最後にはすべてこともなく
だが、覚悟した痛みはやって来なかった。
背後に小屋の屋根から何かが落ちてくる音がした。続いて耳元で鈍い音が響いて、遅れてふわりと嗅ぎなれた芳香が漂ってきた。
「……余計なことをしないで」
事態を察したレティは後ろを振り返りもせず、背中のぬくもりに向かって憎々しげに言い放った。いつもいつも。本当に思い通りにさせてくれない。
「あなたの思惑は分かっているつもりですが……、生憎と自分のものを傷つけられるのを黙って見ている趣味はないんですよ」
笑いを含んだ声が耳元で響く。こんな状況にあって、いつもと変わらない柔らかい声だ。顔が見えなくてよかった、とレティは間の抜けたことを考えた。
「あなたのものになったつもりはありませんし、そもそもこんな状況になっているのはあなたのせいです」
「おや、私としたことが、それは申し訳ないことを。それでは責任を持って、あなたをこの森から助け出すとお約束しましょう」
レティの仏頂面が見えていないからか、ディーは飄々とした口調でからかうようなことを言う。……いや、見えていたって言うだろう。そういう男だ。
「結構です遠慮しますどうぞお構いなく」
心底嫌そうに棒読みで言うレティと、この状況でにこやかに軽口をたたくディーに、男衆はあっけにとられている。
「私の姫君は照れ屋さんのようだ。そんなところも素敵ですが。……さて、かよわいご婦人に向かって手を上げるなんて、男としてはどうかと思いますよ?」
ディーはハンスの腕をつかんだまま素早く背後に回ると、ぎりぎりとねじあげた。痛みでハンスがうめき声を上げる。他の男衆は固唾をのんで見ているが、誰も近づけない。
「あいつが悪いんだ! 村を裏切ったりするから……!」
ふむ、とディーは首をかしげた。
「屋根の上で聞かせていただきましたけど、先程までのお話を聞いている限り、彼女は裏切るような行為は何もしていないということでしたが?」
「そんなこと信じられるか! 嘘に決まってる」
根拠もない決めつけの言葉に、ディーの整った眉が不快そうにゆがむ。
「根拠があるならお聞きします」
「そんなもんねえよ! 離せ!」
ディーはふっと吐息をこぼすように笑うと、ぱっと手を離した。逃れようと動いていたハンスの体は、反動で地面に倒れ込む。
「彼女はこの森でたったひとりだ。彼女の弁護をする者は彼女本人しかいない。それなのに困りましたねえ、裏切りの根拠もないのに嘘だと決めつける。そんなことでは魔女という役目が誰に変わろうと、同じような人権を無視した諍いがまた起きるでしょう」
ちらりとフリッツの方へ目を向ける。いつもと同じ涼やかな碧の瞳の奥には、怒りが沈んでいた。それを見たフリッツの眉がぴくりと動いた。
「それとも、それを承知の上でその制度を続けますか?」
「それは……、考え直さなければならない問題だろう。だが」
フリッツは苦々しい声で答えた。彼は厳しいが常識人である。村のことを第一に考えるため、少々偏った考えになることはあるが、ことがここに至った以上、よりよい制度を確立してくれるだろう。
レティは詰めていた息を吐き出した。肩が少しだけ軽くなった気がした。
「君は一体誰だ」
フリッツの問いかけに、ディーはにこりと微笑んだ。
「私は今王都を騒がせている薬物の出所を追ってきたのですが、どうにもこのあたりで消息が絶えてしまいましてね。ご存知ですか? 巷では“R”と呼ばれているそうですが」
男衆がざわめいた。やはり役人だったのだ。
「……リコの葉がそうだと言いたいのか? だが畑が荒らされたのは今回が初めてだ。随分前から出回っているというその薬物とは時期が合わない」
フリッツが前に出て、冷静に反論する。
ディーは答えず、周りを見回した。
「マルコ、いるかい」
呼びかけにこたえるように、頭上の木の葉ががさりと揺れた。次いで何かが樹上から俊敏な動きで地上に降り立つ。目つきの悪いその男は、ディーの半歩後ろでとまり、懐から一冊の帳面を取り出してディーに渡す。
「盗まれた製薬所の帳簿だ……」
ユーリが驚いたように目を見張った。
その言葉に反応したのは他でもないディーだった。
「盗まれた? マルコ、お前盗んできたのか」
