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AWATSU-6-

※※※拾弐




 祭壇の神鏡がパン! と音をたてて割れ飛んだ。

「きゃっ!」

姫巫女は声をあげて倒れた。

神鏡から黒い塊が飛び出してきて、庵の中をぶんぶん飛び回っている。

「……何という怨念…」

姫巫女は蒼ざめ、背筋が凍えるほどの恐怖を感じた。

「姫巫女さま? どうなさいましたか?」

戸の向こうで少女巫女が心配げに声をかけた。ハッとして彼女は叫ぶ。

「開けてはなりませぬ!」

「えっ?」

厳しい声に少女は立ち竦んだ。

「決して開けてはなりませぬ。リキさまが戻られるまでは…」

唇を噛み締めて姫巫女は起き上がった。

この弥山の力を借りて、怨霊を鎮めねばならぬ。

これを切るにはどうしてもカイの破魔の剣が必要だった。だが、あれは竜王の首に巻きつく妖術師を切ったときに海の底に沈んでしまっている。誰かに取りに行かせるにしても時間がない。そして、あの剣があったとしても、彼女には振るう術がない。

どちらにしても姫巫女には、彼らが戻るまでなんとか妖術師を押さえ込むことしかできそうもなかった。

姫巫女は祭壇の前に座り、祈りはじめた。


 祈りの中に入っていくのは奇妙な感覚である。

上も下も右も左も無くなって、”己”というものがまるで宙に浮いているような感覚なのだ。

これを突き抜けたとき己がもっと大きな宙のなかへ存在しているように感じる。

自我という存在が定かでなくなるような…否、そうではなく、もともと魂とはこういうものなのかもしれない。

善悪の業を抱えた”魂”は、しかし確かに存在しつつ、かつ宙に溶けつつ、人として生まれてはじめて形が得られるのだろう


海の泡のよう…消えない、泡…。

彼女は呟く。


ふと、同じ場所にぼんやりと存在するものに気づいた。

(どなたですか…?)

それはゆっくりと人の形に現れて、彼女の前に立った。そして、彼女に微笑んだ。

唐の衣のようだった。手に、何か札のような物を持っている。

(ああ…)

似たような能力を持つ人だとわかった。それも、かなり強い力を持った人のようだ。

ぼんやりとしていた輪郭が徐々にはっきりと見えてくる。

穏やかな目をした五十代の男だった。長身で鋼のような体躯をしている。

(貴方も祈りを…?)

(―――)

声をかけられ、男は穏やかな眼差しを彼女に向けると、ゆっくりと頷いた。しかし、その相貌には苦笑が浮かんでいた。

(祈っていたのか、祈っているのか、それとも違うのか、もう定かではなくなってきていますけどね…)

(………)

(ああ…故郷は遠い…。一度は戻り、妻や子供たちに会いたかった。――ああ、あれです、私が乗ってきた船は…)

男の指差す方向に、海原を走る船が見えた。

(あれは…遣唐使船…?)

(否。新羅国の船です)

(新羅…。あなたは新羅の方なのですか、道士さま…?)

(…ああ…いかにも、私は道士でした。――倭国が隋に使者を送った、その使者が帰国する際、私もこの国へ来たのです)

(まあ…)

姫巫女は引っ掛かりを覚えたが、口には出さなかった。

(私は新羅の生まれではなく、隋で生まれました。あの船が倭に戻るときは、唐になっておりましたがね…。――煬帝を江都で暗殺したのは我らでした。戦・戦で国内が乱れに乱れ、反乱が起こり……人々はもう限界だったのです。我ら方術を使う者たちを、李淵は内密に暗殺集団として集めました。そして、反乱に紛れ込んで機を窺っていたのです。――しかし、李は実権を握った途端、我々までも内密に処刑しようとした…仲間のほとんどが殺されました。私は何とかそこから逃げ出し、妻と子供たちに一刻も早く逃げるよう伝えて、国を出て新羅まで流れ着き、あの船に水夫として紛れ込んだのです…)

(―――――)

姫巫女は衝撃を受け、しばし目の前の男を見つめた。

では、この人は隋の時代、唐のはじめの人なのか…?

