きらきらしい男きたりて
『あの森に近づいてはいけないよ。
悪い魔女に食べられてしまうからね』
そう囁かれる森がある。
そこにいるのはひとりのうら若い魔女。
悪い魔女と呼ばれる彼女には、とある事情があったのである。
* * * * * * * * *
今日も平和だ。
レティは平穏を噛みしめて、歩きながら空を見上げた。
木々の合間から見える空は薄紅に染まっており、じきに日が落ちることは明白だった。暗くなる前に家に帰りつかなければいけない。慣れた場所とはいえ、灯りを持っていなければ夜の森の中を歩くのは大変なのだ。
家の方へ向けた足が、甲高い笑い声を聞きつけて止まる。ここはもう森の端。森を出れば、すぐそこには薬草畑が広がっている。声はそちらから聞こえたようだった。
木々の間をすり抜けて、声が聞こえたほうへ近づく。そっと木の陰から顔を出すと、薬草畑の真ん中で駆けまわる子どもたちが見えた。
親の仕事の手伝いにでもついてきたのだろう。帰り支度をしている大人たちをよそ目に、きゃあきゃあと楽しそうに遊んでいる。やがて、大人たちに呼びかけられて、子どもたちは走り去って行く。大人たちの後について彼らの村へ帰って行く仲睦まじい後ろ姿を、レティは息をひそめて見つめた。
薬草畑の向こうにある村には既に灯りの入った家々が並び、煙突の屋根から煮炊きの煙がいくつも上がっている。遠目にそれを眺めて、レティは踵を返した。
季節は秋の初め。昼間はまだ日差しが強くて気温も高いが、夕方になると急に冷え込むようになった。レティは寒さを追い払うように両腕をさする。
家に着いたら温かいお茶を飲もう。蜂蜜を入れて、甘くして。そう考えながら、黒いローブを引きずりつつ家の方向へ歩みを進めた。
日が暮れる前に家にたどり着き、湯を沸かしてお茶を入れる。蜂蜜をたっぷり入れた、舌がしびれそうなほど甘いお茶をじっくりと味わっていると、こんこんとノックの音が響いた。
いつもの配給だ。
そう思ってドアを開けて、レティは目を瞠った。
「レティ!」
そこにいたのは三歳年下の幼馴染の少年だった。
「ユーリ……? どうしたの、こんな時間にこんな所へ来て」
外は既に日が落ちて真っ暗だ。子どもが出歩いていい時間帯ではない。怒られるんじゃないかと困惑するレティに、ユーリはにかっと嬉しそうに笑った。
「俺さ、昨日で十二歳になったんだ。だから今日から大人の仲間入りなんだ」
誇らしげに胸を張るユーリに、レティは納得した。
「そう、じゃあユーリももう禁域に入れるようになったのね」
「そうなんだ。で、レティに食料を届ける役目を任されたんだ」
にこにこと嬉しそうに報告するユーリに、レティは目元をわずかに和ませた。
もう七年ぶりになるだろうか。レティが森に住むようになってから、ユーリとは一度も会っていなかった。
久しぶりに見る幼馴染は、背が伸びて随分と大きくなっていた。栗色のふわふわ頭とつぶらな瞳は変わらないけれど。
「ユーリ、随分大きくなったのね。あんなに小さかったのに」
レティの後をついて駆けまわっていた頃の事を思い出してそう言うと、ユーリは拗ねたように口をへの字に曲げた。
「レティだって随分変わったじゃないか。昔はうるさいほど元気だったのに」
レティは小首をかしげる。
「そうかしら」
「そうだよ。それとも魔女になるとそうなるもんなのか?」
ユーリの視線がレティのまとう黒いローブの上を滑る。
「さあ……わからないわ」
「なんたって禁域を守る選ばれし魔女殿だもんな。うん、やっぱり威厳がないと務まらないのかも」
うんうんと頷きながらユーリはひとりで納得している。
その行動に幼さを感じて少し安心しながら、レティはにこりと口角を引き上げた。
「ねえ、村の皆は元気? 時間はあるの? よかったらお茶でもどうかしら」
久しぶりに会った幼馴染に、いろんな事を聞きたかった。村の話、ひとの話。この七年の間に起きたことを教えてくれるひとは、レティにとっては貴重だった。
しかし、レティの誘いに、ユーリは残念そうに首を振った。
「皆が待ってるから行かないと……。これ、今日の分。じゃあまた」
手に持っていた袋をレティに渡すと、手を振って駆けだした。
彼が駆けてゆく先には、ゆらゆらと光る灯りが隊列を組んで並んでいる。松明の列はふらふらと揺れながら、森の奥へと向かって進んでいる。