ちらりと斜め後ろを振り返ると、従者は仏頂面で答える。
「はあ。めん……その方が手っ取り早いと思いましたので」
自省したものの、顔には「めんどくさかった」とはっきり書いてある。ディーは呆れたようにため息をついた。
「そんなことをしたら、こっちにだって負い目ってものができるだろう。交渉を有利に進めるためには……ああ、もういい。後で話そう」
説教を途中で切り上げると、ディーはフリッツに向き直った。にっこりと極上の笑みを浮かべる。
「私の従者が大変失礼なことをしでかしたようで、申し訳ありません」
ぺこりと優雅に腰を折る。
「いや……、返してくれるならそれでいいが」
「ええ、お話が終わればお返ししましょう。まず、ここ。見てください」
舞うような手つきで帳簿をめくる。開いたページをフリッツに差し出した。
「一昨年の春くらいですね。リコの葉の粉末と他の薬草の調合の過程です。それまではずっと安定していたのに、このころから徐々に廃棄率が上がっていますねえ。どうしてでしょう」
フリッツが言葉を詰まらせた。彼は村長であるが、製薬所の仕事は製薬所長に任せている。帳簿の不備など指摘されてもわからないだろう。
フリッツは顔をあげて周りを見渡すと、製薬所長を呼び出した。
「ドミニク」
前に出てきたドミニクは、腕組みをして帳簿を覗き込む。
「ああ……、この年から担当者が変わったんだ。作業に慣れていないうちは多少失敗もあるだろう」
「調合は口伝で伝えられているんでしたね。担当者はひとりですか。確か……ハンスさん、とおっしゃいましたか」
綺麗な笑顔を向けられて、ぎくりとハンスの肩が大きく跳ねた。そう言えば顔色がひどくなっている。
「最初のうちは失敗もあるでしょうねえ。ですが、あなたいつまで初心者気取ってるんです? 二年もたてばそれなりに慣れるものでしょうに、廃棄率は増える一方だ。製薬所としてもそんな無能をよく二年以上も使っていたものですね」
微笑む口元から嫌味が容赦なく放たれる。ドミニクは眉間にしわを寄せ不快感をあらわにし、ハンスは顔を青くして震えている。
「こちらの事情だ。詮索される謂れはない。無能と言いきって簡単に切り捨ててしまえるほど我々は冷たくはないんだよ」
ドミニクは鋭い目つきでディーを睨みつけた。フリッツは腕組みをしたまま静観の構え。顔を真っ青にして震えているハンス以外は口の出しようもない様子だ。
「なるほど。人情味あふれる村のようだ。素晴らしい。ですが、それがあだになることもあるでしょうねえ」
ふっと空気を震わせるような繊細な笑いをこぼして、ディーは従者へと目をやった。
マルコは軽く頷くと、じりじりと後ろへ下がるように移動していたハンスを背後から羽交い絞めにする。
「なっ、なにをするんだ!」
ハンスは脂汗をたらしながら暴れたが、体格はマルコの方が格段にいい。彼の腕から逃げ出せるはずもなかった。
ディーは羽交い絞めにされたハンスに華麗な足取りで近づくと、おもむろに彼のポケットに手を突っ込んだ。抜き取った手には何かの葉が握られている。
「これは何ですか?」
ハンスの目の前にそれを突き出し、見せつける。疑いようもない。それはむしり取られたリコの葉だった。
男衆の間にどよめきが広がる。
「どういうことだ、ハンス」
ハンスは動けないまま目だけをせわしなく動かした。汗が噴き出して、顔中がべたべたになっている。言葉もないハンスに変わり、ディーが話しだした。
「畑が荒らされているのを確認したのは今朝でしたか。それはここにいる全員で行ったんですね。おおかたその時でしょう。彼はいかにも外部の侵入者の手によって畑が荒らされているかのように装った。そのままここに来ることになってしまったから、これは処分できなかったんですねえ」
穏やかな声で話すディーはどこか楽しそうに見える。
このひとはひとを追い詰めることを楽しんでいる。獲物を追いかける猫のような目をして。レティはうっかりハンスに同情しそうになってしまった。
「なんでそんなことをする必要がある」
フリッツが苦々しく言う。聞きたくはないが、聞かなければならない。そんな葛藤が表情に見て取れた。
「薬物の流出を外部犯に見せかけるためですよ」