隋が滅亡したのは100年ほども前のこと。

姫巫女には外国のことはよくわからなかったが、反乱を起こす李淵の暗殺集団として編成された方術師たちはおそらく、己の保身を図るため、口封じのために、逃れた者を除いて彼の仲間全員が闇から闇へと葬りさられたのだ。

(………)

いつの世も、いつの時代も同じ事を繰り返し、そのたびに犠牲者が生まれる。この男然り、大津皇子然り、粟津王然り…。

姫巫女の悲哀を察知したのか、男は申し訳なさそうに笑った。

(貴女のような若い女性にこんな血腥い話をしてしまうとは…申し訳ない)

(いいえ…。いつの世も、なぜこんな哀しいことが起きるのでしょう…)

(―――。人間の宿命でしょう…。頭でわかってはいても、それを抑えきれぬほどに、憎しみとは容易に消えるものではない…。己が誰かさえわからなくなるほどに―――――そうだ…憎しみだけがしこりとなって残るのだ、私のように…)

男の目から血の涙が流れ落ちた。

(あ、なたは……)

姫巫女の声がかすれた。








※※※拾参




 竜王とともに戻ってきたカイとリキは、伊都岐嶋を包む異様な空気に顔を見合わせた。

弥山は地鳴りを起こし、呼応するかのように空に黒雲が立ち込め、稲妻が走っている。海は泡立ち、不気味な轟きが響き渡っていた。

「これは…何たることだ…」

人の形をとって降り立った竜王が、相貌をゆがめて呟いた。

「地鳴りが…」

「弥山が震えている」

姫巫女の庵の後ろにある弥山が、ぞっとするような音を響かせていた。


 もともと、伊都岐嶋は弥山信仰の対象であった。海の神として祭られるのは中世初期である。奈良・平安の時代、この島は山の神として祭られていた。航海をするものも、漁をするものも神と祭られている山に対し、安全を祈ることはごく自然のことであったのだ。


