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AWATSU-2-

※※※参




 粟津王――カイ――の笛の評判を聞きつけた大伯国造が笛を所望したのは、それから十日ほどたった後だった。

阿伽具は背筋に冷たい汗が流れるのを感じたが、

「折角のお越しですが、あいにくカイは息子とともに航海に出ております。半島まで足をのばす予定でございます。無事、航海から戻りましたならば参上させますので、今日のところはお引取りくださいますよう」

老人の言葉に、国造の使者は眉をしかめた。

「うぬ。阿伽具、半島への航海はいかほどかかりそうなものか?」

「はて。順調にゆけば、ひと月かふた月。海と空の状態によっては、倍はかかりましょう」

「うーむ…まあ、おらぬものは仕方あるまい。国造様にはそのように申し上げておこう」

「申し訳ございませぬ」

頭を下げた阿伽具を残し、使者らは引き上げていった。

「―――」

海部の棟梁はふう、と一息ついた。

少年が戻るまでに、対処の法を考えなければならなくなり、多忙の身としては少々頭の痛いことになりそうであった。

しかし。

「ふふ…。どんなに隠しても、光は闇を透かして洩れるか…」

大津皇子はその豊かな才と、好まれる人柄故に政庁からはずされ、謀られた。また、カイも父譲りの才ゆえに目を止められてしまった。

しかし、阿伽具には断固とした思いがある。

あの輝くような少年を政争の犠牲には、断じてさせぬ。それは、息子・リキとて同じであろう。

容姿も年を経るごとに、大津皇子の面影を濃くしてゆくだろう。――それは、リキが苦笑まじりに言ったことだが――。それ故、中央に一歩足を踏み入れれば、小さからぬ動揺が起こるのは目に見えている。

阿伽具としては、このまま人知れずこの海の国で平和に、幸せに生きていってほしいのだ。

「やれやれ。私も忙しいことだ……」

老人は心なしか楽しげに呟いた。



 そんな阿伽具の心配をよそに、カイは心地よい潮風を受けながら甲板をゴシゴシ磨いていた。

船は児嶋に向かっていた。

ここで一旦荷物を卸し、別の荷を積み込んで岡水門おかのみなとへ行き、そこで最終的な必要物資、また、品を仕入れたら真っ直ぐ新羅へ向かう予定であった。

天気もよく、波も穏やかでいい航海になりそうだった。

「錨をおろせ!」

「梯子をかけろ!」

「綱を投げろ!」

水夫たちの声が飛び交う。

「荷を下ろせ!」

リキが号令をかけた。

水夫たちは細い梯子を、荷物を担いで降りてゆく。あちらの梯子では、まるで流れるように水夫から水夫の手に、荷が渡り下りていった。

カイもそのへんの荷を一つ担ぐと、梯子を渡った。

一陣の風が横から駆けてゆくと、細い少年の体はぐらりとかしいだ。

「わっ…」

がしっと支えられて、見上げるとリキがにっこりと笑っていた。

「ありがとう」


 リキはカイを促して、浜へ降り立った。逞しい体が汗でびっしょりになっている。カイはしみじみと、物心ついた頃から自分のそばにあって護ってくれている男を見つめた。

彼はこういう力仕事もすれば、驚くほどに勉強もしていて知識の広さ、深さに驚嘆させられる。

半島の言葉も自在に操り、風を読み、太陽と星と潮をみる力量は一流。武術も他者に引けをとらなかった。リキはそれでも、日々の訓練を怠ることはない。淡々と鍛え、淡々と勉強をしていた。

