第23話「真夜中の空」
八月三十日、アクアエリクサーでは引退セレモニーがとても盛大に行われていた。同時に新たな領主が顔を出すのだ。アクアエリクサーの民としては参加しないわけにはいかなかった。
そして領主の交代は中央都市であるオルセイアにも関わってくる問題だ。この仕事は世界が衰退した現在だからこそ、都市と都市との交流間をより強固なものにする為である。――故に、太陽と海の街を夜が歩いた。
「まあ、随分と賑やかね」
「ウルク様! あまり側を離れては困ります」
長く艶やかな黒髪を潮風に靡かせて、オルセイア第一皇女、ウルク・サンドラは微笑んだ。つばの広い帽子を深く被り、陰ではっきりと見える訳では無いが。髪の色と高貴そうな白の服で、通りがかる誰もが別の街の貴族だと認識した。
一方彼女を追う付き人は軽装だがオルセイアの憲兵らしい服装。ウルクのような美しさではないがその黒髪はきちんとオルセイアのものだ。
ウルクはくすくすと笑って彼をからかう。
「シェールドが遅いのよ」
「王族があまり軽率に街を出歩くものではないかと……。それになぜ新人の俺を連れてきたんです?」
「あら、いいじゃない? 王族だって遊びたいわ。貴方を選んだ理由はそうね……他の憲兵が忙しそうだったから、かしら」
「……失礼ながら、俺より強くて暇な人はたくさんいたと思いますが」
「ふふふ、嘘よ」
ウルクはくるりと一回転した。太陽の光が黒髪を真白に染め上げる。
「貴方が面白そうだったから、貴方が良かったのよ」
それにこの街の憲兵は強いから、何も問題は無いわ。ウルクはそう言って歩き出す。
だから、その言葉にシェールド・デイルは目を見開いて驚いた。王族が、こんなにも美しく、人間らしく笑うとは。
「ああそうだわ、シェールド」
「……何でしょう」
「今は確か彼ら、ロストの皆さんが来ていましたわよね?」
瞬間、シェールドはびくりと肩を震わす。
「それが、何か?」
「ええ、会いたいわ。私、会ったことないんですもの」
――それだけはまずい。シェールドにとっては特に、セティとフラムにだけは会いたくなかった。だって彼らの口は軽い。つまりそれは、
「お言葉ですがウルク様、そろそろ戻りませんと」
「もう! シェールドはケチね。少しくらいいいじゃない」
ぷんすこ! と彼女は頬を膨らませて大人しく帰路についた。こういう素直なところは有難い。
つまりそれは、裏都市の住人出身ということを表してしまうから。もしシェールドが裏都市の住人と知られれば、この任務は意味を成さなくなってしまう。
即ち王族の現状を報告すること。所謂スパイ。買って出たのは気まぐれで、他の仲間に危険を負わせたくないからというのもあって。エミリア・サンドラはある程度の情報と教養を授けてくれた。彼女は何を思って、身内に攻撃を仕掛けるのか。一度だけ聞いた時、エミリアは『これは単なる痴話喧嘩ですので』と。お気になさらず、と答えた。彼女の本質がシェールドには分からなかったが、こちらの為に何かしてくれるのであれば利用しない手は無い。
「シェールド? どうかしたの?」
ウルクが興味深そうに首を傾げる。シェールドは首を振って、いいえと言った。
「何でもありません。さ、行きましょうか。領主様が待っていらっしゃる」
「そうね」
夜の髪を持つ彼女の肌はきめ細かく、真っ白だった。その中でふわりと笑う頬が花のように桃色に染まる。まるでこれ以上美しいものが世の中には無いように。シェールドは自分の心が今更痛むことを感じて、ああ、自分に悪人は向いていないのか、と零すように思った。
☆
バイゼル・クラウドスは疲れたように、しかし大仰に笑って椅子に背を預けた。
領主家のテラス。上層でも比較的高台に有り、街全体を望むことが可能なこの家は、もうすぐ自分の手から離れてしまう。――否、既に離れている。
「いやはや、これ以上無いくらいに楽しかった! 最後を飾るには相応しいものであったな」
「それは何よりですね、バイゼル様」
バイゼルに向かい合うように座る若い男が微笑みながら話し掛けた。目下には祭りを楽しむ市民たちがいる。それを見下ろしながら、バイゼルは答えた。
「そうだとも、フェリズ卿。貴殿も出番があるのだろう。準備は終えたか?」
