昭和31年秋①
9月1日、土曜日。土曜日は普段3時間授業だが、今日は始業式と学活がある。
「甫、起きなさい! もう7時半だよ!!」
阿部家の隣の小林家では、珍しく寝起きの攻防戦が繰り広げられていた。
「うわー、母ちゃんよくやるよ。甫兄ちゃんなんか起こさなくていいのに」
「徹夜で宿題をやったのが悪い」
「まったく…。エー、ではこれより、『小林甫君18歳、起床大戦争』の模様をお届け致します。 対するは小林サキさん50歳、解説は私小林サヨ、実況は小林輔でございます」
社交家なサヨは、学校帰りに友人と駅前の商店街の街頭テレビの常連客だ。最近の流行は専らプロレスで、将来はテレビ局に就職しようと本気で考えている。
「オイッ、勝手に俺に実況を任せるなよっ」
そんな彼女に実況を任されたのは、小林家の次男・輔。年齢は22歳。甫のすぐ上の兄である。
「全ての始まりは7月30日、神社の縁日の時。甫君はお隣の蓉子お嬢さまの気まぐれでお伴に選ばれました。すっかり鼻の下を伸ばした甫君は、自分の宿題に手もつけていないのにお嬢さまにこう言ったそうです。『僕が宿題を手伝ってあげるヨ!』…と」
朝食をたらふく食べたサヨはいつにも増して饒舌で、まるで解説も実況も全て任されてしまった敏腕の解説者のようだ。この時点で既に輔はお払い箱。
ちなみに、解説席は廊下。しっかり者の長男・昭も、その妻の紀江も、普段は「廊下で何を騒いでいる」と言って拳骨を3発ほどお見舞いしてくる父親も祖父母もわらわらと集まってきた。
「しかし、お嬢さまはこう仰いました。『ごめんなさい、宿題は済ませてしまったのです』。
宿題を終わらせたことは良いことなのに、オツムの弱い甫君はまるでいけないことをして叱られた後のような返答をさせてしまったのです」
サヨも縁日には行ったが、兄と蓉子が二人で歩いている様子を見ただけで特に妨害をした訳ではないし、会話を盗み聞きした訳でもない。全ては捏造だ。
「翌日から甫君は蓉子お嬢さまとの一生叶わないランデブーを夢見て、計画を立て始めました。駅前の定食屋に頼み込んで毎日朝から晩までこき使われ、気づけば日付は8月20日。お小遣いは大して貯まらず、夏休みの宿題だけがどんどん溜まっていくばかり。
一方、お隣のお嬢さまはというと、お母さまやお祖母さまに料理や裁縫を習っておられました」
捏造だらけのサヨの解説が続き、見物人や実況者はよくもスラスラと言えるものだと感心を通り越して呆れ果てていた。と、その時。
窓の向こうに見えた人影に反応したのは、輔だった。
「あーっと、渦中のお嬢さまが今、通学鞄を持って通り過ぎましたーっ! 何と、いつも寄り添う桜子ちゃんはいません!!」
「なにーっ!?」
叫んだのはサヨではなかった。直後に「まったく、人騒がせな奴だね」とこぼしながら部屋を出たのは、母のサキ。
「甫、着替えたら飯食いな!」
「飯いらない! 大至急で学校に行ってきます!!」
起床してからわずか3分足らずで家を出た甫は、日を跨いで午前3時半までかかって仕上げた宿題を全て忘れ、1時間後に自宅に取りに帰されたという。
当然のことながら、お隣の“蓉子お嬢さま”は、このことを知る由もない。
余談ですが、作者の夏休みの宿題の片付けかたはどこからどう見ても甫君の方が近いです。
お隣の蓉子お嬢さまとのランデブーは叶うのでしょうか…。