にっこりと笑顔を向けられて、ハンスは小さく悲鳴を上げた。目が笑っていないことに気付いただろう。
「製薬所で調合の部分を担当するあなたは、帳簿上は廃棄と偽ってリコの粉末を持ち出していたのでしょう? 調合は口伝で伝えられるほどの重要機密ですから、その役目を他に担当する者はいない。持ち出すのは赤子の手をひねるように簡単だったことでしょう。そしてそれを“R”という名称で麻薬として流した。今、末端価格はすごいことになっていますから、さぞかし儲かったんでしょうねえ、ハンスさん」
ディーの発言に男たちが言葉を失った。ハンスはうなだれて震えている。
「おまえ……、本当なのか、ハンス」
ドミニクがハンスに詰め寄る。ハンスは目線を合わせようともしない。それこそが答えだった。
「なんでそんなことを……!」
激高したドミニクがハンスに殴りかかろうとするのを、ディーが制止した。
「すべては体制が悪いのですよ。これでわかったでしょう? 信頼というのは大変美しいものですが、ひとが誘惑に打ち勝つにはそれだけでは足りない時が多々あるものです。あなたたちの組織体制はいちから作り直さなければならない。でなければ、同じことはまたいずれ起きます」
ディーの正論に、ドミニクが肩を落とした。
「あんたは役人なんだろう。組織なんてもう考えても仕方がない。こんなことになってしまったら、リコの栽培禁止か――よくてこの森の没収が妥当な処分なんじゃないのか」
一様に不安そうな表情になって、男衆がディーを見つめる。
「そうなったら、もうリコを使った薬は作れない。村は終わりだ」
フリッツが茫然と呟いた。男たちの間に静かに諦念が広がる。
「そうですねえ。王都の馬鹿な貴族たちが薬物のせいで更に馬鹿になったところで私には一向に関わりのないことですが、治安が悪くなったのは由々しき事態です。さて、どうしましょうか」
ディーは思わせぶりにそう言って、振り返ってちらりとレティに視線を寄こした。
「あなたはどうしたいですか?」
なんで私に聞く。
レティの眉間にぐっと皺が寄った。
「……私にはわかりかねます」
「どうするのが正しいかと聞いているんじゃないんです。あなたはどうしたいですか?」
ディーの表情がふと柔らかいものになった。誰よりもこの森に縛られてきた者としての意見を求められていると理解すると、レティは心の中だけで悪態をついた。
そういうことをするから、憎みきれないのよ。
レティは小さく息を吸うと、覚悟を決めて口を開いた。
「私は、村の存続を望みます。今までの経緯がどうであれ、あの村は……故郷ですから」
「ふむ。では村のためにこの森でリコの栽培を続けたいと? あなたのような森に縛られた生活を、他の者に強いてでも?」
ディーは意地の悪い言葉を選ぶ。レティの言葉を引き出すためだとわかっている。だが、半分以上面白がっていることは間違いない。
わかっていても腹が立つ。苛立つ心を押さえながら、レティは冷静な思考を心がけた。
「もちろん、制度の見直しが前提です。今回の件では学ぶところが多かった。挫折は経験のひとつです。そこで終わるのではなく、それを生かしてこそひとは成長できるのではないでしょうか」
「とてもよくわかりますが、精神論だけではどうにもなりません。具体的に何か考えはありますか?」
「そんなの……今の今で結論が出るわけがありません。検討に検討を重ねて、制度は慎重に構築されるべきです」
「なるほど。具体的な考えはない、と」
レティはぐっと言葉に詰まる。
起きたばかりの出来事に対して間髪いれずにいい考えを出せるほど、頭がいいわけではないのだ。というか、そんなのトップクラスの官僚並みでなければ無理だろう。
レティはじっとりとディーを睨みつけた。視線を受けて、彼はにこりと笑って見せた。
「そこで、提案があるのですが」
「は?」
思いもよらない言葉に間抜けな声が出た。
「マルコ」
ちょうどハンスの両手を後ろ手に縛り終えたマルコは、主の傍へ近づくと、書類のようなものをとりだして手渡した。
「この森を王家が買い取り、王領とします。この額でいかがでしょう」
ディーは書類をそのままフリッツへ手渡す。
レティは耳を疑った。いや、レティだけではないはずだ。この男、いまなんて言った?
