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AWATSU-5-

※※※玖




 瀬戸が一望できた。

海竜王はゆるやかに宙空に浮かび、眼下の人々が行き交う様をみている。

また、深い青の海が陽光に照らされてきらきらと輝いていた。無数の小さな島が点在しており、漁をする船があちこちに見える。

「一体カイはどこへ…」

焦りに苛立つ男を竜王がたしなめる。

(落ちつくがよい。今、伊都岐嶋の巫女が探っておる。しかし、あやつ、京を制してどうしようというのか…)

「…さあ…。殿上人がどうなろうと私は知ったことではないが、カイだけは京へ入れるわけにはいかないのです」

(ほう? 何故に? そういえば、術師はあの子供を粟津王と呼んでいたが、”カイ” とは通り名か?)

「ええ。あの子の身分を隠すために、私がカイと名づけたのです。カイは京の皇族の血をひく子供なのです。父君は政権争いによって無実の罪を着せられ自害させられました」

(なるほど…。我の記憶にあるのは確か、あのあたりで五人の王が覇権を争うておった頃じゃが…人間の世の流れは目まぐるしいことだの)

竜王の言う五人の王のことは、いつの頃のことなのかリキにはよくわからなかった。

はるか昔から、この島国もあちこちで小さな国がおこり、覇権を争って戦をしていたのだろう。

竜王はリキの思案を知らぬげに続けた。

(あれは天晴れな魂を持つ子供じゃ。あのような輩にいつまでも操られておりはせぬじゃろうが急いだほうがよかろう)

「――ええ」

断固としたリキの言葉に、竜王はふと思いついたことを尋ねてみた。

(おぬしをここへ戻したは誰ぞ?)

「粟津王の父君であらせられる大津皇子様です」

(父御か…。む! 巫女があれを見つけたようじゃ)

竜の首が翻り、雲間にうねった。

 


 妖術師は馬を駆って京に疾走していた。

海路をとるわけにもゆかず、飛ぶわけにもいかず身を隠して行くには山中を行くしかなかった。

「走れぇ! 走れぇ! もっと速く!」

血走った両目には狂気の光。がむしゃらに鞭打たれて馬は半狂乱の勢いで山道を疾駆していた。

ごうっ!

突然、風が轟音とともに上空を駆けた。

術師の目が海竜の影をとらえ、思わず舌打ちした。思ったより追撃が早かった。伊都岐嶋の姫巫女に尾鰭を返され、また神力を取り戻した海竜は今度こそ術師を許しはしないだろう。

竜の影におびえて馬は山道を反れ、滅茶苦茶に逃げ始めた。

「ちっ!」

カイに憑依した妖術師は舌打ちして暴れる馬から飛び降りると、木々を縫うように走りはじめた。

「ぜぇ…ぜぇ…」

右へ左へと走る術師の前に、ひょうっと空から舞い降りた人影があった。

「むっ!」

術師の足が止まる。胸に鏡を掛け、手には長剣を持った男を見、術師は多少驚きの声を洩らした。

「ほほう。おぬし、わしが切った男ではないか…。あの傷がふさいでいるとはのう。竜が治したのか」

少年の口が大きく左右に吊り上る。

それを痛ましげに見つめたリキが静かに口を開いた。

「妖術師、その子から離れろ」

ゆっくりと長剣の刀身が持ちあがっていく。

「ほっ。こやつを切るか? おぬしに養い子である粟津王を切れるかな?」

「切れるとも。――無論、その方が死ねば、私も生きてはおらん」

「―――」

冷たく底光りする目で自分を見据える青年を見、忌々しげに口をつぐんだ術師だったが、またもにんまりと笑った。

「ぬし、忘れておるかもしれぬが、あの竜はもはやわしのものぞ。いくらここまで来たとはいえ、わしが竜の名を唱えればぬしの身などひとたまりもないぞ!」

術師は勝ち誇ったように叫び、印を結んだ。

「…竜王よ、どうなのです?」

恩があるとはいえ、こんなところで竜に襲われたのではたまったものではない。

眉をひそめてリキが振り返ったとき、そこには海竜ではなく帷子を着た輝くばかりの麗人が立っていた。

目をまるくした男に麗人がくすりと笑い、

「試してみればよい」

術師のほうを見やった。

指を組み印を結んで梵語の呪文を唱えている術師の周りに風が立ち巻き、髪をなびかせていた。そして、妖気の高まりとともに、術師は竜の名を唱えて麗人に向け縛の術を放った。

