晩夏、満喫
食べているだけです。
暑さの抜けきらぬ晩夏の部屋で涼を求めて畳にへばりついていると、玄関の引き戸がガラリと音を立てた。
「誰かおるかなー」
聞き慣れぬ声におや、と身を起こして玄関の土間に降り立てば、そこには見知らぬ男性が一人。
へこりと会釈をして愛想笑いを浮かべれば、男性の方もにこにこ笑う。
「ああ、あんた大喜さんのお孫さん。これな、鮎が獲れたから、ちょっとだけで悪いけど持ってきたんよ」
そう言うと、手にしていたビニール袋を私に持たせ帰って行こうとする。こちらが礼を述べる暇すら与えぬ男性に、そのまま去られてなるものかと慌てて呼び止める。
「あの、すみませんがお名前を伺っても? 」
私がそう言えば、途端に男性はうろたえる。
「いやいや、俺はその、あれよ。お名前なんて大層なこと言われても、なあ。ただの近所の者やから」
ぱたぱたと手を振りながら後退し、玄関の敷居をまたぐ男性。
祖父の名を知りお裾分けを持ってきたならば当人の言うとおり近隣の住民であろうに、なぜ名乗ることを渋るのか、と不審に思いつつも逃げられぬよう距離をつめる。
「申し訳ないのですが、私は近隣の方々を存じ上げぬのです。お名前だけで結構ですから、どうか」
大学生の身で留守番もできぬ、というわけにはいかない。必ずやこの男性の名前を聞き出さねば、と妙な使命感に燃える私に、男性はさらに後退していく。
と、庭石がじゃりりと鳴り、男性と私の攻防に終止符をうつ声がした。
「あれ、タケさん。どうしたの」
庭に現れそう言った祖母に、タケさんと呼ばれた男性は安堵の表情を浮かべた。
「ああ、鮎が獲れたからお裾分けしにな。来たんよ。いま、お孫さんに渡したところで」
男性の言葉に、私は手にしたビニール袋を掲げてみせる。
祖母が大仰にありがたがり、男性がしきりと恐縮するという一連の流れが発生する。これは祖父母の元に滞在中、少なくとも一度は見られる現象だ。
しばらく同じやりとりを繰り返したのち、男性は帰り祖母が家の中に入ってくる。
「さて、塩焼きにでもするかね」
言いながらビニール袋を覗き込んだ祖母は、三尾ぽっちか、けち臭い、と文句を言う。先ほどまでのありがたがりようからのこの変わり身もまた、一連の流れに入っている。
「ばあちゃんご飯作るなら、私はお風呂炊くよ」
ビニール袋を祖母に渡してそう言えば、祖母はいやいやと首を振る。
「せっかくの休みで来てるんだから、ゆっくりしてなさいな」
確かに大学の休みを利用して来ている身であるが、十分ゆっくりしているので少し退屈しているところだ。なにせ何もないど田舎のため、外から来た者はゆっくり過ごす以外することがない。
「いや、思いきり火を燃やせるのなんてここにいる間くらいだから、やらせてほしい」
暇すぎるとはさすがに言えぬので、二番目くらいの本音を言えば祖母は納得したようなしないような顔をして頷いた。
「そうかい? やりたいなら止めないけど。なら、お願いするよ」
風呂の焚き口の前に陣取って、焚き火の熱を背中に感じながら夕焼けを眺める。
昼間はまだまだ暑さが残るが、陽が落ちてくると涼しい風が吹く。
もう夏も終わりか、などと感傷的な気分に浸っていると、勝手口から祖母が出てきた。
「燃えてるかい? 」
焚き口をひょいと覗くので場所を譲ると、焚き口の蓋を開けて火ばさみで炭を拾い上げる。
すぐそばにあった七輪の中へひょいひょいと放り込むと、焼き網と鮎の入ったビニール袋を私に持たせる。
「ここにいるならこれ、焼いておいて」
そう言うと、返事も待たずに勝手口に戻っていく祖母を見送る。
さて焼くか、と七輪に向かったところで、祖母の声が言う。
「ぼーっとよそ見してると、猫に魚を盗られるからね。気をつけてよ」
まさかそんな、漫画のようなことが。
驚いて勝手口に視線をやるが、もう祖母の姿は無かった。
驚いたことに、猫は本当に来た。
この土地の田舎レベルをなめていたようだ、としみじみ思っていると(もちろん、猫への警戒は忘れない)祖父が帰ってきた。