「王家……?」
常に冷静なフリッツですら固まっている。それはそうだろう。書類にされたサインは間違いなく現国王のものであり、その下に名前を連ねるのは第五王子。
マルコが一歩前に出て、じろりと周囲を見回した。
「このお方は我国第五王子、ディートリヒ王子殿下であらせられる。皆の者、王子殿下の御前であるぞ」
完全に棒読みだった。けれど、言葉の威力は絶大だった。
男衆は慌ててその場に膝をつき、頭を下げる。ハンスに至っては顔面蒼白で気を失いかけている。……気絶した方が楽かもしれない。レティはといえば、驚きすぎて膝から力が抜け、へなへなとその場にへたりこんだ。
いろいろ許容範囲を超えた出来事が起こりすぎて、思考はパンクしそうだ。
いやいや。いやいやいや。
そりゃあ、かなりいいとこのぼんぼんだとは思ったが。
王子ってこんなとこフラフラしてるもんか?
「数々の無礼、お許しください。まさか王子殿下がこのようなところにお越しになられるとは……」
フリッツの言葉も途中で途切れた。思考能力が追いつかないと見える。
ディーは、にこにこと害のなさそうな笑顔を浮かべてマルコをたしなめた。
「余計なことは言わなくていいんだよ、マルコ。話が進まないじゃないか」
マルコは憮然とした表情で浅く頭を下げた。納得したようには到底見えない。
「恐れながら殿下……、この森を買い取られるとおっしゃいましたか」
フリッツがおそるおそる顔をあげて問いかけた。
「ああ、はい。そうです。どうでしょうか?」
王子は貴公子然とした様子で鷹揚に頷いた。
「恐れながら申し上げますが、この森が王家のものとなっては、我々はもはやここへ足を踏み入れることはかないません。リコはこの森でしか栽培できないが故に、薬を作り続けることができなくなってしまいます。製薬に代わる新しい産業を開発できない限り、いくら大金を提示されても、やがてはこの村は衰退してしまいます」
フリッツが言葉を選びながら慎重に話す。表情は青ざめていたが、覚悟は決まったらしい。
「そうですね。この森が王家の所有となれば、ここにあるものは、雑草の一本に至るまで王家のもの。ここから何かを持ち出すことは重大な犯罪行為になります。ですが、あれほど効能があると噂の鎮痛剤の生産を廃止するつもりもないんです」
もったいないですから、と王族らしからぬことを言う。
「つまり、王家はリコの栽培から鎮痛剤の製薬までを、ヘルネ村に委託します」
「委託?」
フリッツが思わずうなり声をあげた。
「はい。リコの扱いについてはあなた方にお任せするのが最適でしょう。まず、ヘルネ村の者には、リコの栽培・収穫のためこの森に入ることを許可します。そして製剤までをヘルネ村で行い、王家はそれに付随する原材料費、人件費等の必要経費と委託料を負担します」
「できあがった薬については……」
「委託ですから、できあがった薬はすべて王家のものです。ヘルネ村が販売することはできません。今後はこれを王家の専売とします」
「専売……」
腕組みをして考え込むフリッツに、ディーは微笑みかけた。
「今まで程の収入になるかどうかはわかりませんが、少なくとも王家の後ろ盾が得られると考えると、破格の条件だと思いますが」
レティは舌を巻いた。おそらくはその場にいたものすべてが思っただろう。
麻薬ともなりうる危険な薬物を切り捨てるのではなく、囲い込むことで流出を抑制し、なおかつ王家の利益も確保する。これ以上の策があるだろうか。
「ああ、委託とはいえど、製薬所の方へは監視の意味も含めて人材を派遣させていただきます。それから、口伝などと曖昧になっていた部分もすべて文書化して明らかにすること。この森には憲兵を二十四時間体制で配置しましょう。怪奇現象の噂などより、よほど確実な手段です」