「竜王!」

リキは思わず叫んだ。

しかし。

麗人は微笑を浮かべたまま、髪の毛一筋さえも乱されることなく立っていた。

「なっ…なぜじゃ! なぜ効かぬ…っ!」

全魂の呪を、またも跳ね返された術師は恐慌をきたし、再び試みようと荒々しく印を結んだ。

「無駄じゃ、術師。やめよ。我が名はすでに輝煌ではない。そなたの術はもはや効かぬ。ついでに言っておくが、仮に我が名をそなたが唱えたとしても、もう我には効かぬよ。我に名を与えた者は、名と共に「鍵」を与えたのじゃからな」

心底楽しげに、くつくつと笑った麗人は、リキに言った。

「ま、というわけじゃ。安心して子供の名を呼んでやるがよい」

名…。

カイの本当の名は粟津王だ。

自分がつけた「カイ」というのは素性を隠すための方便でしかない。

大津皇子があれの好きな名を呼んでやってくれと言った。その名とは…。

リキは凝然と立ち尽くした。

ふと、昔の記憶が蘇る。


 少年が7つになった日、彼は少年の本当の名を教えた。

カイは一瞬ポカンと口をあけていたが、

「俺の名前はカイだっ!」

告げたリキの方がびっくりするほど大きな声で叫ぶと、文机をひっくり返して室を飛び出した。

その後、大きな桜に登って拗ねている少年を見つけたリキは桜の下から声をかけた。

「粟津王とは、貴方の父君が貴方に下さった名です。それを無下になさってはいけません。…ですが、貴方がカイと呼ばれるほうがよいのなら、今までどおりカイと呼びましょう」

そっぽを向いていた少年が口をへの字に曲げて振り返り、

「うん。カイがいい」

こくりとうなずいた。


 困惑に固まっていたリキの相貌がふっと緩む。逡巡はあとかたもなく消えていた。

リキは力強く養い子の名を呼んだ。

「カイ!」

ほぼ同時に、

「くそっ…!」

術師は反転し、駆けだそうとした。しかし、男が少年の名を呼んだ途端、体は凍りついたようにピクリとも動かせなくなった。男の声は山の空気を揺るがすほどに強く、術師の耳を鋭く打った。

「ぬ…ぬ…」

「カイ! 起きなさい! いつまでも妖術を甘受すべきではない!」

身体の奥底にいる少年自身が身じろぎした。


――カイ! ――


少年は暗い空間でたゆたいながら、うっすらと目を開けた。

懐かしい声が自分を叱っている…。

(リキの声だ…)

カイはぼんやりと考えた。

(ぬ! させるか!)

かたや、妖術師はカイを再び眠らせようと呪文を唱え始める。

再び、カイはうつらうつらと眠りに落ちかかりはじめた。

ピーチチチ!

木々の間から甲高い声をあげて鳥が飛び立った。

目の前、硬直したまま反応を示さない少年に、業を煮やしたように男が怒鳴った。

「起きろカイ! 置いて行くぞ!」

(――っ! 待ってリキ! 俺も行く!)

少年は思いっきり跳ね起きた。


ぱあん! 


何かがはじけるような音。あふれてくる光。そんなものが一斉に少年をとりまいた。

「むん!」

リキの気合とともに、長剣がうなる。

ギャアッ!

獣のような声とともに、黒い影が上空へ飛んだ。

(急げ! あやつの本体を突き止めねばならぬ!)