 船に乗り、指導してゆく立場である彼は、ひとたび海の上に出ればカイとて容赦なく叱り付ける。

この瀬戸内海から出れば、半島、倭の海賊が積荷を狙って襲い掛かってくるのだ。船底に穴を開けられたり、船べりから青竜刀を担いでいきなり侵入してくることもある。

その、どんな状況に立たされようとも冷静沈着として対処せねばならぬのが船長の役割だ。

カイが叱られるのはカイを水夫として扱ってくれているからだ。そう、少年は思っている。

 それにしても、いつ起こるかわからぬ災難を胸の前に突きつけられていても、男たちは海へ出ることをやめない。

体を鍛え、技を磨き、いつなんどきなりとも対処できるように、水夫たちは船上での規律を守った。足が乱れた時の恐ろしさを身をもって知っている。それこそが、水軍と言われるゆえんであった。

 カイはこんな男たちの中にいる自分が誇らしく、また、自分もリキのように一流の船乗りになるのだと信じていた。

「カイ、饂飩でも食べに行きましょうか」

ふいに声をかけられ、ほえ? という妙な声を出した少年は、リキの後方、船の方に目をやった。積荷を下ろす作業はすんでしまったらしい。

「あっ…ごめん! 俺ぼけっとしてて…」

先刻、水夫の一員という誇りに燃えていただけあって、積荷一つで終ってしまったという事実は少年をひどくみじめにさせた。

「大丈夫ですよ。ここを出るときは、ぼけっとしてられなくなりますからね」

にっこりと釘をさした男に、少年は顔を真っ赤にして言い返した。

「わかってるよ! 次は絶対みんなより働くから!」

「ははは…その調子その調子。でも、まあ、今日はとにかく饂飩を」

「……。なに、うどんって?」

「おや、知りませんでしたか?」

不思議そうな顔をした少年に、男は説明してやった。

「へええ! どんな味がするのかな? 行こうよ!」


 好奇心に瞳を輝かせた少年を連れて、リキは津のそばに栄える通りへと入っていった。

いろいろな店が並び、津に入った船員たちが賑やかに話しあい、笑ったりしてお祭りのような騒ぎである。

 店、といっても、現在のようなものではない。取引をする有力者がリキたちのような船乗りにちょっとした労いのために設けてくれたものだった。他所ではこんなことはない。

リキが入ったのは、その中でも、特に賑やかな小屋であった。大きな鉄鍋がもうもうと湯気を立て、そのむこうで小柄な翁が手際よく饂飩を湯にくぐらせていた。

入ってきた長身の男を見るや、

「リキ! リキじゃねえか! 久しぶりだのう!」

嬉しそうに叫んだ。男も機嫌よく笑って手をあげた。

「おやっさん、元気そうじゃねえか。足はもういいのかい?」

「おおとも。許都魚サメにかすられたくれえで、ここをたたむわけにはいくめえ」

「まったくだ。おやっさんの饂飩は絶品だからな」

そう言いながら、カイに座るよう促す。翁ははじめて少年に気づいたようだった。

「リキよ、お前ぇ、子持ちだったかい…?」

はて、と呟いて交互に見比べる翁に男は苦笑した。

「馬鹿言うなよ。俺はまだかみさんなんていねえよ」

「そうかい? おらあ、てっきりあのお媛さんと……」

翁はそこまで言って口をつぐんでしまった。男はほろ苦く笑っただけで何も言わなかった。少年は不思議そうに翁とリキにいったりきたり目を動かしたが、やはり、何も言わずにいた。

