13.とある男の記録
本日2017年10月2日、11話を大幅に加筆修正しました。また、12話の最後のエピソードを13話へ移動し、それに伴い12話に新しいエピソードを挿入しました。まだ読んでいない方はそちらからどうぞ。
夕方、仕事を終えたマクシム・ジョスランはフードを目深に被ってクレドーの酒場に入った。
マクシムは通った鼻梁にきりりとした眉、意志の強そうな青い目を持ち、唇に傲慢な笑みを浮かべる様は非常に男前な若者である。癖のある褐色の髪が額にかかる姿には色気があった。彼の自信に満ちた振る舞いがより一層その魅力を引き立ていた。
彼は酒場の隅に陣度ってここ数日の働きぶりを思い出していた。
(……ほぼ完璧だった。予想外は王軍と魔術師。クレドーに来るとはな……故意か、偶然か? 橋の崩落でこちらへ回らざるをえなかったと聞いたが事実とは限らない。どこまで山賊から情報が漏れたか……漏れて困る情報は渡していないが与えるヒントは少ない方が良い)
マクシムがエールの入ったタンカードを黙って煽っていると、近くのテーブルで酒場の娘が娼婦のようにローアンヌ軍の兵士の一人にしなだれかかり、愚痴をこぼしているのが聞こえた。
「……それでね、魔術師様が義姉さんを連れて行っちゃったの……どうしよう、義姉さんきっと王都で捨てられちゃうわ……」
(……魔術師?)
マクシムはぴたりとタンカードを煽るのを辞めて鋭い視線を女に送った。女は涙を浮かべて悲劇を嘆くかのようなそぶりをしている。女も多少酔っているようだった。
「ういっく……れも、アリゼちゃあんの姉ちゃんてえ……ういっ、困ったやつらったんらろ?」
顔を真っ赤にして酔っ払った兵士が、アリゼと呼ばれた娘の胸元に視線を落として笑み崩れている。
「……そうだけど、私、義姉さんが心配でっ……だから私が王都に行ければよかったのに……」
「ひっく、俺らはアリゼちゃんみらいな天使がここにいれくれて、嬉しいよお~」
舟をこぎながら兵士はアリゼを褒めたが、それは彼女の欲しかった言葉とは違ったようでアリゼは一瞬顔を顰めた。
それに目ざとく気がついたマクシムは唇を歪めた。
(こういう女は扱いやすい。容姿は……田舎ならこれが限界か。問題は使えるかだ。まあ情報がなくとも少々遊んでやってもいい)
マクシムはフードの影から念入りにアリゼを観察した。机に伏せって酔いつぶれてしまった兵士の横で、アリゼは不快そうにワインを飲んでいる。
田舎の女、魔術師、姉、不満。
(連れて行った、というのが気になるな。王軍の例の魔術師か? やつらがクレドーに立ち寄ったことと関係があるのか)
マクシムはフードと上着を脱いで笑みを浮かべた。立ち上がってアリゼに近づき、ワインを持つアリゼの手に慣れた仕草で手を重ねる。そして甘やかな声で囁いた。
「一人か? お前は美しいな」
鬱陶しげに顔をしかめたアリゼは、マクシムの顔を見ると驚いたように目を見張った。次いで胸元にあるジョスラン伯爵家の紋章――それもジョスラン家の者しか付けることのできない銀糸で縁取られたそれに気がつき、息を呑む。
目が合った。
マクシムがニヤリと笑ってやると、アリゼは思わずという風に頬を染める。
(単純なもんだ。女なんて)
マクシムは気障な仕草で手の甲に口付けを落とす。それに驚いて立ち上がったアリゼの腰をやや強引に攫った。
「お前のように美しい女にこんな田舎の酒場は似合わない。俺の屋敷に来い……一生かわいがってやる」
「まあ……」
「婚約者はいるか? まあいても構わない、お前を手に入れるためならいくらでも金を出す。俺のものになれ」
「……でも」
「信じられないか? それなら司祭に誓約してやってもいい。俺はもうただの女には飽き飽きしていてな、今日も一人で飲むつもりだった……だがお前がいた。俺はお前のような特別な女を探していた。俺はマクシム・ジョスラン。大領主ジョスラン家の者だ」