「ええ。タウラス・ラセニア、ハイザス・ラセニア。二人とも優秀な人ですね。借り受けたのはハイザス卿だけですが」
フェリズと呼ばれた男はにこりと、少し眉根を下げて困ったように笑った。
「あまり慣れないですね、こういうことは」
「呵々、時期に慣れるだろうさ」
「慣れることにも、慣れないですよ」
ふむ、とバイゼルは唸って手元の飲み物を手に取った。
「あまり気負うな、ただでさえこれからこの都市を背負っていくんだ。今緊張してどうする」
「はは、それ更にプレッシャー掛けてますね」
軽く苦笑して椅子から立ち上がる。彼は手すりに手を置いて、街を眺めた。
屋台を物色する人も、楽しげに踊る人も、夢中で喋っている人も、見世物小屋で芝居をする人も、全員が。明るい表情を顔に乗せている。それを、崩したりなどできないから。
「――良い街ですね、アクアエリクサーは」
これからこの太陽と海の街、アクアエリクサーを背負うのは紛れもない自分だと、フェリズ・ミースの蒼の瞳が揺らいだ。それはまるで太陽に照らされる海面のように美しく、より強い瞳。
その瞳はもう、自分がすることはない。だからバイゼルは自信を持って言った。
「そうだろう」
きっと歴代の領主が築き上げてきた街だ。前領主が亡くなってから三年間。たったそれだけのあまりに短い時間だが、ただの老人が穴を埋めるには丁度いい。
彼の、海風に揺れる蒼銀の髪はとても美しかった。この青年は誰をも魅力することが出来る。この青年ならば、未来を変えることくらい容易いだろう。
刹那、そういえば、と思い出したようにバイゼルはフェリズに声を掛けた。
「なんですか?」
「儂は取らなかったが、君、秘書はいるか? 護衛役でもなんでもいいが」
「秘書、ですか?」
「ああ。使える奴に心当たりがあってな、是非推奨したい」
「そうですね、貴方がそう言うのなら優秀なのでしょう。何分人の上に立つことは殆ど初めてですから、隣に人が居るのは有難い」
「そうか! それは良かった、すぐ手配しよう。タウラス」
バイゼルは出入口に立っていた双子の片割れを呼んだ。すぐさま彼はバイゼルの横に立ち、指示を仰ぐ。
その仕草を確認すると、バイゼルはフェリズの方をもう一度見た。
「すまんな、付き合わせた。時間ならもう良いぞ、ハイザスは連れていけ」
「はい。ご好意、痛み入ります。それでは失礼致しますね、バイゼル様」
「ああ。帰ってくる頃にはこの屋敷は貴殿のものだ。好きにすると良い」
フェリズは最上級の感謝を込めて頭を下げた。白の扉を開けて廊下をすたすたと歩いていく。一拍遅れてハイザスも同じように礼をし、フェリズを追った。
「精々この老体の余生を、楽しませてくれよ」
この先のこの街に期待して。
バイゼルは二人の若者に全てを託したのだ。
☆
広場に全市民が集められた。
人混みの中でセティは逸れないようにブレーヴの裾を掴み、主役の登場を待つ。
周りを見渡せば赤や青、紫の髪色ばかりで少し目が痛いのだ。落ち着いた色もあれば明るい色もある、個性はそれぞれだが原色は変わらない。思えばトレノは紺色で、フラムは明るい赤。アクアエリクサーの人達はそういう髪色をしているのかと一人で納得して、あれ? と声を上げた。
「ロイさんロイさん」
「なんだ?」
「なぜロイさんの髪色は茶色なんですか?」
瞬間、彼の顔が強ばった。
もしかしたら聞いてはいけないことだったかと無意識に肩に力を入れる。
ロイは首を振って少しばかりのため息を吐いた。
「……いや、そうだな。当然か」
「?」
「まあ見れば分かると思うけど、俺はアクアエリクサーの出じゃない」
周りを一目見て、彼は彼自身の髪を撫でる。
アクアエリクサー出身の人々は大抵が赤、青、紫の髪色である。多少の色が混じれど、基本はこの三色であり、ロイほどはっきりとした茶の色は見掛けない。
ならば、とロイはセティに問うた。
「お前の周りに茶髪、もしくは黒は居るか?」
真っ先に思い付く人物が居る。――ロゼ、カルトだ。シンザやカトレアなどの人々もまた、その色合いであって。
「ロイさんは、オルセイア出身なのですか?」
「当たり。裏都市の住人を知ってるか?」
「はい」
「売られたんだ、俺は。そんで助けられた」
「……へ?」
刹那、広場に集まった人々のざわめきが止んだ。