ぐるるるるる……

カイの盛大な抗議が腹から聞こえると、翁はにっこりと笑って大きな手を少年の頭にのせた。

「おお、おお。腹が減ってんのによ。じじいのボケめが! すまねえなあ、ぼうず。今うまい饂飩を食わしてやろうなあ」

「う、うん…」

翁の背を見送って、なんとなく気まずくうつむいた少年の頭にリキの大きな手が置かれた。

「カイ、私のことは気になさらず」

そう言われて気にならないほうが不思議だと思った。


 古くからある饂飩も、カイにとっては新鮮な食べ物であったようだ。少年はいたく気に入ったらしい。

リキはそのまま船に戻り、少年は少しぶらついてみることにした。

漁師たちは今時分は海の上だ。今、陸の上にいるのは年寄りと女たちがほとんどだろう。ぶらぶらしているうちにずいぶん津から離れてしまった。

「いけね。戻んなきゃ」

くるりと反転した。

「じゃあ、お母さん、ちょっと行って来ます」

路地のほうから少女の声が聞こえ、カイはふとそちらへ目をむけた。

はた、と少年と少女の目が合った。

「あ…」

少女は恥ずかしそうにうつむき、ぱたぱたと駆けていった。

少年はぼんやりと、その後姿を見送っていた。


 「カイ、どうしました?」

甲板の先でぼやっとしている少年を、リキが訝しそうに覗き込んだ。

「え? ああ…ううん、べつに…」

心あらずの様子で呟いて、そのままぼんやりと波を見つめている少年を、男はしげしげと観察する。ふと、思い当たってこっそり言ってみた。

「カイ、女の子に会いましたか?」

横っ面をはたかれたように、ぎょっとした顔で振り返る。

「当たりですか」

リキはにっこり笑った。

 大伯郷でも女の子はいた。一緒に野山を駆け、海で遊びもした。しかし、今日出会った少女に対する感情はカイが今までに知らないものであった。

その感情の名前を知っているのは、今のところリキだけであろう。

「どこで出会ったのです?」

「…あの通りを抜けたとこ…」

おずおずと話す少年のこんな頼りなげな声を聞いたのは初めてだった。何に対しても物怖じしない性格で、歯切れの良い喋り方をする子供であった。

男はしかし、嬉しくもあったのである。

「カイ。船はしばらくここに泊りますから、もう一度その娘に会っていらっしゃい」

「ええっ? だって…」

「次に会えるかどうかなど、わかりはしないんですよ?」

その言葉の裏にある微妙な色を、今の少年には気づけるはずもなく、ただ、あいまいに頷いただけだった。

「さ。今日はもうお休みなさい」

リキに促され、少年は小さな子供のようにこくんと頷いて甲板を下りて行った。

 船と海の上に満天の星が輝いている。

リキはその長身を船べりにもたせかけて、吐息とともによりかかった。

津のかがり火のほかには灯りはない。遠く、沖のほうは闇に沈み、島の影も黒く溶け込んでしまっている。

時折、水面で魚が跳ねた。

(弥輪に会ったのは十五のときか…)

そう。今の少年と同じくらいの時だった。

彼の初恋は、苦さを伴ってまだ心の中に片鱗を残していた。


 翌日、カイは船を降り、昨日の饂飩屋のあった通りへ行った。

早くも店を開ける用意で、ちらほらと人が見える。ちょうど、ひょっこり饂飩屋の翁が顔を出した。

「おう、昨日の坊じゃねえか」

「お早う、じいちゃん」

人懐こい翁の笑顔につられて、少年も笑った。

「どうだ、ちと寄っていかんか?」

「あ、うん」

ちらりと昨日の少女のことが頭をかすめたが、翁の言葉に頷いた。

 白粥に獲れたての鰯を焼いたのを頬張りつつ、ふと翁の足を見た。その、右足。

着物から覗くふくらはぎの肉がざっくりとえぐりとられている。

少年の視線に気づいて、翁は恥ずかしそうに言った。

「こりゃすまねえな。みっともないモノ見せちまって…」

「ううん。昨日言ってた許都魚に…?」

「ああ。潜ってたときにな…。骨まで喰われなくてよかったよ。漁は十分できるからなぁ…。まあ、不自由することもあるがな。許都魚の奴も、わしの足で少しくらいは腹の虫もおさまったろ」