笑顔で嫌味も忘れない。それもこれも資金力があってできることだとわかっていて言うあたり、たちが悪い。
「ああ、もちろん、他にいい案があるとおっしゃるなら遠慮なくお断りしてくださって構いません。ただし、同じようなことがまた起これば――その時こそ栽培禁止、ということも考えなければいけないかもしれませんね」
フリッツが金縛りにあったように動きを止める。
ディーの背後にいたレティには、彼の表情をうかがい知ることは出来なかったが、確信していた。
フリッツもまた、悪魔の笑みを見てしまったのだと。
* * * * * * * * *
「騙してはいません。言わなかっただけです」
きらきらしい王子は極上の笑顔で屁理屈を述べた。
一時散会となり、村人たちは村へ帰った。マルコは手と言わず足と言わずぐるぐる巻きにされたハンスを引きずって、森の外に待機している憲兵に引き渡しに行ったようだ。
森に残されたのはレティとディーだけである。
男の一人が顔面蒼白になって震える手で返してきた青い宝石のペンダントを眺めながら、ディーが面白そうに言った。
「それにしても、どっかの馬鹿と言われたのは生まれて初めてです」
そりゃあそうだろう。王子相手にそんなことを言える人物は限られている。
レティだって普段ならそんなことは口が裂けても言えない。言えないが、今までの経緯を考えると、どうでもいいと思えた。不敬罪になるというのなら、今までの言動で十分だ。これから先どんなに暴言を吐こうと大してかわりはない。それなら言いたいことを言ってしまおう。
「訂正します。馬鹿じゃなくて性悪」
レティは冷ややかな視線を投げつける。
「それ、わざと置いて行ったんでしょう」
ディーの手の中で肯定するようにきらりと宝石が輝く。憎々しげな声音もどこ吹く風で、ディーは吐息のような笑いをこぼした。
「種はたくさんまいた方が安心ですからね。とはいってもそんなに期待はしていませんでしたが。それより」
そこで言葉を切って、物憂げなため息をつく。
「あなたこそ、わざと殴られるつもりだったのでしょう。信頼のもろさを露呈させるだけなら、あそこまでする必要はなかったはずです。あなたは女性なんですよ」
レティは腕組みをしてそっぽを向いた。
「あなたにとやかく言われる筋合いはありません」
悪制の根拠としてだめ押しで殴られるつもりもあったが、なにより、贖罪の気持ちが多かった。役目に殉じてきた過去の魔女たちに、ひとり逃げ出すことの代償として痛みを受けるつもりだった。自己満足でしかないとわかってはいたが、そうでもしないと気が済まなかったのだ。
「あなたというひとは、生真面目に思い詰めるからそうやって傷つくんです」
「私が傷ついたのは大半があなたのせいです」
イラッとして言い返せば、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「私のために傷ついてくださったとは。こんな殺し文句は初めてです」
「あなたのせいで、と言ったんです。どこをどうすればそういう意味になるんですか」
レティの手がわなわなと震える。血圧が上がりすぎて倒れそうだ。
ディーは睨みつけてくるレティに、へにゃりと緩んだ笑みを向ける。
「同じことですよ。私は、私という存在であなたが感情を動かすことがとてもうれしい。あなたが私のことを考えてくださっているということですから」
レティは毒気を抜かれて反論を諦めた。どう考えてもいい感情じゃないのに、それでも嬉しいと目の前の男は言う。相変わらずよくわからない。
「……変なひと」
なんだか肩の力が抜けた。こんなひと、手に負えない。