レティは玄関口に立ってそれを眺めた。
今から禁域に入るのだろう。暗くなってからしか作業ができないのは仕方がないことだとしても、ご苦労なことだ。本当はもっと効率のいい方法があるのではないかと思いかけて、ふっとため息をこぼした。どのみち、レティには関係のないことなのだ。
手に持った袋を持ち直して、家に入った。
テーブルの上に袋を置いて、中身を確認する。野菜や小麦粉、燻製などの食料品が山ほど入っていた。それらを片付けて、冷めきった甘ったるいお茶を口に含む。
蜂蜜の甘さで胸がやけそうだった。
* * * * * * * * *
レティの日課は森の中をただ当てもなく歩き回ることである。
日課と言うのは正しくないかもしれない。これは魔女の役目なのだ。
その日も、レティは黒いローブのフードを目深にかぶって森の中を歩いていた。
決まったコースなどはなく、思いつきで方向を決める。冬に向けてどんぐりをせっせと運ぶリスをほほえましく眺めながら歩き、喉が乾けば川へ行って清水を飲む。木の葉の隙間からこぼれ落ちて地面をまだらに照らす陽の光を追いかけて歩いているうちに、小さな滝壺へたどりついた。
気付かないうちに随分歩いたようだ。体が疲労を訴えている。
額に浮かんだ汗を拭いながら、一休みついでに水浴びでもしようかと考え、レティは周囲を見回した。こんな森の奥深くに入って来るひとなどそうはいないのだが、念のため人の気配を探る。
誰もいないことを確認すると、レティはローブを脱いだ。厚手のローブがぞろりと音をたてて足元に落ちる。そもそもこの時期に着るには厚いのだ。いくら森の中で日差しが少なかろうと、暑いものは暑い。
汗をかいた体を冷たい水に浸す。どぼんと全身を水の中に沈めると爽快な気分になった。いつもは濡らしたタオルで体を拭くだけなので、解放感が気持ちいい。背中の中ほどまで伸びた黒髪を洗っていると、背後でかさりと音がした気がした。
首だけで振り返ると、馬を引いた見慣れない青年がひとり、驚いた風に目を見開いている。
「きゃあっ!?」
思わず大きな声を上げると、青年ははっと我に返り、「し、失礼!」と言ってくるりとこちらに背中を向けた。
見ないでほしいのはもちろんだけど、できれば立ち去っていただきたい。
そう思ったが、服を着るのが先決かと思いなおし、レティは慌てて水から上がると、急いでローブを着こんだ。髪がぬれているので、フードをかぶるのはやめておいた。髪から滴り落ちる水がぽたりぽたりとローブを濡らす。
青年は立ち去る気配もなく、その場に立ちすくんでいる。
「あの」
もう振り向いてもいいですよ、と言うのも変な気がして、レティは言葉に困った。こんな事態は初めてだ。しょっぱなから失敗するなんてついてない。
「……振り返っても支障はないでしょうか?」
青年が振り向かないまま生真面目に尋ねる。ぶるん、と白い馬が鼻を鳴らした。
「はあ」
レティの間抜けな返事に、青年はこちらを向いた。
蜂蜜色の髪がさらりと風になびき、深い海のような碧い瞳が気まずそうに視線を彷徨わせる。整った端正な顔立ちに加えて、無駄なところなど欠片もないすらりとした肢体に、銀の縁取りの仕立てのいい長衣を身につけ、一目で位の高そうな貴族だと知れる。おまけにあつらえたかのように毛並みの美しい白い馬を連れていて、まるで物語に出てくる王子様のような風貌に、レティはくらりと目眩を覚えた。
レティより少しばかり年上と思わしき彼は、こんな田舎にはめったと居ないような美男子である。気のせいか背中に薔薇の花まで背負っているように見えるこの手の人種は、レティには未知のものであった。
「あなたはこの森に住まうという魔女殿ですか」
青年の柔らかな声にはっと我に返ると、レティはげふんと咳払いをして精いっぱいの威厳を演出する。おばばさまの口真似でもしてみようかと思ったが、あんな所を見られた後では却ってしらじらしい気がして、普通の口調で答えた。
「そうです。ここは私の住まう大切な森。ただちに出て行かねば、あなたに災いが降りかかりますよ」
びしっと人差し指をつきつけたレティの厳かな宣言は、青年の耳には入らなかったようだ。
「なんと美しい……」
彼の口から洩れた呟きに、レティは耳を疑った。
「は?」
青年はそのきらきらしい顔にうっとりした表情を浮かべてレティを見つめている。
あの、話聞いてました?
