供のような顔で笑って気を失った。
その子がまたわざわざ自分の元へ礼を言いに来るとは思いもしなかった。
「……フフ、アッハハハハハ!」
グレゴワールは一人、獲物を弄ぶ魔物のような顔で声をあげて笑った。
ここまで笑うのは久しぶりだった。腹の底がくすぐったくて仕方が無い。
フロランスの驚いた顔、そして目を輝かせ真っ直ぐにグレゴワールを見る満面の笑み。
「……ククッ……ああ、これは良い気分だ」
グレゴワールがニタニタと笑っていると、しばらくして唐突に裏通りに面した方の窓が開いた。そこから音もなくするりと一人の男が滑り込んでくる。
ここは四階だというのにグレゴワールは驚きもしなかった。
「やあ、ジェレミー。お疲れ様」
その男――ジェレミー・クレメールは、部屋に入るとぶるりと狼のように体を振るわせて背筋を伸ばした。
彼は身長こそ平均的だったが鞭のようにしなやかで引き締まった体つきをしていた。身体にぴったり添う漆黒の衣服を着、フードを被った彼の目つきは非常に鋭く、無表情で、彼はさながら暗殺者のようだった。
ジェレミーは部屋を見回すとスンスンと鼻を鳴らした。
「なんだ、やけに女の臭いがするな。玉の輿狙いの女でも押し掛けてきたか?」
「……キミ、相変わらず異常に鼻がいいネ。そうじゃないヨ、例の修道院の子さ」
「事情聴取をした……だけではなさそうだな。なにかあったのか」
グレゴワールは目を細めて指先を擦り合わせた。
「ウン。ついに『太陽』を見つけたみたいなんだ」
「なに」
ジェレミーは目を見開いた。
グレゴワールはうっとりした顔で左手で右の掌を撫でている。そこに残った感触を楽しむように。
「本当か? もう少しよく様子を見た方が」
「いや、彼女だヨ。まさかこんなところにいるとはねェ」
ジェレミーは目を細めると、元の無表情に戻り、フードを取って黒髪を掻き上げた。
「ならいい。大きな収穫だったな。それで、どうするつもりだ?」
「実は私の太陽……フロランスに魔力を流したんだ。幸い健康そのものだったヨ。……その間にいろいろ聞き出せたしネ」
「王都に連れて行くのか」
「ウン。もう誘いをかけた。彼女は必ず頷く」
グレゴワールは自信たっぷりに言う。
ジェレミーは「そうか」と呟くと懐から畳んだ報告書を取り出してグレゴワールに押しつけた。
「昼のことだがな。やはり先の攻撃はローアンヌ軍の注意を引きつけるための陽動と見るべきだろう。別件ではない」
「ウン。女子修道院を襲撃した山賊が『足止め』と言ってたそうだよ」
グレゴワールは報告書を開いて目を落とした。
今日の昼間に襲撃されたのは実はクレドー女子修道院だけではない。クレドーを挟んで修道院とは反対側にある小さな村の一つが修道院より先に山賊の襲撃を受けていた。クレドーのローアンヌ軍はそちらに派兵していたのだ。
それに加えて、クレドーの役場にも暴漢が侵入して大騒ぎになっていた。
「確定だな。……また先手を取られたか」
ジェレミーの口調に苦いものが混じる。
最近このヴェルネ王国内で頻発している修道院の襲撃にはいくつか特徴があった。一つは、交易の盛んな国の東側で起きているということ。もう一つは、襲われた修道院がみな闇の神を主神としていたということだ。
ヴェルネの民が信仰するルケルヴェ教は、光の神リュエノーと闇の神マニエットを中心とした宗教である。多くの修道院はその二神を主神として祀っているが、クレドーのように一カ所に複数の修道院がある場合は、各修道院がリュエノーかマニエットの一方のみを主神とし役割分担をすることがある。
クレドーでは、クレドー修道院がリュエノー、クレドー女子修道院がマニエットを祀っている。
グレゴワールはすっかり真面目な顔になって暗い色の目を光らせた。
「修道女の子によれば巷ではバクトラ人が犯人だと言われているそうだヨ」
「なんだと。俺は聞いたことがないぞ」
「そう、王都では聞かなかったんだけどネ」
「根拠は?」
「噂だから。ただ、ルケルヴェ教徒でもないバクトラ人がマニエット派の修道院を指して興奮して怒鳴っているのが各地で目撃されていると」
バクトラ人とは東の大陸にあるバクトラ帝国から来た者のことを指す。ヴェルネの民よりも肌が浅黒く、近年は新しい商品を求めてヴェルネへ来るバクトラ商人が増えていた。
ヴェルネの民とは別の宗教を信奉している彼らにとって、マニエットの守護する闇や死は不吉でしかない。
ジェレミーは無表情のまましばし何かを考え込んだが、頭を振った。
「もっと情報が必要だな。とにかく頼まれていた手配は完了した。大樽に詰めて馬車の中だ。役人の目を掻い潜るのは骨だったぞ」
「悪いネ。私がしようにも目立っちゃって」
「……だろうな。そっちの首尾はどうだ、鼠の尻尾は掴めたか」
「魔力の痕跡は見つけたヨ」
「誰の魔力だ」
グレゴワールは横に首を振った。
ジェレミーは頷いた。首を傾けてゴキリと鳴らし、フードを被り直して窓枠に手をかける。
「じゃあ俺は行くぞ」
「ウン。『仕事』のことはくれぐれも内密にネ」
「ああ」
ジェレミーは身を翻すと軽業師のような身のこなしでするりと窓を潜り抜け、外の闇に溶けて消えた。
***
翌朝、日が地平からすっかり顔を出してからアリゼは目を覚ました。外の鶏や牛の声が五月蠅い。家族はみな既に働きに出ていて、家の中は静まりかえっていた。
寝台横の窓を開けるとロープに漆黒のマントが干されているのが見えた。
(……妙ね)
そのマントはかなり上質で、アリゼが代官の息子から贈られた上等なドレスとも比べものにならなかった。いくら王軍所属とはいえ一兵卒の持ち物とは思えない。
しかも、それほど高価なものをただの村娘に貸したりするものだろうか。
(王軍のお偉いさんに義姉さんが見初められた? ……まさかね)
アリゼは自分でその考えを打ち消した。どうせ気まぐれか、あるいはフロランスに助けられたなどの理由があるのだろう。
(……どっちにせよ不快だわ。藁みたいな髪の間抜けのくせに)
地位の高い人間にフロランスが親切にされたということが、アリゼも着たことのないような良いものをフロランスなんかが着ているという事実が、アリゼにはとても許せなかった。