翁は屈託なく笑う。この老人は、自分の足を食いちぎった許都魚に対して何の憎しみも抱いていないらしい。

「そりゃあ、おめぇ。わしらの腹の中には海から捕ってきた魚がめいっぱい入るじゃねえか。喰い喰われが掟ってもんだろうがよ」

少年は妙に納得して頷いたのである。

「そういやあ、坊はリキのなんだい?」

「なにって…」

カイは口をついて出そうになった言葉を一旦飲み込んだが、なんとなく、この翁には知っていてもらいたいような気がした。

「俺は、都からリキに助け出されたんだ」

「――?」

「俺の父は、今の帝のえーと…何になるんだっけ…?天武天皇の皇子で大津皇子っていうんだけど」

「みっ…帝…っ?」

翁が仰天して少年を見つめ、

「そっ…それじゃ坊は…いや、あなたさまは…」

「でも、じいちゃん。俺はもう政とは関係のないところで育ってきたし、都の記憶なんてぜんぜんないんだ。俺の父を知ってるのはリキと阿伽具と伯母上だけなんだ」

皆はしらないんだよ。

「俺はね、リキと一緒に海で生きる。あちこち船で渡っていろいろ違う国を見てみたいんだ」

莞爾と笑った少年の、その涼やかな相貌を見つめていた老人は、ふと笑って呟いた。

「…この世はいろんなお人がいるもんだ…。リキのような男に、未だにかみさんがいねえってのもどうにも不思議だったが…。いや、まてよ…」

少年の耳がピクリと反応する。

「あいつ…ひょっとして、まだあのお媛さんのことを…」

「あのお媛さんって?」

「………。わしが喋ったことは内緒にしといてくれよ、坊。だから、これは、夢の中のことだ」

この老人もたいがい無茶を言うもんだと思ったが、カイは頷いた。

「――あれがまだ、そうさなあ…坊と同じくらいの時だったろうかな。すでにいっぱしの水夫として船に乗り込んでたよ…」


         ※


 今から十五年ほど前のことになる。

半島から戻ってきた帆船が、伊都岐嶋(現在の厳島――宮島である)で一旦留まった。

阿伽具とリキ、それに水夫たちが弥仙参りに船を降りた。

多くの供物をたずさえ、阿伽具を先頭に登る。

この嶋はお山自体が人々の信仰の対象となっており、この近辺には霊力を持つものが多く生まれた。ここが海神をまつる島になるのは、ずっと後世のことである。

 弥仙の麓にひっそりとたたずむ堂に手をあわせ、そばにある小さな庵に阿伽具が声をかけた。

庵の中から静かに現れたのは、まだ少女の巫女であった。

「これは阿伽具さま。ようこそおいでくださいました」

「弥輪殿も息災でなにより。これを……」

阿伽具の差し出した供物を、巫女はうやうやしく受け取り、祭壇に捧げ祭った。

「どうぞ、皆様に弥仙さまのご加護のあらんことを…」

一同はもう一度手を合わせ、そして山を下りて行った。最後尾についていたリキが、ふと庵の方へ目を向けたとき。

「―――っ」

清冽に生きる少女のその姿は、少年の心を捉えるのにさほどの時間を要しなかった。

朝に夕にリキの心を悩ませ続け、最後の停泊の夜、見たさ会いたさに少年は船を抜け出した。庵への山道を鹿のように駆け上がってゆく。

夢中だった。

ただただ会いたくて走っていた。

「………」

肩を上下させて、弾む息を自分の耳で聞きながら、意識は庵のほうへ集中している。

少年は思い切って声をかけてみた。

「…はい…?」

庵に住む人は、呼びかけの声が少年のものだったので不思議に思い、戸を開けてくれたのだろう。静かに少女が現れた。

リキの胸は大きく高鳴り、夢にまで見た少女を目の前にして飛び上がらんばかりだった。

「あなたは…」

少女巫女は不思議そうにリキを見つめ、そして、”ああ”と呟いてにっこりと笑った。先日阿伽具たちの一行にいた少年だと気づいたようだった。