いつの間にやら竜身に戻った竜王の背に、リキは目覚めたばかりで混乱気味の少年をかつぎあげ、自分の前に降ろしてやる。一気に上昇した竜王は京へ向う妖術師の影を追った。

「リキ! 傷は…っ」

「竜王に治していただいたのです。今はそれよりあれを…」

リキは悔恨に顔を歪ませる少年にほほえみ、謝ろうとするのを止めると長剣を渡してやった。そして胸に掛けた鏡をはずそうとしが、その手を少年が押しとどめた。

「――それはリキが持ってて」

「しかし…」

「…その鏡はね、姫巫女と繋がってるんだ」

にっこりと、少年が笑った。



 上空に舞い上がり、ほどなくして竜王は妖術師の黒い影を見つけた。

それめがけて青白い炎を吐きつける。非常な勢いで妖術師の影に襲いかかった火炎は、その右半分に纏わりついた。のたうち、もがきながら、それは次第に速度をあげ京にむかった。

 と、いきなり山が切れた。

眼下に広がるのは京の都――藤原京である。

カイの父である大津皇子がいたのは飛鳥の浄御原であった。しかし大津皇子の死後、8年目にしてその都は捨てられた。

今、藤原京は夕焼けに赤く染まり、大路には人通りもなくなっている。

リキはあの日の事を思い出さずにはいられなかった。大津皇子より粟津王を預かった日の事を…。


 青白い炎とそれを追う長大な影は、京を警護する舎人などに発見された。

飛鳥山のほうへ飛んでいくのを呆然と見送った人々は、我にかえると慌てて報告に走った。だが、報告を受けた舎人の束は夕暮れ時でもあり見間違いであろうと取り上げもしなかったが、次から次へと似たような報告が入ってきたため、政の主だった面々に報告せぬわけにはいかなくなったのであった。

 そんな折も折、吉備の秦氏の急使が帝へ謁見を願い出たのである。

さらに追い討ちをかけるように、大路を駆けてくる舎人が叫んだ。

「竜が…っ! 竜が飛鳥山に降りたぞ!」

「何だとっ!?」



 「妖術師に操られた竜だと? あほらしい」

太政大臣・藤原不比等は苦々しい面持ちで吐き捨て、秦氏の急使が持ってきた書状をポイと放った。

しかし、だ。

これが万一真実であり、帝を狙った者の仕業であるのなら放っておくわけにはいかなかった。その妖術師とはいかなる者か、またそれを糸引く者がいるのかどうか確かめておかねばならない。