うっかりそう聞いてしまいそうになって口をふさぐ。
「悪い魔女がいると聞いて、もし悪さをするのであれば何とかしなくてはと思いここまで来ましたが……、なんてことだ。こんなに美しいあなたが悪い魔女であるはずがない」
レティは言葉を失った。
美しいなんて言われたことがなかった。それに、理論が破綻している。美しさは善良さの指標には成りえない。
何だこのひと。
理解不可能な恐れから、一歩後ずさる。青年は一歩ずつ間合いを詰めてゆっくりと近寄ってくる。
レティは戦慄した。何とかしなければならない。魔女たる自分が、どうにかしなければならないことなのだ。
「近寄らないで。今すぐこの森から出て行きなさい」
再度通告する。聞こえていない訳がないのに、青年は歩みを止めなかった。
じりじりと近寄る青年から離れようと後退する背中がやがて木にぶつかり、レティは追い詰められて途方に暮れた。
自分よりだいぶ背の高い青年に目の前で見下ろされる。心意気だけは勇ましく、眼光鋭く睨みつけ、いざとなったら脛を蹴っ飛ばして逃げよう――そう考えていたレティの頭にふわりと何か軽いものがかぶせられた。
突然の事に悲鳴をあげかけたレティの頭上で優しい声が囁いた。
「このままでは風邪をひいてしまいますよ」
いつの間にどこから取り出したのか、肌触りの良いタオルで青年はレティの頭を優しく丁寧に拭いている。
あまりの事態にレティは固まってしまった。対処法がわからなくて、なされるがまま頭を拭かれている。
ひとに髪を触られるのは久しぶりだった。おばばさまが亡くなってからは、レティに触れるひとなんてひとりもいない。おばばさまの枯れ木のような冷えた手と違って、大きな彼の手は温かく心地よかった。
うっかり身を任せそうになって、はっとする。こんなことではいけない。私はこの森を守る魔女なのだから。
「触らないで」
つとめて低い声を出すと、青年ははっと手を止めてレティを見下ろした。鋭いまなざしで彼を睨みつけるレティに、形のいい眉をゆがめて申し訳なさそうに謝る。
「ああ……失礼しました。淑女にお許しも頂かずに触れるなどと無礼なことを。どうかお許しください」
言うなり流れるような所作でレティの足元に片膝をついて跪く。低い位置から懇願するように見上げられる。捨てられた子犬のような表情で見上げてくるこの男に、許せないと言える女がいったいどれほどいるだろうか。いや、いまい。
「……そういうことではなくて」
レティはくらくらする頭を押さえ、言葉を探した。どうやったら目の前の、このわけのわからない男に納得してこの森から出て行ってもらえるのだろうか。
「私はこの森から出て行きなさいと言っています。あなたには耳がないの?」
青年はその言葉に深海の瞳を瞬いた。ふ、と寂しそうな笑みを整った顔に浮かべる。
「あなたがそう望むなら、魔法でもなんでも使って私を追い出してくだされば良い」
そう切り返されて、レティはぐっと言葉に詰まった。
そう考えるのは自然なことなのかもしれない。悪い魔女なら魔法だって使い放題で、どんなひどいことも躊躇なくやってみせるものだろう。
だがレティにはできない。
黙り込んで視線を彷徨わせたレティの目に、青年の手が映る。白いなめらかな肌を汚す、赤い血。
「……怪我」
思わずこぼれ出た呟きに、青年は自分の手を見て、なんでもない風に微笑んだ。
「ああ、かすり傷ですから大丈夫です。先程蔦に絡まって動けなくなっているまぬけなリスを見つけて……」
レティはローブのポケットから傷薬をとりだした。すぐそばの村で作られている軟膏で、傷によく効く。