低い声で囁いてやるとアリゼは頬を押さえて目を潤ませた。
マクシムは内心で嘲笑しつつ、アリゼの唇を情熱的に奪った。
***
マクシムは、一時的に泊まっていた代官の別宅にアリゼを連れ込んだ。女を口説いて情報を聞き出すなら密室が一番である。
貴族をもてなすために作られた部屋は、精緻な花鳥の絵を織り込んだ赤絨毯を敷き詰め、窓には庶民には買えぬ板硝子がはめ込まれ、磨き抜かれた家具には銀の燭台が置いてあった。
このような部屋を見たことがなかったのか、アリゼはぽうっと夢見心地な様子である。
マクシムはアリゼを抱きしめ、吐息が掛かる程の距離で情熱的に見つめ、指先でアリゼの赤い果実のような唇をなぞった。
「お前が頷けばこれよりも贅沢な暮らしをさせてやれるぞ」
「……でも、私……」
「なにが不満だ? 言ってみろ、聞いてやる」
「私、平民だもの。ジョスラン家とは釣り合わないわ」
アリゼは潤んだような目で縋るようにマクシムを見る。
マクシムは少々アリゼを見直した。強い自己顕示欲と自惚れが見て取れるのに簡単には旨い話に食いついてこない。ただの馬鹿な村の女ではなさそうだった。
(遊び甲斐があるな)
マクシムは内心で舌なめずりをした。
「気が引けるのか? お前の美しさの前では身分差などなんの意味もないだろうに」
「あなたがそう思って下さっても……あなたのお母様がそう思うとは限らないでしょう?」
マクシムは感心した。身分差の現実もよく見えている。平民から貴族になり、貴族から平民になる者もいるとはいえ、大領主の一族と田舎娘では雲泥の差がある。
それを乗り越えるには相当な覚悟が必要だ。
「お前に降りかかる憂いは全て払ってやろう。俺は嫡男でこそないが騎士の称号を持ち、ジョスラン家当主からも信頼が厚い。クレドーには領主代理の仕事で来たものでな、力はあるつもりだ。俺はお前が気に入らないと一言言えば母親でも幽閉してやる」
「まあ……そんなことさせられないわ。お母様相手にまさか……」
アリゼは心底驚いたように目を見開いて、慎重に口を開いた。
「マクシム様は人気がおありでしょう? こんなに素敵なんですもの、周りの貴族のお嬢様方にも申し訳ないわ……私、女の人に嫌われたり疎まれたりすることが多いの。調子にのるなとか、恋人を奪ったとか……だから怖くて」
アリゼは目に涙を浮かべて苦しそうな健気な微笑みを浮かべた。
こう言われれば同情するのが人情だろう。だがこの手の駆け引きに慣れているマクシムにはそれが半分演技であることに気がついた。
「私みたいに後ろ盾もないつまらない女、飽きたら捨てられてしまう……」
アリゼは悲しげに言っているが、その目にはありありと歓喜が浮かんでいる。欲深い感情と慎重な理性の間で揺れ動いているということころか。
(後ろ盾か)
マクシムはクッと喉を鳴らした。
「なるほど、お前には後ろ盾がない。だが俺を選べ。不安ならそうだな、屋敷をお前にやろう。こんな田舎では買えないドレスや宝石も買ってやる。王族のような生活をさせてやるぞ」
実際のところは、領主の一族が平民の愛人に屋敷を与えたところで取り上げることは容易い。与えた宝石やドレスとて簡単に取り戻せる。そもそも一族の屋敷を他に移譲するには領主の許可が必要なのだが、普通の平民はそんな決まりは知らない。
アリゼは動揺して身体を揺らした。
(気に入った相手にも慎重に生活の保証を求めるか。この女は使える)
マクシムは満面の笑みを浮かべてアリゼの頤を持ち上げた。口先でならなんでも言える。
「クク、俺の目には狂いはなかった。お前は賢い……やはり俺の女に相応しいな。身分の低さ、後ろ盾のなさが気になるなら教育してやろう。それなら俺にすら奪えはしない財産となる」
平民が貴族の妻になるのは困難だ。ただ愛する妻として囲われるだけでは寵愛を失なったが最後惨めな生活が待っている。だが財と、貴族社会に溶け込めるほどの教育を与えられれば――?