少女は、夜の珍客を怒るでもなく招き入れ、どうぞと座をすすめた。

庵は驚くほど殺風景で、少年はどこに腰をおろせばいいものやら戸惑っている。

「まあ。ほほほ…。どこでもお好きなところへ。ここには何もございませんもの」

少女は汗をかいている少年に、水を差し出した。短く礼を言って、少年は一気に飲み干すと、なんの前置きもなく、いきなり叫んだのでる。

「お、俺っ…会いたくて!」

「………?」

「俺…あなたに会いたくて…」

それっきり真っ赤になってうつむいてしまった少年を、唖然として見つめていた少女は、微笑んだ。

「…ありがとうございます…」

少女が応え得たのは、たったこれだけだった。神に仕える身として、彼女はすでにその身と魂を神へ捧げることを誓っていたのである。

「お名前は何と…?」

「リキ」

「リキさま。私は弥輪と申します。もう幼い頃からここに仕えておりましたから外のことはよくわかりませんが…小さな頃の貴方を覚えております。阿伽具さまと一緒にいらっしゃったとき、私は先代の後ろに控えておりましたから…」

「―――」

「潮の香りと、不思議な雰囲気を持ってらして…私自身、不思議で仕方ありませんでした」

少女の話すことがわかったようなわからぬような…。それでも、淡々と話す彼女の言葉に耳を傾けていた。

「……一生……」

「え?」

「一生、ここで暮らすのか…?」

「はい」

「ずっとずっと一人で、ここで暮らすのか? 郷の娘のように好きな男ができても一緒にいれないのに…?」

「……。宿命ですわ。この霊力を持って生まれたものの宿命です……」

巫女姫のかおに哀しげな色が広がる。

反面、何故少年がこんなことを言うのか不思議に思う気持ちが見え隠れしていた。

「俺と一緒に行こう」

「……!?」

「行こう! 船に乗って遠くへ行けば、誰も追っては来れない」

リキは少女の手をとり、必死で訴えた。彼女の面に迷いの色が浮かぶ。行きたい気持ちが胸の奥でむくむくと大きくなってくる。

しかし。

「いいえ」

思いと一緒に、手を振り払った。

「行きませぬ。…申し訳ございませぬ…。私はすでに神のものとなっております」

手をつき、頭を下げた弥輪がふるえている。

「なぜだ…。なぜ、神がお前を縛る?!」

少年の心に神に対する怒りが吹き上げた。祭壇を睨み付ける少年へ、少女は首を振った。

「いいえ! 縛られてなどおりませぬ! このような力を持って生まれたことこそが、私が選んだものなのです。選んで生まれてきた以上、まっとうせねばなりませぬ!」

はっきりと拒絶されたリキに何が言えたろうか?

少年は、そしてそのまま逃げ出すように走り去ってしまった。

振り返ることもせず――。


         ※


 「…リキにとっちゃあ、あの一瞬が恋のすべてで、あの言葉がすべての終わりだったんだろうなあ…。恋なんてもんは、永い時なんか全く意味のねえもんになっちまうときがある…」

饂飩屋の翁は饂飩屋らしからぬ言葉を紡ぎながら、白湯をすすっている。

かなしいかな、カイにはそれがおかしなことだと気づけなかった。リキや阿伽具は半島の言葉を喋り、物を計ったり、字の読み書きを普通にこなしていたのだから、なんら不思議なことだとは思わなかったのだ。

強いて言えば、この老人がリキやカイのように若い時があって、きっとそういう経験をしたのだという、”若いとき”というのが想像できなくて不思議に思ったくらいだった。

そして、ふと、昨晩のリキの言葉を思い出していた。

あの時、リキの心には一体何が浮かんでいたのだろう?

結ばれることはなかったのに、リキは巫女姫への思いをまだ持っているのだろうか?