木の根元にしゃがみこんで、青年の手をおそるおそるとった。傷の具合をよく見て確認する。少量の出血は見られるものの、この程度の傷であれば、痕も残らないだろう。レティはほっと口元を緩めた。彫刻のような白い綺麗なこの手に傷痕が残るのはもったいない気がした。
軟膏の蓋を開け、適量を優しく塗り伸ばす。染みるのか、ぴくりと反応した青年の手をなだめるように撫でて、そっと手を離す。
「この薬はよく効きますから」
軟膏に蓋をしてローブのポケットにしまう。その様を彼は驚いたように見つめた。
「……ありがとうございます」
わずかに動揺を含んだ声に顔を上げると、思いのほか近い距離に青年の美貌があった。しゃがみこんだことで目線が近づいたことを忘れていた。
慌てて立ち上がる。怪我を放っておけなくて思わず手当てをしてしまったが、こんなことをしている場合ではないのだ。
「と、とにかくこの森から早く出て行きなさい」
何度言ってもわかってもらえないようなので、そう言い捨ててさっと身をひるがえす。逃げるが勝ちだ。
しかし、それはかなわなかった。駆けだそうとしたレティは左手をつかまれ、後ろからひかれてバランスを崩す。このままでは転んでしまう。
痛みを覚悟して目を瞑ったレティを襲ったのは痛みではなかった。ふわりとなにか温かいものに包み込まれ、鼻先をよい香りが掠めた。
目を開けてレティは仰天した。
目の前の男に抱きとめられているのだ。
「は、離して」
離れようにも、レティの左手は彼の右手でつかまれ、腰には左手が回っている。せめてもの抵抗で、残された右手で胸板を押し返した。しかし、力いっぱい踏ん張ってもびくともしない。
レティはもう泣きそうになっていた。
こんなにも思うようにいかないことが今までにあっただろうか。……まあ、あったかもしれない。それにしても、ここまで言葉が通じないことは初めてだった。
腕力では敵いそうもない。どうすれば。
焦るレティの耳に落ちてきたのは、懇願するような響きだった。
「お名前を」
「へっ?」
「お名前を教えていただけませんか」
予想もしなかった言葉に、レティはぱかんと口を開けた。見上げた先には長いまつげに縁取られた碧い瞳。口元はゆるく微笑んでいて、絵に描いて額に入れたような悩殺スマイルが間近に迫る。ぞくりと背筋を何かが駆けのぼった。
「お名前を教えていただけるまで、離しません」
甘く囁くような声が空気を震わせる。
内容はともかくとして、これは明らかな脅しだ。
レティはおそれおののいた。
なぜだ。なぜこんなことになった。大体さっき触れるのに許可が云々とぬかしていたくせに、密着度が増しているではないか。許可を出した覚えはまったくもってこれっぽっちもない。
もう駄目。限界です。おばばさまごめんなさい。
レティは心の中で盛大に白旗を振った。
「……レティツィア」
ぼそりと小さな声で答えると、青年はぱっと顔を輝かせた。嬉しそうにその名前を反復する。
「レティツィア。綺麗な名前だ。……レティとお呼びしてもよろしいですか」
「好きにしてください」
げんなりと疲れたようにレティが答える。この数分間で何歳か年をとったような心持ちだ。
「では、私の事はディーと」
「はあ」
呼びかけることがはたしてこの先あるかどうかは謎である。が、反論するとまたいろいろと面倒くさそうな予感がしたので、レティは曖昧に頷いておいた。
「あの、とにかく離してください」
「ああ、これは失礼しました」
言いながらも少し残念そうな表情で、ディーはレティを解放した。背中を向けてまた同じことになっても嫌なので、レティは正面を彼に向けたまま、後ろに三歩下がって距離を開ける。
ディーは少し傷ついたような表情を浮かべた。
「信用されていませんね」
