1.襲撃
修道院を飲み込んだ炎は唸り声をあげて空に立ち上がった。火の粉が飛び、納屋の藁葺き屋根に移って更に燃え上がる。敷地で飼われていた鶏や牛は悲鳴をあげて闇雲にあたりを駆け回った。
空に垂れ込めるぶ厚い雲は赤く染まっている。ぱらぱらと降る雨にも火勢は衰えない。
――と、修道院の中から煤けて黒くなった娘が飛び出してきた。
その娘、フロランスは左腕に老いた修道女をしっかり抱えており、外へ出たとたん激しく咳き込んで涙を流した。修道女の右足からは血が流れ地面に黒い染みを作っている。
近くの木陰から別の若い修道女が顔を覗かせて二人を手招きした。
「ボリー先生、フロランス! よかった!」
「ごほっ……ジョゼ!」
フロランスは足を引きずるボリー女子修道院長を抱え上げるようにしてジョゼの元へ走った。
「二人ともこっちへ、早く」
「けほっ、う……、あいつらは?」
「まだうろついてる。みんなは森の中よ」
三人は急いで修道院脇の森へ逃げ込んだ。
鬱蒼とした森の暗がりでは何人もの修道女たちが震えながら身を縮こまらせていた。みな汚れて怯えた顔をしていたが三人を見ると次々に立ち上がった。
「ああ無事だった!」
「フロランス、やり遂げたのね。おお、神よ……」
修道女たちは次々にボリーとフロランスを抱きしめ、手を組んで神に感謝を捧げた。
フロランスは顔を綻ばせたが修道女たちを見回して眉を上げた。人数が足りない。
「ねえ、ジョゼ。二人いないけど、どこ?」
「わからない。さっきから山賊が井戸の方に向かうから、もしかしたらそこに……」
ジョゼはボリーの手当をしながら沈痛な面持ちで答えた。
フロランスは息を呑んだ。
このクレドー女子修道院を襲撃した山賊はみな武装し大鉈や戦鎚を手にしていた。しかも人数も少なくない。
もし修道女が山賊に見つかればどうなるかわからない。
「私、探してくる」
フロランスが身を翻すと、ジョゼはぎょっとしてフロランスのスカートを掴んだ。
「無理よ!私だって行きたいけど……勝てっこないわ」
「戦うつもりはないわ。でもどこかで怪我して動けないのかもしれないでしょ、それなら」
「あいつらが例のやつらだったら、そしたら、今度こそ、もし見つかったらフロランスが……」
ジョゼは言葉を詰まらせた。
最近、ここローアンヌ地方やその周辺地域ではルケルヴェ教の修道院が襲撃される事件が相次いでいた。この未だかつてない不敬な行為はルケルヴェを厭う蛮人によるというのが専らの噂だった。彼らは恐ろしく残虐で、ルケルヴェの修道士たちの殲滅を目論んでいるという話すらある。
ジョゼの切言はもっともである。
フロランスは手を握りしめた。
(でも)
胸がずきずきと痛い。
修道女たちはみな優しかった。村から毎日逃げるように修道院へ来るフロランスを受け入れ、修道女見習いでもないのに雑用として雇い、世界を語り、希望を捨てるなと諭してくれた。
クレドー女子修道院はフロランスにとって唯一の居場所であり、修道女たちは心の拠り所だった。大事な大事な人たち。
フロランスは強ばった顔にむりやり笑顔を浮かべ、着ているチュニックを引っ張った。
「私は修道服着てないしホントにただの村娘よ。みんなよりは安全でしょ?」
「そうだけど……ねえフロランス、助けに行って自分が殺されたら仕方がないわ。それに、きっともうすぐローアンヌ軍が来てくれる」
地方都市クレドーはここからほど近い。となれば火事の煙を見て異変を知った代官がすぐにクレドー駐在の領軍――領主所有の軍を意味する――ローアンヌ軍を送り込んでくるはずだ。
(でも……、待ってたら間に合わないかもしれない)
フロランスは少し考えてから頭を振った。
「軍がすぐ来るならなおさら行っても大丈夫よ。でしょ? 隠れながらいく。気をつけるわ」
「フロランス……」
ジョゼは青い顔で黙った。
黙っていたボリーはため息をついてフロランスに祈りを捧げた。