「飛鳥山に兵を出せ。何者か確かめて参れ」

それから彼は陰陽頭を呼んだ。


 陰陽五行は天武帝により盛んになり、陰陽寮は国家機関として重要な役割を持っていた。

天武帝は式神を用い、天文や遁甲をよくしたという。同時に、陰陽五行がひろがることによって我が身にかかる反乱も危惧し、厳しい抑制を加えた。

この時代、陰陽寮はもっぱら天文、暦、そして占術だけにとどまっていた。祓いや祈祷といったものは密教僧侶や神祗官の職分だったのである。


 「お呼びでございますか」

しばらくして、陰陽頭が静かに入ってきた。

「うむ。妖術師が竜を操って飛鳥山に降りたそうだが」

「はて。あれには妖の者は憑いておりませなんだが…?」

「む?」

「わたくしが視ましたのは妖の者を追う竜と、それに乗っているヒトでございました」

二人はしばし顔を見合わせた。

訝しげに不比等は考え込む。陰陽頭は低く呟くように言った。

「わたくしが視たところでは、政に大事あるようなことにはなりますまい。しかし、波紋は広がりましょう。そして、いまひとつ…」

「――?」

陰陽頭はいっそう声を低め、不比等に囁いた。

「……帝の火が消えかかっております」

「―――!」

闇夜が京の都を包み込んでいた。








※※※拾




 一方。

飛鳥山に降り立ったカイ、リキ、海竜王は妖術師を追って林の中へと入っていった。

日はとっぷりと暮れ、闇に包まれていた。月光が生い茂る木々の間から山肌に白い光を落す。その光を頼りに林の中を縫うようにして進む。

先頭に立つ竜王は人の姿に形を変えていた。虹色に輝く帷子を着、その貌は白く美しく、そして高貴であった。

カイなどはしばらくぼけっと見惚れたくらいである。

この闇夜でも、麗人の身体から発する青白い燐光でぼんやりと明るく見え、月光が落ちかかれば溜息が出るほどに美しく輝いた。

「――ふむ。あちらか」

竜王は足を止め、右前方へ視線を動かした。

しばらく歩くと林が開けた。

狭い空間に朽ちかけた草庵が黒くうずくまるようにぽつんと建っているのが見えた。

周囲は嫌な匂いが漂い、瘴気が沈殿しているように感じられた。

「生ける者の気配がない…」

かれの呟きに、カイとリキは眉をひそめる。

「…あいつ…体何なんだろう?」

「――?」

「自分の名もとうに忘れて、術を得たときには何十年か何百年かたってて…。何のために、そうまでして術が欲しかったんだろう…?」

カイの呟きを耳にしつつ、竜王はスタスタと草庵へと近づいていく。二人がそれに続いた。

「まったく、何という臭さだ」

秀麗な相貌を不愉快そうにゆがめて毒づき、戸を蹴飛ばした。なかから更に濃厚な瘴気と異臭が流れ出た。

少年は思わず鼻をつまんで顔をしかめたが、興味津々に竜王の背後から中をのぞきこんだ。

「これ、危ない」

慌ててリキが少年の襟首をつかんで引き離す。

まっくらな小屋の中ほど、何かがうずくまっていた。

「――木乃伊ではないか。妖術師。木乃伊らしく黙っていないで礼など言ってはどうじゃ。わざわざ来てやったのじゃから」

竜神らしい高慢さで、彼は美しいおもてに皮肉げな笑みを浮かべた。

「くっ…けっけけけ…」

闇の中から怪鳥のような声が洩れる。ゆらり、とそれが動いた。

「ガーッ!」

突然、獣のような声を発し、小屋の戸口にぶち当たりながら飛んできた。

「わっ!」

少年が慌てて身をよじる。

月光のもとに現れたそれは、干からびた全身に反して異様に光る目と、がちがちと噛み鳴らされる歯がいっそう化け物らしく見せた。

木乃伊は再び奇声を発して襲い掛かってきた。

「坊、切れ!」

竜王がよけざま叫ぶ。

反射的に長剣を逆袈裟に切り上げた。

ざん、という鈍い音と、意に反して棒きれを叩き切るようなあっけない感触。

ばさりと木乃伊の半身が地に落ちた。すかさず竜王がそれに火を放つ。破裂を繰り返し青白い炎が木乃伊を砂に変えた。

頭と体半分が残った木乃伊は、しかし半身を失ったことに何の興味も抱いていないようであった。カラカラと笑いながら宙にぷかぷか浮いている。

「ホーホッホホ…わしはここじゃぞ」

木乃伊がちぎれた体を闇の宙に浮かばせて笑っているさまは、あまり見ていて楽しいものではない。

リキもその異様さに眉を寄せている。

「お前、一体なんなんだ?」

カイが剣を構えつつ木乃伊に問うた。

「何、とは? わしはわしじゃ」

カイの問を引き継ぎ、リキが静かに問い返す。

「木乃伊となる前の名はなんと言う? それだけの胆力と術を持っているほどのおぬしだ。生身の体があるときは朝廷への出入りもしたであろうが。――天武帝は天文と遁甲をよくされたときく。おぬし、大陸から来た方術師ではないのか」

「――そうであったかもしれん。……ふうん…一介の船乗りが方術を知っておるとはの。奇異なことじゃの。だれぞに習うたのか?」

「いや。あれは習うことは僧も禁じられている。ただ俺は知っているだけだ」

「―――」

木乃伊は訝しげに黙りこんだ。

竜王の相貌には面白そうな表情が浮かんでいる。少年には何のことやらさっぱりわからなかったが、昔、リキに三才のことは教わった。

【天道、地理、人心を掌握した上で、時期を読んで行動し、勢いに乗って発動すること云々】

兵法のことだったように思う。

(なんでリキがそんなこと知ってんだろう…?)