「信用してほしいなら、私の話もちゃんと聞いてください」
レティのじっとりした視線に、ディーはふっとほろ苦く笑った。
「この森から出て行けとおっしゃいましたね」
「わかっているのなら早く出て行って下さい。ここはあなたのような方が来るところではありません」
目の前のこの男がいったい何者なのかは全然わからないが、少なくとも身分のある貴族の息子、というところだろう。であるならば、こんな片田舎の辺鄙な森の中に用事があるはずもないのだ。
「私は先程言いました。あなたがそう望むなら、魔法でもなんでも使って私を追い出してくだされば良い、と」
ディーの碧い瞳がレティを射抜く。深海の色は吸い込まれそうなほど深く、底が見えない。
「レティ」
柔らかな声で呼びかけられて、レティはびくりと肩を揺らした。
ああ、このひとは気付いている。
知られてはいけない私の秘密に。
「あなたは魔法が使えないのですね――魔女なのに」
レティの心臓が大きく跳ねた。背筋を冷たい汗が流れていくのを感じる。
血の気を失った顔をディーは心配そうにのぞきこんだ。
「ああ、安心してください。口外などいたしませんとも」
整った相貌に浮かべたとろけるような笑みは、レティには悪魔のそれにしか見えなかった。
* * * * * * * * *
ディーは馬を駆りながら首をひねっていた。
こんなにも思ったようにいかないのは久しぶりだったのだ。
彼は生まれ持った己の武器を完璧なほどに理解していた。
年若い夢見るお嬢様がたには紳士的な態度で誠実な笑みを。遊びなれたご婦人がたには享楽的な雰囲気で危なげな視線を。年の離れた熟年のご婦人がたには儚げな佇まいで所在なげな所作を。
彼に与えられた容姿をもってすれば、どんな女も彼の手に落ちたものである。曰く、落とせない女はこの世でふたりだけ。
従者のマルコなどは、いつか刺されますよと冷たい視線を寄こしたものだが、いまだにそんな目にあったことはない。であるならば、やはり彼の処世術は間違っていないわけであり、生まれ持った武器を使わないなど愚の骨頂であると彼は思うわけである。
だがしかし。
今、彼の頭を占めるのはレティである。
彼女の反応は今までのどの女とも違っていた。
今までの経験則に基づいて、鉄板の紳士路線で拒絶をくらい、次は少々強引な手段に出たものの、彼女は怯えるばかり。
おかしい。
至近距離で微笑みかければ、大体の女が頬を染めて身を任せてくるものなのだ。少なくとも今まではそうだった。
彼は並走する馬上の従者に悩ましい表情で問いかけた。
「マルコ、私の顔は変わってしまったのだろうか」
「はあ?」
マルコは素っ頓狂な声を出す。変なものが耳に飛び込んできたと言わんばかりに小指で耳をほじくり、いつも通りの仏頂面で面白くもなさそうに答えた。
「相変わらず胸くそ悪いほど整ってますけど」
「そうか……。ではやはり、攻め方を間違えたのだな」
従者の悪態をさらりと聞き流して、物憂げにため息をつく。
最後はとっさに脅しのような真似をしてしまった。いくら次につなげるためとは言え、あれはまずかったかもしれない。
脳裏に潤んだ灰色の瞳が浮かんで、仄暗い感情が胸の内に湧き上がった。嗜虐的な趣味はなかったはずだが、彼女の怯えた表情が頭から離れない。近づけば怯えて逃げる様は、まるで小動物のようだった。
なんにせよ、ここで諦めるわけにはいかないのだ。目的を達成するために必要なものは、何としても手に入れなければならない。
攻め方を変えてみよう。
今までの経験を総動員して、あらゆる方向性を探るのだ。
考えながら口元に自然に浮かんだ笑みに、ディーは気付かなかった。