「申し訳ないと思っているわ、フロランス。あなたにばかり危険なことをさせて」
「ボリー先生、私が勝手に行くんです」
「いいえ。どうか気をつけて、無理はしないで。あなたに光の神と闇の神のご加護がありますように」
「ありがとうございます」
フロランスは身をかがめて静かに森の中を移動した。息を殺し、耳を澄ませて。
まもなく、井戸の方から山賊の下品ながなり声が聞こえた。
「ぎゃはは、テメェこんな年増女が趣味かよ」
「るせえ! 売れば金になんだろ」
「連れてくつもりか?」
あたりには煙が立ちこめ、森の中からではそちらの様子はわからない。フロランスは慎重に森から出、火の燻る鶏小屋や納屋に隠れながら声のする方向に近づいた。
貯蔵庫の角から覗くと井戸のそばで修道女が二人座り込んでいるのが見えた。五人ほどの山賊に囲まれて逃げ場がない。
山賊は修道女の一人を足蹴にした。
「バカ野郎、ババアが売れっかよ」
「あ? 売れんだろ」
「わざわざ連れてくほどの値段にはなんねえだろうが」
「なら殺すか。たまにはいいだろ」
フロランスは青ざめて唇を噛んだ。
山賊と戦うのは無謀だ。だが時間が無い。なんとか修道女を逃がすか、せめてローアンヌ軍が来るまで場を持たせなければならない。
いい手立てはないか、あたりを見回す。
「まずは試し切りからだ」
「おら、神に祈っとけ」
「神様お助けをー俺たちに天罰をーってか、ぎゃははは!」
一人の山賊は修道女の前で大鉈を手に肩を回し始めた。修道女は涙をこぼして震えている。
(――そうだ!)
フロランスは足下に転がる燃えた木切れを拾い上げた。それを大きく振りかぶって放り投げる。目指すは井戸から少し離れたところにある壊れた壺の山だ。
無意識のうちに指を組んで祈る。
(当たれ、当たれ、神様……っ)
ガチャン。
宙に弧を描いた木切れは見事に瓦礫の上に落ち、壺の破片が大きな音を立てた。
「誰だ!」
山賊たちはさっと身構えて瓦礫の方を向いた。
「領軍か?」
「まだ足止めされているはずだ」
警戒心を露わにした山賊たちは修道女から意識を反らした。
フロランスは覗き見ながらほっと息をついた。
まずは成功だ。後はローアンヌ軍が来るのを待てば――
「んだよ、若いのもいんじゃねえか」
しまった、と振り返ったときには既に遅かった。別の山賊が二人、斧を手にフロランスに迫って来ていた。
フロランスは後じさった。逃げ道がない。背筋に汗が伝う。
山賊はニヤニヤ話しながら悠々と距離を詰めてくる。
「どっちが先だ?」
「俺だ。前は先ヤらせてやっただろ」
「チッ、しゃあねえ。ジャン、一秒で終わらせろよ!」
「テメェとは違うんだ……おい女ァ、殺されたくなかったらじっとしとけ」
山賊は斧を持ち上げてちらつかせる。刃先に赤い血と褐色の牛の毛が付いていた。
その生々しさを目の当たりにした瞬間、フロランスは猛烈な恐怖に襲われた。何か手を考えなくてはと思うのに頭は真っ白で、ただ膝ががくがくと鳴る。立っているので精一杯になる。
怖い、怖い、怖い――。
ジャンと呼ばれた山賊は斧を地面に落とし、フロランスの目の前でにやけながら自分のズボンに手をかける。
「かわいそうに、こーんなに震えちまって」
「おおー子猫ちゃあん、俺たちと楽ちいことちまちょうねえ」
「優しくしてやっからな。俺様が相手で運が良かったなあ?」
「神様のご加護だな、ぎゃははは!」
山賊の汚れた手が伸びてくる。
(領軍、早く、お願い)
フロランスは胸の前で手を握ってぎゅっと目を瞑った。
助けて、神様、母さん――……!!
次の瞬間、鈍い音が二回鳴った。
山賊はフロランスの体に触れてこない。
フロランスは恐る恐る目を開いた。
すると二人の山賊は焦点の合わない目を宙に向けていて、そのまま頭から血を流して崩れ落ちた。
体を強ばらせていたフロランスは山賊が倒れて開けた視界の先を見、息を呑んだ。街道へ続く小道の真ん中になにかが立っている。
(――死体?)