少年はふと疑問に思った。改めて養父であり、兄であり、師であり、友である男をまじまじと見つめた。

その少年の心中を読んだかのように、竜王が楽しげに口をはさんだ。

「坊よ、今はそれどころではないぞ。木乃伊がそなたを狙っておるぞ」

言った矢先に木乃伊が不気味な顔を突き出しながら少年に向かって飛んできた。

「うわあっ!」

慌ててよけつつ、カイは麗人に抗議した。

「竜神! 面白がってないでコレ何とかしてよ!」

竜王は楽しげに笑っただけだった。

「方術には方術で対するしかないんだが…」

「だーっ! リキまでのんびりしてんなよ!」

カイは癇癪を起こしつつ、再び飛んできた木乃伊をよけざま薙ぎ払う。

ばさりという音と共に青白い炎が包んで砂に変えた。

木乃伊の首が笑いながら浮かんでいる。

「ちっ」

竜王と少年が同時に舌打ちした。そのとき、

「おい、そこに誰かいるか!?」

誰何するだみ声が林から聞こえた。

「!」

「がーっ!」

木乃伊の首が、獲物を見つけた獣のように奇声を発し、歯をガチガチ鳴らして兵士に向って飛びかかった。

「う、うわーっ!」

この世のものとは思われぬ”首”を見た兵士は叫んだまま居竦んでしまった。

血肉まで食らい尽くしそうな首の声は、しかし、兵士の断末魔に消されることはなかった。

「えやあっ!」

元気のよい少年の気合とともに長剣がうなりをあげて木乃伊の首を真っ二つに叩き切った。

「げぽっ」

首が一瞬ピタリと静止する。

竜王の青い目が光を放つ。分離する瞬間、首は青白い炎に包まれ、燃え上がった。

「やたっ!」

少年は歓喜の声をあげた。しかし、

「まだじゃ、坊」

竜王が静かに言い、雅な姿を兵士たちの前に現した。

「………」

不気味な瘴気の漂う闇の中から現れた、青白く燐光を放つ麗人の姿を、兵士たちはしばし陶然と見つめた。

「兵士ども、よく聞くがよい。方術師の肉体は消滅したが魂は飛んでいったぞ。そなたらの主を喰われたくなければ引き返したがよい」

玲瓏たる声音には逆らいがたい威厳が漂う。

光を放つ麗人を、兵士らは”神”と悟った。

「はっ…ははーっ」

兵たちは深々とひれ伏し、大慌てでとって返す。それを見送って少年は木乃伊の燃えつきた砂に目を落とした。

「――都っていうのは、体がこんなになるまで憎しみとかそういものが生まれるとこなのか…?」

「カイ……」

「坊よ。それは人間それぞれじゃ。坊の父御のようにきら星のごとく輝き、したがために消されてしまった人間でも、この世の栄達などというものは、泡のような儚げなものであるということを悟ったものであれば未練もなにも残るまいよ。あのように怨霊となるはこの世の権力の確かを信じすぎ、己を過信しすぎたためじゃ。なるものはなるようにしかならぬ。己の不心得でなったことは結果として変えようもない。そこからどう己が生を切り開いていくのかは己が心ひとつじゃ」