一様に、息を呑む音がこだまする。
設置された壇上の上に蒼銀が揺らいだ。その姿はまるで王子――否、一国の王のように。未熟者だと分かっても尚その背中を追いたくなるように。
堂々たる、自信に溢れた笑みでフェリズ・ミースは立った。
「――さて、言わずともこの場を静寂が支配した。その好意に先ずは感謝をしよう」
その声は深い海の如く、その場の全員を溺れさせたのだろう。どんな者が我が都市の代表として立つのだと皆が期待と不安を胸に居合わせている。そして彼は正しく、期待に答えてみせた。
「私はこの都市を代表する役目を仰せつかった、フェリズ・ミースだ。アクアエリクサーの出だが、数年はオルセイアに居た。大分人に恵まれた暮らしを送ったことだ」
推薦者の名前はウルク・サンドラ、並びにエミリア・サンドラの両皇女であると、フェリズは語った。
色々なものを知り、学び、そして再びアクアエリクサーの地に足を踏み入れた。
結局、と彼は言う。アクアエリクサーの前領主は優秀だった。自分はその仕事をただ引き継ぐだけだと。しかしそれでも、良くすることに手を抜いたりはしないのだと。
「全く、世辞の下手な若造よな」
バイゼルは広場を見下ろしながら言う。彼の向かい側、先程までフェリズが座っていた位置には黒髪の女が居た。
「ふふ、それでも嬉しいのでしょう? バイゼル様」
「ハッ、姫君には叶わんな」
日陰に溶け込むような容姿を軽く見やってバイゼルは口角を上げ、頬杖を付いた。
「妹君はいらっしゃらなかったのかね?」
「エミリア……あの子は今反抗期ですから。会っても少しだけしか話しませんし」
「齢十八の娘がか? こいつは面白いな」
ウルクはゆっくりと首を振る。
「いいえ、今は彼のことでしょう。フェリズは良くやってくれていましたから、きっと適任だったのです」
「両名の推薦ならば、民も納得するだろうな。王は何とお答えに?」
「父も快く承認してくれましたわ。いえ、彼はあまり政治に興味が無さらないというか、」
「?」
「――きっと、跡継ぎのことを考えているのでしょう。最近はこちらにも仕事を回してくるのです」
「そうか、あの爺も引退する気になったかの」
「……バイゼル様、仮にも娘の前ですよ」
「こりゃ失敬した」
「全くです。さて、私はそろそろ席を外しましょう」
「どちらへ?」
「楽しそうなところです」
わあ、と歓声が上がる。どうやらフェリズがスピーチを終えたようだった。
そうしてバイゼルを労うイベントは、フェリズを祝うイベントへと変わる。
一斉の喝采が、会場全体を包み込んだ。その活気にセティは飲み込まれ、セティ自身も懸命に手を叩く。
――ああ、すごい、と。
人々が輝いている瞬間を目の当たりにしたのは村を出てから幾度も見たが、これだけ大規模なものは初めて見た。皆が一体となっている様を見て、羨ましいとすら感じる、この高揚とした気持ちを味わったのは初めてだ。
紙吹雪が舞い、青空がカラフルに染まる。
フェリズが退場すると、人々は疎らに散らばっていった。最後の方までその場にいた一行は、はた、と気付く。
「…………ロイは?」
まさか。
人々の波に流されて迷うような人でなし。勝手にどこかへ行くにも言伝のひとつはする。
その時、少しばかり焦りが出始めたセティたちに対して、声を掛けた人物が居た。
「もし、ロストの皆々様方。お時間宜しくて?」
白に身を包んだ夜空は、セティを見てにこりと微笑んだ。呆気に取られる一同の中、金髪の少女は阿呆丸出しで首を傾げる。
「どちら様で?」
「ふふふ、エミリアにもそう聞いたそうですね。セティさん」
彼女は心底楽しそうに肩を震わせる。
一方、焦ったブレーヴがセティの耳元に唇を寄せた。
「ウルク・サンドラ、知らないのか」
「ウルク……、サン、ド、ラ……?」
気付いたセティの顔が青く染まる。
フェリズ・ミースの推薦者が確か、オルセイア両皇女。ひとりはエミリア・サンドラ。そしてもうひとりが、姉の、ウルク・サンドラ、で、
「はわ」
「うふふ、こんにちは、皆さん。ロストという人々に会ってみたくて、来てしまいました」
ウルクは礼儀正しくスカートの裾をつまみ、一礼をした。
尚、後ろに控えたシェールドは顔を隠しながら溜め息を吐くしかなかった。