おかしなことに、そう考えるのが自然に思えた。
フロランスはぽかんと口を開いた。
それは痩身長躯の若い男の姿をしていたがまるで生気が無い。肌は土気色で、落ちくぼんだ目の下は濃い隈で縁取られ、薄い唇は乾いて血色が悪い。肩まで付くほどの黒髪はうねり、湿気たように顔に張り付いている。
まるで墓場から起き上がった死体だった。
修道院を包む炎がいっそう激しく燃え上がった。火の粉と煤が舞う。煙で視界が悪い。熱気が肌を焼く。
ごう、と風が吹いた。
男の纏うローブがはためき、黒が広がる。
男は顔に愉悦を浮かべ、その唇はニイと弧を描いている。まるで生き血を啜る吸血鬼のような不気味さで、流血と殺戮を前にした魔王のごとく狂喜している。
フロランスは唾を飲み込んだ。
(まさか――……人型の魔物?)
人狼や吸血鬼、蛇頭をはじめ魔物の存在は流行に疎い村の子でも知っている。吟遊詩人は冒険物語を歌っては繰り返すのだ、人の姿をした魔物に気をつけろと。触れればわかる、氷のように冷たいその体、と。
――逃げなければ。
そう思うのに、目が離せない。
男は両腕を広げ、宙に投げた見えない網をたぐるように奇妙な格好で手を動かしている。
炎の轟音に混じって、後ろの井戸のあたりから山賊の叫び声が聞こえた。武器がぶつかるような高い金属音が響く。
「やめろ、俺だ! くそっ」
「なんだいきなりっ、この裏切り者!」
「畜生ふざけんな!」
振り返って様子を見ようとしたそのとき、倒れていた眼前の山賊が肩を揺すりながら起き上がった。
フロランスは悲鳴をあげて後じさった。
「ひっ!」
背中が修道院の貯蔵庫の壁にぶつかる。もう下がれない。フロランスはずるずるとしゃがみ込んだ。
が、山賊の顔を見たフロランスは今までとは別の意味で戦慄した。
(なに、これ……)
山賊は二人とも白目を剥き、顎が外れたかのように口を開いていた。両腕をだらりと垂らし、背中は曲がり、足は外を向いている。まともな状態ではない。
山賊は体を揺らすとフロランスには見向きもせず仲間の下へ走り寄り、斧を大きく振りかぶった。
「ジャン! お前もかっ……ぐあっ」
斬りかかられた山賊は肩から血を流して倒れ込む。
奇怪な様子の山賊とそうではない山賊が仲間割れをして争っている。火の粉に混じって血が飛ぶ。
(なに……なにが起きてるの)
フロランスは息を詰めて成り行きを見守った。井戸のそばにいた修道女二人も抱き合って固唾を呑んでいる。
「大丈夫かい?」
間近で柔らかな声がしてフロランスは飛び上がった。
振り返ると土気色の肌をした例の男がいつの間にか近くにおり、ニタニタと得体の知れない笑みを浮かべていた。男はまだせわしなく指を動かしている。
フロランスは目をまん丸にして、しかしなにも言うことができずに硬直した。
――どうしよう。
フロランスは男をただただ見つめた。漆黒の目と目が合う。まるで深淵を飲み込んだような瞳。
男はこの上なく不気味なのに、怖い物見たさというやつなのかフロランスは目を反らすことができなかった。
ひときわ大きい山賊の怒号が響いた。
「逃げろ、軍まで来やがった!」
「ばかなっ」
「領軍じゃねえ、王軍だ!」
「んだと!?」
混乱の中、土気色の男の背後遠くから、小道をまっすぐこちらへ駆けてくる騎兵隊が見えた。旗印は赤地に双頭の金獅子。王直属の軍だ。
先頭を走る騎兵が剣を抜いて高く掲げた。
「いたぞ、かかれ!」
土煙を巻き上げ地鳴りを轟かせ、騎兵隊は逃げていく山賊の背中に襲いかかった。
土気色の男は横目でちらりと騎兵隊を見た。そのとたん奇怪な動きをしていた山賊たちは糸の切れた繰り人形のように地面に倒れ伏す。
男は逃げるそぶりもせず、騎兵隊もまた男を気にする様子はない。
(もしかして、王軍の人……魔物?)
男は薄ら笑いを浮かべたままフロランスをのぞき込んだ。
「立てるかい」
「……は、い」
「おいで」
男は目を細め、節くれだった大きな手を差し出した。面妖さに反して所作は紳士である。
フロランスは少し躊躇ってからそっと手を伸ばした。恐る恐る触れた掌は固く、体温は低めだが温かい。
……死体でも魔物でもなかった。
「怪我はない?」
「はい。ありがとうござい、ま……」
全身から急速に力が抜けていった。ぷつりと緊張の糸が切れ意識が遠くなる。体が傾いで、フロランスはそのまま男に向かって倒れ込んだ。
フロランスが最後に見たのは驚いたように目を見開いた男の顔だった。