竜王はふと苦笑をもらし、

「…心のどこかでそうであると解ってはいても、頑是無い子供のように己を取り巻くものに逆恨みをする…」

その白い手がカイの頭におかれた。

「坊はこの都で暮らしたかったか?」

「ううん。父上が俺をリキに預けてくれたからこそ、俺は船にも乗れるし、リキと一緒にいられる。それにさ、竜神とも友達になれた。大伯の郷にはおじじもいる」

「―――」

微笑した竜王の顔を見上げ、少年はふと思いついたことを尋ねた。

「そういえば、竜神はどうして術師の術が効かなくなったの?尾鰭を返したから?」

「操られていた我の尾鰭を切ったのがそなたであろうに」

不思議そうに見つめる少年とリキを眺めて竜王は楽しげに笑った。

「体の一部が戻ってきたからとて、そなたが我に名を与えねばあのまま操られておったであろうよ。確かに、あれがないと飛ぶのに困るのだがな」

面白そうにカイを見やる竜王の言葉を反芻していた少年は愕然とする。

「名…? っ! えっ! お、俺が? いつっ???」

カイにはまったくそんな覚えはなかった。竜王はひとつ答えをくれた。

「そなた、我から落ちたとき、我を見て何と言うたか覚えておるか?」

「―――」

父の笛が海に落ちたときだ。

方術師が少しの間自分から離れていたとき、迫る白銀の竜の怒りに燃えるあの目。――なんて綺麗な青だろう――。

「海のようだって…俺の名前も海だから、同じだって思ったんだよ」

――それが何故竜神の名になるのか解らない。

竜王はくすりと笑うと誇らしく言ったものだ。

「そのとうりじゃ。我が名は”カイ”。それともうひとつ。我が魂は”音”だけでは縛せぬぞ。――ま、それは秘密にしておこう。ともあれ、海の王にふさわしい名じゃろう?」

片目をつぶってみせた竜王に、少年はそれはそれは嬉しそうな笑顔を向けたのだった。








※※※拾壱




 「神だとっ!?」

不比等は叫んだまま絶句した。

「だあーっ! どいつもこいつも! 神だの竜だのと絵空事をほざきおって!」

不比等は首の後ろをガリガリ引っ掻きまわした。

すでに神祗官や僧侶には妖術師を封じる用意をさせている。

陰陽寮ではこの異変を占い、あわせて星の動きも追っているはずだった。


 

 大内裏では警護する兵士を増やし、神祗官・僧侶らがそれぞれ調伏の儀式を始めた。その様子を、帝・左右大臣らが見守っている。

真言や祭文が厳かに響く中、控えていた女官がいきなり床に突っ伏した。

「これ、どうなさいました?」

「しっかりなさりませ」

他の女官たちが助け起こそうと抱きかかえた。

「ガーッ!」

「きゃああっ!」

悲鳴が響き渡り、高官、兵士らは一様にビクリとした。

「何事だ!?」

「もしや例の…」

「帝をお護りしろ!」

一変。女官達の悲鳴は一層たかくなり、列席していた高官たちも腰を浮かせた。

ばたばたと兵らが走り回って騒然となった中でも、僧等は祈りをやめず、ますますその響きに熱がこもってきていた。帝や高官たちを護るように立ち並んだ兵士らは、剣・弓をつがえ身構える。

「ひゅううぅ…ひゅううぅ」

血まみれの女が内裏の中から現れた。その口には女のものとおぼしき手首が咥えられていた。

「うぬ! 出たな!」

儀式を取り仕切っていた僧正が何者かにとり憑かれた女と対峙する。僧と神祗官たちの祈りの声が激しく空気を震わせていた。

「うるるる…」

女の喉が獣のような唸り声を発し、血走った目をぎょろりと動かして御簾の向こうの帝を見据えた。

「―――っ!」

帝はビクリと体を震わせ、うわずった声で僧に命じる。

「な、何をしておる…は、は、早ようあれを消さぬか…!」

「ははっ」

兵士たちが僧正を援護するように女を取り囲む。ぼとりと手首を落とした女は、しわがれた声で歌を紡ぐように言った。

「我が恨み…思い知れ殿上人どもよ…こは我が恨みぞ…」

「恨みとは何だ。聞いてやる」

「我が…恨み…」

女の目から血の涙が流れた。

僧と神祗官たちの祈りが女にとり憑いた妖術師をじわじわと締め付けている。しかし、女から妖術師を切り離さぬことには、女を切ったとて妖術師を取り逃がしてしまうだけだろう。