妙に嬉しそうに微笑んでいる彼をちらりと見て、レティは冷静さを取り戻す。
「それで? 不穏な薬物の流出元を突き止め、村の存亡の危機を救ったふりをして、王家の財源までちゃっかり確保した王子様はもう気が済んだでしょう? お城にお帰りになった方がいいんじゃないかしら」
とげとげしい言葉しか出てこない。だってレティは怒っているのだ。散々利用されて、怒らない馬鹿がいるだろうか。
「悪制の廃止のために身を投げ出した高潔な魔女殿は、目を離すと無茶なことをするので、王子は心配で離れがたいのですよ」
レティの嫌味に対しておどけた口調で返す。レティは鼻を鳴らした。
「心配ご無用よ。魔女はもう用済みです。じきにここからいなくなるでしょう」
行くあては決まっていない。もともとはヘルネ村の人間なのだから、村に戻るのが普通なのかもしれないが、男衆の――分けてもユーリの暗い目を思い出すと、それも憚られた。
ユーリの裏切られたような表情が脳裏に浮かぶ。彼を傷つけてしまったのなら謝りたいとは思ったが、顔を合わせない方がお互いのためかもしれない。もう以前の関係性には戻れないと、痛い程わかるから。
例えば、身一つでどこか知らない街へ行くのもいいかもしれない。
不安がないわけではない。でもどこか清々しい気持ちで新しい世界に思いをはせる。そこはきっと、小さな森の中にはないもので満たされているに違いない。
「私は魔女殿のお許しがないと、この森を去ることができないのです」
芝居がかった所作で、ディーが胸に手を当てて天を仰いだ。日に透けた金の髪がきらきらと光る。遺憾ながらその美しさは認めざるを得ない。
レティは深いため息をついた。
「お許しですって? そんなもの、とっくに出しています。この森から出て行けと何度言ったって聞かなかったくせに……って、ちょ、わあっ!?」
言葉は途中で霧散した。突然抱きあげられて、最後は悲鳴じみた声が出た。
「お許しくださるとおっしゃいましたね」
ディーはとろけるような笑みを浮かべる。悪魔の笑み、三度。
抱きあげられたせいで、顔が近い。至近距離で見る極上の笑みに体が固まった。
「な、なんで……?」
状況がわからない。森を出て行く許可が欲しいというなら、好きにすればいいと言っただけなのに。
「いつか気持ちが変わった時には、あなたを外へお連れするお許しをくださいと、私は言いましたよ」
しれっと言い放った王子の腕の中で、レティは我に返ってじたばたと暴れた。
「それならそうとちゃんと全部言いなさいよ! だめ、いやです、おろして!」
しかし一見華奢に見えるディーの思わぬ腕力は、レティの抵抗をものともしなかった。間近に迫る余裕の表情が憎らしい。
「私が過去に向き合う時、一緒にいてくれると言ってくれたでしょう? あれは嘘だったんですか?」
さも悲しそうな表情を浮かべるディーに、レティはぐっと言葉を飲み込んだ。
あの気持ちは嘘じゃない。似たような孤独を持つ彼のために、できることがあるなら力になってあげたいと思った気持ちは本当だ。
回避方法はないかと考えている間に、レティは馬の背にそっと乗せられてしまう。木にくくりつけていた手綱を外し、ディーが馬の背にひらりと飛び乗って、後ろから抱えられる形で腕の中に閉じ込められた。
もう逃げられないのかもしれない。
レティは仕方がないと腹を決めた。
「……用事が済んだらちゃんと解放してくださいね」
心の中で舌打ちしながら、精いっぱいの妥協で言ったのに、ディーは飄々とした調子でばっさりと切り捨てた。
「さあ、どうでしょうね。私がいいと言っても、周囲がどう言うか……」
「それどういう意味ですか!」
彼は無言で曖昧に微笑んだ。