「初栗を拾ってきたから、ばあさんに茹でてもらえ」
そう言って、ズボンのポケットから小ぶりな栗を片手いっぱい寄越す。
今日一日、祖父母がどこでなにをしていたが知らないが、よもやおじいさんは山で芝刈りを、おばあさんは川で洗濯をしていたと言われても私は驚かない。いや、やっぱり驚く。
「あら、もう栗ができてたか」
話し声が聞こえたか、祖母が勝手口から姿を見せた。
私の両手に転がる栗を見てほんのり笑い、じうじうと音を立てながら空腹感を誘う薫煙を振りまく焼き魚を目にして頷いた。
「よう焼けてる。それ持って入って、ご飯にしよう」
そう言うと、私の手から栗を取り、代わりに皿を置いた。
食卓の中央には、ほこほこと湯気を上げる鮎の姿。尻尾と頭の先が焦げているのはご愛嬌。
今時分のものは落ち鮎と言い鮎の一番美味い時期ではないのだ、と言う祖父の声を片耳に聞きつつ、一尾、自分の皿にいただいて、箸でほぐせばホワッと湯気が躍り上がる。
ほどよく焦げ目のついた皮とともに口に放り込めば、しっとりした焼き魚の舌ざわりの後に鼻をぬける鮎の香り。
飲み込んだあとも楽しめる残り香に、ほうっと息を吐く。
鮎の余韻に浸っていると、祖母が茄子を食べるよう促してくる。
熱いうちに食べたほうが美味しいから早く食べろと言う声に従い、箸を伸ばす。
箸の先につままれた茄子はくったりと揚げられており、濃い紫の皮がてらてらと光る。
小皿にのせてポン酢をかければ、流れ出た油がきらきらと誘惑してくる。
冷ます暇も惜しいと待ちきれずかぶりつけば、口の中を焼く熱に続いて、どっと旨味の汁が襲いきた。
「〜〜〜!! 」
熱さと美味さに耐えて無言で悶えていると、祖母がすり鉢を持って食卓に座る。
「ご飯に山芋、かけるかい? 」
何という誘惑か。
この家中に漂う椎茸の香りは、そのためであったかと合点する。また、一日中、祖父の姿が見えなかったのは自然薯を掘りに行っていたためだったのだとわかった。芝刈りでは無かったようだ。
祖母の言う山芋とは、自然薯のこと。
たっぷりの干し椎茸と醤油だけで作った出汁でのばした自然薯は、ご飯の最高の友である。
自然薯のとろろをかけたご飯は、香りで鼻を楽しませ、味で舌を楽しませ、終いには滑らかさでのどまで楽しませる素晴らしく美味い秋の味覚。
だが、鮎の塩焼きと茄子の素揚げに身を委ねていたい私には、過ぎたるもの。
しばし逡巡したのち、まずは白飯とおかずを満喫することとする。祖父の言では、この飯も知り合いに貰った新米らしい。ならば、炊きたての新米を白いままに味わうのが日本のあるべき姿ではなかろうか。
とろろをかけるのは、おかわりしてからでも遅くない。ダイエットは明日からだ。
「……食べ過ぎた」
一杯目のご飯を鮎と茄子でいただき、二杯目でとろろをかけていただいた。
あまりの美味に満腹を忘れ、やや少なめにおかわりした三杯目はとろろかけご飯で茄子を味わった。
三杯目にもかかわらず、するすると入っていくご飯に「美味しすぎるとろろが悪い。こののどごしが食べ過ぎを助長する」などと言い訳していると、やってきました初栗が。
完全に忘れていたダークホースの存在に恐れおののきつつも、祖父のこれは山栗だから小粒でも甘みが強い、との言葉に手が伸びる。
結果、苦しいほどに膨れた腹が落ち着くのを待って、祖父母の後に入浴となった。
手桶に汲んだ湯で泡を流して、湯に浸かる。
三人目の入浴だと言うのに、下から火で熱し続けている湯は少し熱いくらいだ。
水を足してちょうどよくしたはずが、体を洗う寸の間にまた熱を上げたようだ。
じんわりと体のうちに染み込んでくる熱に身を任せ、大変な美味であった夕食を思い出し至福のひとときを過ごす。
我が両親は不便で何もないと言ってこの田舎をあまり好まないようだが、旬を味わえる、それだけで最高の贅沢だと、私は思うのだ。
風呂上がりに冷やしたマクワウリ(祖母が畑から採ってきた)が待っていることなど、そのときの私には知る由も無かった。