その弥山が唸るように鳴っている。

「弥輪…!」

リキは小さく呟き、奥宮への道を見上げた。

「リキ、先に行っておれ。すぐ追いつく」

竜王の言に、一瞬の躊躇をみせたものの、

「……。カイを頼みます」

青ざめた顔で頷くと、鹿のように山道を駆け上がっていった。

「どうしたの、竜神? 俺たちも…」

竜王が低く呟くようにカイに聞いた。

「坊、あの青竜刀はどうした?」

「え? あ、海の中だよ! ほら、竜神の首についてた妖術師に投げつけてそのままだ」

カイの言葉に、「そうか」と頷いた竜王は、ついと身を翻すと海水に手を触れた。

「………?」

怪訝そうにその様子を見守っていたカイの目に、沖のほうから何かが近づいてくるのが見えた。

荒立つ波をものともせず、まっすぐに、飛ぶようにやってきたのは数頭のイルカだった。

イルカは鼻先で青竜刀を押し上げると、竜王に差し出した。

「ご苦労。…しばし荒れようが、騒がず城でじっとしておれ。――じゃが、他所からの侵入者には気をつけよ」

竜王の言葉に、イルカが一斉に頭を垂れた。

カイがあっけにとられている間に、イルカたちは身を翻し、沖へと戻って行った。

「それ。持っておれ。使わねば、それにこしたことはないのじゃがな……さ、我等もゆくぞ」

剣を少年に押し付けて、さっさと歩き始めた竜王の背を見つめ、カイは錆もついていない青竜刀に目を落とす。

これが何を意味するのか、漠然とではあるが理解した。

姫巫女は――。



 庵が黒い瘴気を立ち上らせていた。

「姫巫女!」

リキが叫んだ。土足のまま庵に飛び込み、まっすぐ祭壇のある堂へと走る。

一方、山道を駆け上がってきたカイと竜王は、宮の戸口で少女巫女が気を失って倒れているのを発見した。

「おい、しっかりしろ!」

少年は少女巫女に駆け寄って抱えおこしたが、瘴気にあてられたのか、苦しげに眉をよせたままぐったりとしていた。

「坊、その子供を離れた場所に寝かせてやるがよい」

竜王が指示し、少女を抱きかかえて庵を離れる少年を見送ってから、祭壇のある方を見やった。

その、ぴっちりと閉められた戸口の前で、リキが凝然と佇んでいた。

「…姫巫女…ご無事か…?」

低く声をかけてみるが、応えは無かった。男の面が蒼ざめてゆく。

開けたらどんな惨状が待っているのか、彼は心底恐ろしいと思った。冷や汗が伝い、知らず体が震えている。

「リ…」

戻ってきた少年が男の名を飲み込んだ。そして、その蒼ざめた顔で戸口を睨みつけるように震えながら立っている男に、まるで初めて会ったかのような錯覚を覚えた。

いつも揺るぎなく、どんな危険なところへでも必要とあれば大胆に踏み込んでいける男だった。恐れなど彼の心には存在しないのだと、それがリキの全部だと思っていた。

しかし――。

今、少年の目の前にいる男は、戸一枚を開けられずに拳を握り締め、唇を噛み締めて震える姿をさらけだしていた。

少年は、そして思い至る。

この戸の向こうにいるひとはリキが、たった一人愛した女性なのだ。愛した人が無残な姿になっていたら…? 違う姿になっていたら…?

「………」

決めるのはリキだ。

少年は青竜刀を握り締めた。


 永遠のように感じられた逡巡も、実際のところはほんの少しの間だった。

リキは沈痛な面持ちで目をきつく閉じる。そして、次に目を開いた時には決然として戸に手をかけ、堂に踏み込んだ。

ぶわっと覆い被さるようなすさまじい瘴気が噴き出した。

そんなものには構いもせず男は中に入っていく。

「弥輪!」

低く呼ばわると、祭壇の前でうずくまる影が身じろぎした。

「―――」

リキはゆっくりと近づいていった。その、影――姫巫女がゆっくりと顔をあげ、そして

「リキ…さま…」

血の涙が彼女の顔を赤く染め、手も衣も返り血を浴びたように、真っ赤に塗れそぼっていた。

その光景に息を飲む。

祭壇の神鏡は粉々に砕け散り、壁といわず天井といわず、まるで固いものがぶつかりでもしたかのようにあちこちが破れ、裂けていた。

リキの後から入ってきた少年の息を呑む気配が伝わる。

姫巫女はか細く、震える声で呟いた。

「どうして…この世は哀しいことが多いのでしょうか…」

「―――」

「ああ…何故、裏切りばかりがあるのでしょうか…?」

そして顔を覆い、また血の涙を流した。

「―――。裏切りばかりではない。あなたが言うように確かに悲しいことは多い。しかしすべてがそうとは限らない」

リキはきっぱりと否定した。

姫巫女の顔が再び男に向けられ、凝視した。

「―――かもしれぬ。しかし、わしのように主君に裏切られ、人々に裏切られて生きてきた者は、人の心など信じはせぬ。わしのように辛酸をなめつくした者のみが、この世の無常を知ることができる」

姫巫女の口から紡がれたのは男の声だった。

憎悪をこめてリキを睨みつける。それに臆するふうも無く、リキは淡々と前と同じ質問を投げかけた。

「お前はだれだ」と――。

「くくく…」

「都を騒がせてもまだ足りぬか、方術師」

「足りぬな。――まだまだ足りぬ…! わしの魂魄が塵と消えるまでこの世のすべてに災いをもたらしてやろう!」

泣き叫び血の涙を流す顔と、嘲笑の声。

その相反する姿にカイは眉をひそめた。

(姫巫女が泣いている…)

そうなのだろう。

しかし、違和感が伴う。

(違う…? これは方術師の涙…?)