「おっと、そろそろ戸を開けないとな」

「じゃあ、俺は帰るよ。ありがとう、じいちゃん」

「おう。またな、坊」

カイは翁のうちを出て、ぼんやりと通りを歩いていた。人の通りも賑やかになりつつある。それを通り過ぎると先日、少女を見かけた路地に出ていた。

「―――」

リキの昔のことを聞いたせいか、あの浮かれるような気持ちはすっかり落ち着いてしまっていたため、少年は山辺の小道をずっと上へ登って行った。

さらに丘になっており、登りつめると小さな社がぽつねんと建っている。そこに野花がそえられていた。

海に向って岩に座ると、太陽の光に輝く沖まで見渡せた。その小さく見える波をぼんやりと見つめる。

胸にこつんと笛があたった。

「………」

ひゅいぃ

ぴぃひょう  ひょうう

ひゅうい  ひゅう


音色は高く、低く、強く優しく、人の心を突き動かす力を秘め、周囲に響いた。

カイは、一心に吹き続け、やがて心の波もおさまったのか、笛を唇からはなした。

「だれだ?」

ふいに、強く問われて木の陰から赤い着物の少女がおずおずと出てきた。

「………」

先日の少女だった。カイはしばし驚いたように少女を見つめた。

「ご、ごめんなさい。あの、あんまり綺麗な音だったから…」

「あ、いや…」

我に返って照れたように応えたが、ふと、聞いてみた。

「この島にずっと住んでいるのか…?」

「ええ。あなたは?」

「俺は大伯という郷から来た。ほら、あそこに大きな帆船が見えるだろう? あれに乗って来たんだ。あと数日したら半島へ行くんだ」

「半島へ…」

少女は見たこともない国を透かし見るように海を見つめた。

「半島って、どんなところ…?」

「そうだな…。俺も一度しか行ったことがないからよく覚えてないけど。栄えた国らしいよ。言葉が違うし、多分、着ている物も違うんだろうな」

「ふうん…」

物珍しそうにしている少女に少年は名前を訊いた。

「咲羅」

「サクラか。俺はカイだ。もう船に戻るよ。じゃあ!」

にっこり笑って、身軽く岩から飛び降り、登ってきた道を駆け下りてゆく少年の背を、少女は名残惜しそうに見送ったのだった。







※※※肆

 