いろんな意味で怖過ぎる。人生終わったかもしれない。
ふたりも乗れば重量オーバーになりはしないかと期待……もとい心配したが、いつもの白馬は文句も言わずにぽくぽくと蹄の音を鳴らしながらゆっくり歩く。
「城に戻ったらドレスのサイズを合わせましょう。いやあ、作っておいて正解でしたね」
王子の腕の中に閉じ込められた自分、という状況に耐えられず俯いていたレティの後頭部に、うきうきとした声が振って来る。
「ドレスって……まさかあのピンクの……?」
レティは片手で目元を覆った。袖を通すことはおろか、二度と目にすることもないと思っていた例のドレスに、再び相まみえる日がこようとは。
「そんなにお嫌ですか? お似合いだと思いますが」
のほほんとディーが軽い調子で言う。
「私が言っても信じてはもらえないでしょうね」
最後につけたされた言葉はどこか寂しそうに聞こえた気がして、レティは思わず後ろを振り返った。
「おっと」
バランスが崩れて落っこちそうになると、ディーの片手が腰にまわされて抱き寄せられる。
「どうかしましたか?」
彼は相変わらず飄々とした表情でにこやかに微笑んでいる。本心なんかめったに見せようとしないくせに、たまにこぼれ出る感情の機微を何となくわかるようになった自分が悲しい。レティは前を向くと、ため息をついて背中をディーに預けた。
「……そんなに言うのなら、信じてみる……ことにする、わ」
顔を赤くしながら小さい声で言うと、背後では息を飲んだような気配がして、腰に回された腕の力が強くなった。
ピンクのドレス。まずはそこから始めてみるのもいいかもしれない。彼を疑う理由がもうない以上は。
のんびりと進む馬に揺られながら、いつのまにかふたりは森を出て、薬草畑の中にいた。村の姿を目に焼き付けて、レティは心の中でさよならと呟いた。母の墓参りに行けなかったことが心残りだが、長い人生、またチャンスはやって来るかもしれない。
「さあ、急ぎましょう。両親が待っていますから。……ああ、母は継母の方ですが」
何気ない彼の呟きにはたと気がつく。
「ちょっと待って。そう言えば両親って……」
国王陛下夫妻ではないか!
レティは青ざめた。自分などお目にかかれるような身分ではない。雲の上の存在だ。大体礼儀作法とか、そういうものも何一つ知らない。本当にただの田舎娘なのに!
脳内でひとり混乱状態に陥るレティに気付かず、ディーは思い出したように言葉を添えた。
「ああ、それから今回の件に関しては長兄にも力を借りましたから、彼にも挨拶をしてもらわなければなりませんね。こういうことをすっぽかすと、あのひとはあとが面倒なんです」
物憂げなため息が空気を震わせる。だが、何よりも聞き捨てならない単語があった。
「長兄って……」
「王太子殿下です」
さらりと言われてレティの頭が真っ白になった。
そうだ。このひと王子なんだったと今さら実感する。
「……ちなみに、待ってるってどういうことですか」
「はあ、まあ両親には会って欲しいひとがいるとだけ」
まるで恋人を紹介する時のようなフレーズを紡ぐ彼の口を、半ば本気で縫いつけてやろうかと思った。
この男はどうしてこうも理解の範疇を超えてくるのだろう。
そんなこと言われたらそりゃあ待つ。だがしかし、待ったところで、やって来るのは行儀作法も知らないような辺鄙な片田舎の小娘。そんなことがあっていいのだろうか?
どう考えてもだめだろう。っていうか、無理だ。
ぷつんとレティの中の何かがはじけた。
「やっぱ無理! おろしてえ―――――ッ!」
悲痛な叫び声と、王子の品のいい笑い声が響き渡る空は澄んでいて、優しい日差しが降り注いでいた。
本編完結ですが、アフターストーリー的な番外編が二話分ほど続く予定です。