そもそも姫巫女ほどの霊力者がそうやすやすと憑かれたりするだろうか…? 自分もそうであったように、強い意志は厳然と影響するものだ。逃れようとする意志さえあれば、必ずほころびができる。

しかし、この姿は……

カイはますます眉をひそめ、まるで、どんなささいなことも見逃すまいとするかのように姫巫女を見つめた。

姫巫女に憑いた方術師は、拳を床に叩きつける。

何度も、何度も。

白い手はみるみる血に染まった。

「憎い…すべてが憎うてたまらぬ…! わしの家族を奪い、友を奪い、生活を奪った奴らが憎い…! 許せぬ…許すものか…っ!」

憎いと言葉が吐き出されるたびに、姫巫女の身体から瘴気が噴出し、血の涙がほとばしった。

ふいに。

「お前、勝手だよ」

少年の声が割り込んだ。

怨念に突き動かされていた方術師でさえ、はっとするほどに少年の声には力が宿っていた。

竜王もリキも、そして憑かれた姫巫女も少年に目を向けた。

「お前、自分のことばっか言って、自分だけがつらい目にあってきて一人ぼっちみたいに言ってるけど、じゃあお前みたいな奴の言うことを信じて受け止めた姫巫女の気持ちはどうなるんだよ! 姫巫女だって、リキだって主君なんてもんはないけど、好きな人と結ばれなくて、でも、ずっとそれを我慢してて一人ぼっちだったんだ! お前の過去がどんなもんか俺は知らんけど、だけど、つらくて人を憎みたい気持ちは誰にだってあらあ! お前だけじゃない。お前なんかよりずっとつらい思いしたことのある人だっているんだからな!」

激情を押さえ込んだような声音の少年の胸には、誰が浮かんでいたのか――。リキには手にとるようにわかった。

青年の大きな手がカイの頭に置かれる。

しん、と静まり返った庵の中、姫巫女の相貌が、彼女のそれに戻りつつあった。

「カイ…」

血の涙が、透明なしずくに変わっている。

そっと手をのばす。少年は反射的にその手をとった。少年の手よりも小さな手がきゅっと握りかえしてきた。

「ありがとう、カイ。優しい子ね…いい子ね…。私はきっと誰かにそう言ってもらいたかったのね…。きっと、この方もそう…。この方は、主君に殺されそうになり、大変な思いをして倭へ渡ってこられたの。ご自分の宿業であることは、この方自身もよくご存知です。ただ、この憎しみだけはご自身にもどうすることもできなかった…。カイ、お願いがあります」

「はい」

「その剣で私を刺してください」

「――っ!?」

「私、実を申しますと、もういくばくの命もないのですわ…」

「えっ?」

瞠目する人々に淡い微笑を見せ、ふっと吐息した。

「私の家系はこのような能力があるものがよく生まれたそうです。けれど、あまりに強すぎるためか短命なのです。私の母も、その母も…今の私の歳…三十路の歳を過ぎる頃亡くなっているのです」

「な…」

「――この方と知り合えたのもなにかのご縁でしょう…。母や祖母はひっそりと息をひきとりましたが、幸い私はあなたやリキさま、海竜さまにみとられて逝けるんですもの。こんな嬉しいことはありません。一人で逝くなんて、なんて寂しいことかと思っておりましたけれど、私は一族の中で一番の幸せ者ですわ」

姫巫女はそう言って嬉しそうに笑った。

さっきまでの瘴気が嘘のように消え去っている。

「―――」

リキは絶句したまま、姫巫女を凝視していた。

少年はしばらく姫巫女の顔を見つめていたが、やがて頷くとすっくと立ち上がった。

「竜神」

虹色の帷子を着た麗人がゆっくりと近づく。少年は持っていた青竜刀を差し出して言った。

「竜神の手なら姫巫女は神の国へいけるだろう?」

「…坊、それは野暮と言うものじゃ」

「へ?」

きょとんとして竜王を見上げる少年の頭を手でくしゃくしゃにしながら、くすくす笑った。

「そなた、もう少し男女の機微に関して学んだほうがよいぞ」


「?」 

ナンニョノキビ…?