そう臭わせてやると、アリゼはがらりと目の色を変えた。
「アリゼ、甘いものは好きか? 旨い酒もある。むこうの部屋へ行くぞ……俺たちの前途を祝して」
「本当の、本当に? ……嬉しいわ」
慎重さを脱ぎ捨てて欲望を丸出しにしたアリゼにマクシムはほくそ笑んだ。宝物を触るような手つきで腰を撫で、休憩室へ促すとアリゼの顔は蕩けたようになった。
***
寝台の上で、アリゼは恍惚とした状態でマクシムの胸に手を這わせた。アリゼの白い肌は上気して汗をかき、甘く強い酒をふんだんに飲んだせいで頭は心地よくぼうっとしている。
「ねえ、マクシム様……貴族の教育ってどういうことをするの?」
「礼儀作法、食事のマナー、宝飾品のルール、そんなところだな」
「……字は?」
「なんだ、本でも読みたいのか?」
「っそうじゃないわ! 女に学なんていらないわ。違う?」
アリゼは突然、激しく言って怒りの感情を露わにした。そして縋るようにマクシムに抱きつく。村の女は普通、字が読めない。
それまでとは明らかに違う様子にマクシムは目を細めた。
「そうだな、その通りだ。学のある女など中途半端で可愛げもない」
「……よね、マクシム様もそう思うのね」
アリゼはほっとしたような笑みを浮かべてマクシムの胸に頬を寄せた。そして、ふと眉根を寄せて嫌そうに呟く。
「義姉さんは私とは血が繋がってないのだけれど、字が読めるのよ……これみよがしに村へ来た手紙を代わりに読んでみせたりして。調子に乗ってるわ、藁頭のブスのくせに」
(下に見ていた女へのコンプレックス……これが原因か)
甘い酒をふんだんに飲ませた甲斐があって口が軽くなり、素が出てきている。
マクシムは一層優しくアリゼの頬を撫でた。聞きたいのはその義姉の話である。
「酒場で話をしていたな。魔術師が連れて行ったと」
「そうなの。王軍のグレゴワール・フーシェっていう不気味な男」
マクシムは素早く思考を巡らせた。当たりだ。
(やはりあいつか! クレドーに調査に来たやつだ)
聞くところによると、王は国外から魔術師が侵入してルケルヴェの修道院を荒らしているのではないかという疑いを懐き、魔力の痕跡が各都市に残っていないか調べるために宮廷魔術師が派遣されたのだという。
アリゼは頬を膨らませて不満をぶちまけている。
「馬鹿な男よ、私が王都へ行ってあげるって言ったのに義姉さんなんか選んで! なにがよかったのかしら」
「その義姉とやらをなぜ連れて行ったんだ」
「その人のもとで働いて欲しいんですって」
「ほう、そのためにただの村娘を、ね……」
「この前修道院の襲撃事件あったでしょ? 義姉さんはそこにいてあの男に助けられたんですって。それで大した怪我もしてないのに義姉さんにマントを貸したり……意味がわかんないわ。地味で魅力のかけらもない女よ?」
アリゼの不満は止まらない。わざわざ会いに行ったのに手を取ろうともしなかった。義姉を継父が屋根裏に閉じ込めたのに、屋根を破って出て行った。魔術師の手引きに違いない。おとなしく負けを認めて村で俯いてすごしていればよかったのに――……。
マクシムはアリゼの首にキスを落とした。
「アリゼ。私がグレゴワール・フーシェなら私もお前より義姉を選ぶだろう」
「なっ……」
「当然だ。奴隷にするなら、お前のような美しく賢い娘よりも牛のような愚鈍な女の方がいいに決まっているだろう」
「っ……そ、そうね! そうだわ」
耳に唇をつけるようにして甘く囁き、わざと姉を貶めて優越感をくすぐってやると、アリゼはようやく満足したようだった。顔がとたんに明るくなる。
(しかし、やはりなにか裏がありそうだな。ただ字が読めるというだけで田舎娘を王都まで連れて行くとは思えん……これはアイツに確認した方がよさそうだ)
マクシムは顔に微笑みを貼り付けながら思案した。
「……ああ、でもどうしましょう。それなら義姉さんが余計に心配だわ……きっと惨めな思いをするわ」
アリゼは酔って判断能力がかなり下がったようで、嘲笑を浮かべながらそんな台詞を吐く。
「私も王都へ行きたいわ……ねえ、マクシム様」
「よかろう、連れて行ってやる。ちょうど用事があるんでな」
「本当!? 素敵!」
アリゼは小さく叫んで目を輝かせた。そして上気した頬を一層染めるとうっとりとした調子でマクシムの頬に白い手を伸ばした。
「たくましくって、情熱的で、頼りになって……マクシム様みたいな人に愛されるなんて奇跡だわ……義姉さんも馬鹿ね、あんな不気味な男についていって……おとなしくしておけば良かったのに」
「クク、だがお前の姉とやらはどこにいても羽虫にすぎない……ならば王都で奴隷労働をするもよかろうよ。それに、そのおかげで俺はお前を手に入れることができた」
「ま……酷い人」
そういいながら、アリゼは情熱的な目付きでマクシムに腕を絡め、顔を近づけた。
「……お願い、キスして」
マクシムは強くアリゼの顔を引き寄せると、激しく唇を吸った。