 船上は騒がしかった。

ざわざわと水夫たちがざわめき、右往左往している。この船にしては珍しいことだった。

梯子をひょいひょい渡って、目ざとくリキを見つける。

「どうしたの、リキ?」

少年の声に、いつになく渋い表情のリキが振り返った。

「――コレですよ」

名を口にするのも憚られるといった感じで、手に掴んだモノを持ち上げた。

「げっ! ヘ…」

カイが危うく口にするところを、そばにいた水夫の大きな手がふさいでしまった。

「馬鹿野郎! うかつに口にすんじゃんねえ! 祟られたらどうする!」

「ごめん」

ふごふご謝った少年を解放してやり、水夫と少年はリキの手の中でうねうねとのたうつ大蛇をまじまじと見つめた。青大将らしい。

屋敷にあっては守り神とも呼べる蛇だが、船にあっては禁忌以外のなにものでもない。

リキが渋面でいるのも当然であった。

「こりゃあ、早ぇとこ祓いの儀でもせにゃなあ、リキよ…」

「ああ。急いで蕨を持ってきて、祭壇をしつらえよう」

リキの指示に水夫たちが動き出した。

 古代からワラビ文などは王の墓などに蛇除けとして用いられているが、船乗りたちが蛇を忌むのは航海が長引く上、船霊が嫌うからだという。

ちょうどこの時期、蕨が伸びてくる季節でもある。山に分け入れば難なく手に入れられるだろう。

リキは蛇を船から降ろし、叢にはなした。古より祖霊として祀られている生き物である。船を蛇の血で汚すわけにもゆかぬので、逃がす以外ないのだ。

 とりあえず、船では祓いが行われることになった。

すみからすみまで、真水で洗い流す。大きな船だ。たちまち総動員しての大掃除になった。カイも藁束を持ち、甲板や船べりをガシガシ磨いていた。

それがすんだら、とってきた蕨を帆船の船先、帆柱、船の出入り口という出入り口すべてにとりつけた。

「なんか、青臭いなあ…」

少年は顔をしかめてぼそりと呟いた。

終ればあとは何事もなかったかのように、水夫たちは己の仕事にとりかかった。


 翌日の日が中天に昇る頃。

「おーい! カイ!」

水夫が下から呼んだ。

少年が船べりから顔を覗かせると、水夫は意味ありげにニヤリと笑って

「降りて来い」

と、一言だけ言った。――水夫の傍らに、咲羅が立っていた。

「あっ」

カイは声をあげて、慌てて下へ降りた。

「おっ、カイ坊」

「なんだなんだ」

「カイ坊の女か?」

野次馬の水夫たちが、わらわらと集まって来て下を覗く。

「おお、リキ! こっち来てみな。カイの坊やが女なんかつくったみたいだぜ」

「―――」

リキもひょいと下を除いて見た。

カイは咲羅から何か包みを受け取ったみたいだが、上のほうからの冷やかしにたまりかねたのか、チラリとこちらを見やると少女を促し、船から離れていった。

「おお、おお。カイの奴もいっちょ前になったもんだなあ…。この船に初めて乗ったときゃこーんなに小っちぇかったのによ」

「おおよ。リキにへばりついて離れなかったなあ」

「いつだか、海賊が入り込んで来た時にゃヒヤリとしたが、あいつはリキにしっかりくっついてて泣きもしなかった。俺ぁ、あん時こいつぁいい海の男になるなって思ったよ」

「そうだった、そうだった。泣きもしなかった」

いつのまにやら――。

水夫たちは昔を懐かしむように穏やかな目で笑いつつ、甲板の上で円座になって話しはじめた。


 カイは船からだいぶ離れた所まで少女を連れ出した。

「はあ、まったく。年寄りは野次馬が好きでいけねえや…。えと。どうしたんだ? こんな所に来るなんて…?」

嬉しさを押し込めすぎて、つっけんどんになってしまったような気がした。

「あ、あの…。ごめんなさい。これを…」

少女は少年に渡した包みを指して、

「かあさんが煮たの。食べてもらおうと思って…」

咲羅がうつむいてしまった。カイは少女を見、包みを見、そして、つっけんどんになってしまったのを激しく呪った。

「あ、ありがとう。開けてもいいか?」

こくんと少女が頷くのを見届けて、包みを開くと、焼き物の鉢に、煮たイイダコが盛られてあった。

「あっ、タコだ」

言うなり、カイはヒョイと一つを口に放り込む。

その所行に唖然とした少女の前で、タコを飲み込んだカイはにこりと笑った。

「美味いよ。かあさんに礼を言っといてくれ。あとはリキにも食べさせてやろう」

海から風が吹いてきた。

後方にはなだらかな山々が連なり、山吹のあざやかな黄色が緑を彩っていた。空も海も青く、人の心を開放させる力にあふれている。

少年は、ふと昨日の出来事を口にした。

船の中で蛇が見つかったこと。大騒ぎして蕨をとってきたこと。祭壇を設けて祓いの儀をしたこと。

少女は気の毒そうに”まあ…”と呟いた。

「船に乗る人は蛇をきらいますものね」

「うん。リキは…あ、俺のオヤジみたいな人なんだけど。あの船の船長で、普段はちょとやそっとじゃ動じないんだけど、今度ばかりはこーんなカオしてさ」

と、少女にしかめっ面を見せると、咲羅がプッと吹き出した。

ひとしきり笑ったあと、少女は思い出したように少年を呼び止めた。

「カイ、あの、あまり良くない噂なのだけど…。海を旅するなら一応耳に入れておいたほうがいいと思うの」

「……?」


 カイは走っていた。

妙な胸騒ぎがしてくる。

咲羅が教えてくれたのは、つまりこういうことだった。

ここ最近、この近辺の沖合いで巨大な妖物を見る者が多いというのだ。

ある漁師の舟は舟ごと丸呑みされたといい、ある時は大きな許都魚の残骸が広範囲に渡って海に浮いていたという。

その正体も全くわからず、天気などにも左右されないようで、漁師の間では密かに恐れられているのだった。

(舟ごと丸呑み…?)