ますますぽかんとした少年の頭をもう一度くしゃくしゃにして、

「それにな、そんな無粋なモノで女人の身体を刺すとどういうことになるか解らぬでもあるまい」

言われて、その大きな青竜刀に目を落とす。確かにこんなもので刺したりすればたいへんな惨状になるだろう。しかし、破魔の剣はこれしかない。

困ったように見上げた少年に微笑むと、竜王は姫巫女に近づき、片膝ついた。

「…手向けじゃ」

差し出されたのは細い短刀。息を飲むほどに美しい宝剣だった。瑠璃、瑪瑙、水晶、珊瑚などが埋め込まれ、柄には竜が彫られている。飾り房のついたそれを、姫巫女はうやうやしく奉げ持った。

「海竜さま…ありがとうございまする」

「よい旅をな」

竜王はそう言ってすいと立ち上がり、少年の腕をとって外へと促した。

「え、あ…」

腕を引かれて続こうとした少年は、戸口でくるりと振り返った。

「…さよなら、姫巫女…」

「さようなら、カイ」

それは、カイが最後に見た姫巫女の微笑だった。



 しばらくして、姫巫女の庵が蒼い炎に包まれた。








※※※拾肆




 それは、長く短い間の話であった。

帆船の一室で、水夫たちはリキの話に聞き入っていた。

唸るもの、考え込むもの、神妙な顔をするもの、それぞれであったが誰一人としてそれが作り話だなどと言うものはいなかった。ただし、リキは少年の素性については今までどおり黙秘していた。

「そうか、姫巫女が…」

古株の水夫が痛ましそうに呟く。それを合図に一同は姫巫女の冥福を祈った。



 「竜神」

月が煌煌と輝いて、海と空を蒼く染めていた。少年は甲板に上がって呼びかけた。


 燃える庵の煙を見た水夫たちが慌てて駆けつけたとき、そこにはカイとリキ、そして、少女巫女が庵に向って合掌する姿があった。

水夫が到着する前、竜王は去り際にそっと少年に耳打ちした。

「月が中天にさすころ甲板に出ていよ」と――。


 やがて、漣がたち、白く輝く竜が姿を見せた。

ゆっくりと、人の形に変わった竜王は、帷子の脇から笛を取り出した。

「そなたの笛じゃ」

落としてしまった大津皇子の笛だった。

「あ! ありがとう、竜神!」

嬉しそうに笑った少年は、大事そうに受け取るとしばらく笛をなでながら眺めた。

「坊、一曲所望してもよいか? …死んでしまった者たちの死出の旅路の手向けにもな」

麗人の言葉に少年はこっくり頷いた。


ぴーい…ぴーひょう…

ひょうぅ…


笛の音が暗い波間に静かに響く。

高く、低く、遠く澄み渡り、溶け込み、すべての者たちを慈しむようにしみわたっていった。

竜王はしばらく耳を傾けていたが、ふいにその手が宙に差し出された。

いずこからともなく現れた軍配が竜王の手にあった。


ぴぃひょう ひょう

ぴーひゅるる…


 笛の音に引き寄せられたリキや水夫たちが見たものは、カイの笛にあわせて、白く輝く帷子をきた麗人の艶やかで鮮やかな舞であった。

その手がその足が、流れるように甲板の上で舞う。そのたびに光が散り、はじけた。


 鎮魂の舞はいつまでもいつまでも続いた。


 