僧正が言葉を継ごうとしたとき、ふいに頭上から子供の声がふってきた。

「そいつに理由を聞いたって無駄だよ、おじさん」

僧は上を見上げ、ぎょっとした。

いつのまにか、白銀の巨大な竜が、まるで人々の視界を埋めてしまうほどに近く浮上していたのだ。その竜に当然のように乗っている子供と静かに控えている赤銅の肌をした長身の男が人々を見下ろしていた。

「なっ…なんと…!」

「お…大津皇子が…っ!」

左右大臣の搾り出すようなしわがれた声が内心の驚愕と恐怖を如実にあらわしていた。

不比等さえもぎょっとして、食い入るように少年を見つめた。

「何と?! 今、なんと申した!」

帝はビクリと体を震わせ、御簾に手をかけた。傍にいた女官が慌ててそれを押し止める。

「み…帝! お待ちくださりませ!」

「放せ! 聞こえたぞ! 大津と申したな! …ええい、放さぬか!」

御簾から出ようとする帝とそれを抑えようとする女官たちがもみあっているうちに、吹き込んだ風に御簾がふわりとなびいた。

帝の目に、竜に乗った少年の姿が飛び込んできた。

その相貌――幼き日、亡き父と共にまみえた凛々しい青年の相貌が鮮やかに蘇る。そして、彼の突然の死がどういったものであったのかは………ひとの口には戸は立てられぬものだ。それを知ってしまった時から、今上帝の中には、その不遇の皇子に対する負い目があったのかもしれなかった。

「お…大津…ひ…ああああああ」

腰を抜かした帝は、ガタガタと震えだし頭を抱え込んで突っ伏した。

(何ということだ…!)

凛とした面と、すっと通った鼻筋。涼しげな目元…なにより、光り輝くようなあの目は、人々と父王の期待を一身に受けていた、――いたがために鵜野皇后と不比等が謀り自害に追い込んだ大津皇子に見間違いようがなかった。

さすがの不比等も背中に氷のような冷や汗が伝い落ちるのを痛いほど感じた。左右大臣に至っては顎が外れんばかりに口をあけ、蒼白な顔に脂汗をたらしながら腰を抜かしている。

その、人々の驚愕と恐怖など知らぬげに、少年は父とよく似た声で続けた。

「そいつはね、大陸から渡ってきた方術師だよ。名前も恨みの理由もとうに忘れ果ててるんだ」

にっこり。

この笑顔ほど、更に人々を恐怖のどん底に突き落としたものはなかったろう。少年はすっくと立ち上がる。

後ろにいた青年が、胸にかかっていた鏡を少年の首にかけてやった。

長剣を持ったまま、海竜から飛び降りた少年は、帝・両大臣たちの前にその姿をさらした。

リキは油断なく目を走らせ、いつなりとも飛び出せるように構えていた。

「あな…貴方さまは…」

僧正がからからになった喉を上下させて呟いた。少年がにこりと笑い、いくぶん言葉遣いを改めた。

「――父をご存知か」

一言呟いたあと、女のほうにスタスタと歩いていった。

「…いいかげん他人につくのはやめろ、方術師。お前の恨みを受け止めてくれる奴なんてもうこの世にはいないんだから」

カイは低く静かに言い、長剣を構えた。

「うぬっ…どこまでも邪魔しおって…」

血まみれの歯をむきだして唸る。カイはじりじりと間合いを詰めていった。

呆然としていた僧等は我に返ると再び真言を唱え始める。

「ううう…ぐるるっ…忌々しいっ…」

バリバリと耳を掻きむしる。鮮血がふき出した。

方術師は呪言を振り切るようにひょうっと飛び上がると神祗官の一人に襲い掛かった。

「うわあっ!」

カイの長剣がぶんと鳴って、剣の腹がしたたか女の背中を打った。

「ぎゃっ!」

「押さえ込め!」

僧正の号令で僧や神祗官、兵士らが束になって女を抑えにかかる。

歯を剥き出し、唸り声をあげて暴れる女に向って、僧正は印を結び真言を唱えはじめる。その手がさまざまな印を形作っていく。

「ぐおおお……」

不気味な声があがり、ゆらゆらと黒い影が女の体からせり上がってくる。少年は長剣を構えたままその様子をじっと見ていた。

ゆらり、ゆらりと黒い影が浮かび上がり、僧正の祈りにのたうちまわる。皆が固唾を飲んでこの光景に見入っていた。

現れた影はすでに人とは呼べぬ奇怪なモノだった。

(坊、それを切れ!)

海竜が告げた。

少年は頷くと、持つ剣に破魔の気をこめ、大きく振りかぶった。

「えいっ!」

断末魔の声が響き渡り、両断された影がボッと音立てて燃え上がった。

(おのれ…おのれぇぇぇ!)

青白い炎の中でのたうっていた影は燃え尽きる寸前、そのひとかけらを炎から脱出させた。

それは真っ直ぐ少年へと飛んだ。

「カイ!」

「――っ!」

胸の前できらりと光った鏡に黒い影がぶつかり、澄んだ音をたてて割れてしまった。

鏡の破片が炎に反射してきらきらと光りながら地へ落ちていく。

「―――」

妖術師の影も気配も消滅していた。憑かれていた女がばったりと倒れこんでいる。

「お…終ったのか…」

誰かの呟きが、その場に安堵の息を誘い、やがてわっと湧き上がった。高官たちもホッと胸を撫で下ろした。

しかし。

重大なことに気づくのに、たいした時間はかからなかった。

少年は真っ直ぐ立ったまま、帝がいる御簾をじっと見つめていた。

人々の安堵もつかの間、異様な空気がぴんと張り詰める。

ことに不比等、左右大臣以下の高官たちは脂汗を浮かべながらピクリとも動けなかった。

少年の目に一瞬、殺気がこめられたのを誰が気付かなかっただろう。だが、誰もその場から指一本さえも動かせなかったのだ。

誰もがこの少年が帝に襲い掛かることを信じて疑わなかった。

が、大津皇子にそっくりの面に不適な笑顔を浮かべた少年はくるりと向きをかえた。

地面すれすれにまで身を低めた白銀の竜の首に腕をまわして、頬を鬣にうずめた少年はそっと呟いた。

「…大丈夫…恨みに飲まれたりしない…」

そして、少年はまた竜の上に飛び乗った。

白銀の竜がゆっくりと上昇しはじめる。

我に返った不比等は思わず声を発していた。

「名を聞いておこう」

少年が不比等をまっすぐ見据えた。

そのまなざしに知らず不比等はぞくりとする。少年はしばしの沈黙の後、応えた。

「―――。粟津王」

聞いて、人々はさらに恐怖で身体を締め上げられた。あの日、行方不明になった大津皇子の皇子の名前…。

やはり生きていたのだ。

「―――」

不比等は淡く笑って頷いただけだった。御簾の奥の文武帝は青ざめ、がたがたと震えつつしきりに脂汗を拭っていた。

白く輝く竜に乗った少年がゆっくりと上空に消えていく。

さながら天上の皇子のように……。



          ※



 海竜はゆっくりと雲の上を進んでいた。

まだ夜は明けず、月が煌煌と空を青く照らしていた。

少々くたびれたらしい少年は、養父にもたれてうつらうつらしていた。

「…リキ…」

「え?」

「あいつ、本当に消えたのかな…?」

改めて少年を見つめた。海竜の釈然としない態度も気になっていたところだ。

「…あいつ…鏡の中に入っていった。どこへ行ったんだろう……?」

少年はそのまま眠りの中に落ちてしまった。

「竜王…」

リキの眉間にしわが寄る。ある一つの可能性に思い当たったのだ。

応えた竜王の声音にも深い憂いが含まれていた。

(うむ…。あやつの気配が、まだ残っておるのだ…。瀬戸にな)

「―――っ!」


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