          ※



 翌朝、安芸津は人でごったがえしていた。

伊都岐嶋の少女巫女は一旦、安芸津に帰り弥山の庵が建て直されたらまた戻るということだった。

それにしても、今日は見送りの人々が多い。

「帆をあげろ!」

「船を出すぞ!」

水夫たちの掛け合う声が空にこだまする。

ゆっくりと、船が岸から離れていく。岸辺で手を振る少女巫女に、カイは大きく手を振り返した。

「おお…神の子が旅立たれるぞ!」

老人の言葉に、見送っていた人々は”おお”と呟いて一斉に手を合わせたのである。

「な…なんだ!?」

カイはきょろきょろと見回した。海竜が現れたのかと思ったのだ。

リキは苦笑し、水夫たちはにやにや笑って言ったものだ。

「そりゃあ、なあ、カイよ。おめえ、昨晩のあの白いお人の舞を見た者はけっこういるんだぜ?」

水夫がポンと肩をたたく。

「ああ…。そうか…」

解ったような解ってないような返答をした少年に、水夫たちは声をあげて笑った。


 船は新羅を目指して出発した。








※※※跋




 ”竜に守護された子供”の噂は、先日の方術師の騒ぎとあいまって瞬く間に都に広がった。

「白い竜に乗った美童が妖魔を追ってきたんだと」

「なんでも、大津皇子さまに瓜二つだったとか」

「赤い巨人をお供にしていたそうな…」

こんな具合に他愛も無いものばかりであったが、赤い巨人とはリキのことであろうか。

彼が聞けば憮然としたであろうが、しかし、政に関わる人々…ことにあの夜、大内裏に赴いた面々には恐怖に身を苛まれた忌むべき事柄であった。

 あの輝くような少年は、まこと、大津皇子の忘れ形見に相違ない。帝のおわす御簾に投げかけたすさまじいまでの殺気を宿した目を、人々は忘れることはないだろう。

――そう、ただ一人、別の意味であの少年を忘れないであろう人がいた。

藤原不比等である。


 文武帝とその祖母・太上天皇である鵜野讚良が受けた衝撃は計り知れないものがあった。

それはそうだろう。あの少年の父である大津皇子を謀るために不比等に指示したのは太上天皇だったのだから。

だからといって、責任逃れをするつもりはない。この政庁にあれば、自分とていつなんどき大津皇子と同じ目にあうかわからないのだ。そんなことは重々承知している。承知してないのは、謀を企てた本人たちだ。

あの夜、そういった面々が恐怖に顔を引きつらせるのを見て内心せせら笑ったものだ。


 不比等はここしばらく、物思いに耽っていた。…にしては、怠惰な恰好で、頬杖をついてぼんやりと空など眺めている。

奥方にはまるで恋をしているようだとからかわれた。

(あの元気な坊やは今頃どうしているだろう?)

大津皇子の忘れ形見。

美しい容貌も、なによりあの瞳の輝きも、まるで皇子が現れたかのようであった。細い身体に似合わない大剣を軽々と操り、妖魔を前にして一歩も引けを取らぬ豪胆さと精神の強靭さ。

(…あれが片腕ならこれほど頼もしいものはなかろうなあ…。逆に敵ならあれほど恐ろしい者もないだろう)

頬杖をついたままぼんやりとそんなことを考える。

政庁にいるときの敏腕な、したたかな男の顔からは想像もつかないほど、間の抜けた表情だった。

(祟りなんぞとほざくものもおるが、大津もあの子供も、こんな都のひとつやふたつに執着なぞするものか。足で蹴飛ばすぐらいのことはするだろうさ)

羨ましいような、口惜しいような…。

自分とは違う世界にいる彼らを、不比等は妬みたい気持ちだった。

――けれども。

(今はそっとしておこう)

たとえ、天武帝直系の皇子とはいえ、あの元気者がこんなところで大人しく政に励むとは思えない。それに、もしも政庁に入るようなことになれば、どこぞの阿呆どもがあの子供を利用するとも限らない…。

(父君に感謝することだ、粟津王)

不比等は立ち上がると澄み渡った空を見上げた。

彼には、粟津王がどこに匿われているか、だいたい想像がついている。だが、あの少年にはあのまま真っ直ぐに育っていってほしかった。

思う反面、ふと、少年が政庁に出仕して、”退屈退屈”と筆をふりまわすのを想像して、彼は一人楽しく、くすくす笑った。



                        完


半年ぶりに投稿させていただきました。

少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

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