カイは背筋に冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。

計り知れない大きさである。何よりも不気味なのは、その妖物が現れる前日には必ず大蛇が海べりか船上で発見されているということだ。

(リキに伝えなきゃ…!)

少年は必死に走った。大きな船が目に映る。

「リキィッ!」

少年は恐怖を振り払うように叫んだ。


 リキをはじめ、主だった面々が円座になっている。昼間とは打って変わって重苦しい雰囲気だった。

船長であるリキは眉間に深いしわを刻み込んで、しばらく腕組みをしていた。

灯りを囲んで、黙り込んだまましばらくたっているが、妖物に対しての策が見当もつかず、途方に暮れていたのだ。

カイがおずおずと言った。

「あの…饂飩屋の翁は何か知らないかな…。妖物退治の方法とか…」

「おやっさんか…」

「あとは神官に聞くか」

「うむ」

「俺、とにかく、翁のとこへ行ってみるよ!」

少年はそう言って船室を飛び出した。

「カイ!」

矢のような勢いで出た少年を慌てて止めようとしたが間に合わなかった。

「仕方ない奴だ…」

「なあに、お前さんだってあんなものだったさ」

リキが苦笑して呟くのに古株の水夫が笑って言い返す。

「頼むからカイに言わないでくれよ? ますます激しくなりそうだから」

どっと笑いこけた水夫たちに、リキはいつもの泰然とした口調で指示を出した。腹が決まったようだ。

「社に行ってくれる者は…赤夷と辛か。頼む。後のものは万一のことに備えて身辺を固めてくれ」

「ようそろ」


 真っ暗な道をひた走り、カイは肩で息をしながら翁の家の戸を叩いた。

「じいちゃん! 俺だよ、カイだ! 開けて!」

しんと静まり返った近辺に声がこだます。しかし、翁はいっこうに出てくる気配がない。というより、中にいる気配がないのだ。

「……?いないの…?」

「船乗りの坊やかい…?」

隣の家の老人が戸口から顔をだし、眠そうな目で隣の親父なら今時分は漁だと教えてくれた。

「なんだって!?」

真っ青になって、どこで漁をしているか尋ねる。

「そうだなあ…与島までは行ってはいないと思うが。この近辺だよ。小舟で行ってるはずだ」

老人の言葉が終らぬうちに少年は飛び出した。

「おい、坊や!」

「だれか妖物退治に詳しい人を連れてきてくれ!翁が危ない!」

振り返りざまに叫ぶと、カイはもうひたすら帆船に向って走った。

翁を妖物の犠牲にするわけにはいかない。

もう日はとっぷりと沈んでしまっている。小舟とはいえ、灯りも持たずに行くことはあるまい。


 船によじ登るようにして入ると、リキに報告した。

小舟で出たところで何ができよう? リキは数人を陸に残し、すぐさま帆船を出すことにした。

腕におぼえのある水夫も、妖物相手となれば少々勝手がちがう。

戸惑いはあるものの、だが臆する者はなかった。

リキは少年も陸に置いていこうとしたのだが、案の定、猛反発をくらってしまい、仕方なく連れていくことにした。いざというときは自分の身を盾にしてでも少年を護らねばと密かに心に決めて。

「リキ! 灯りが見える!!」

「よし! 合図を送れ! 岩に気を付けろ!」

このあたりは小さな小島が点在し入り組んだところだ。いかな玄人の水夫でも、油断すれば座礁してしまう。しかも、瀬戸内は潮の流れが複雑だった。

暗闇に溶け込み始めた沖合いへと、帆船は進んで行った。

「おやっさーん!」

「おーい!」

カイ、リキ、水夫たちは口々に大声を張り上げ、明かりに向って叫んだ。

「もう少し右だ!」

「おう!」

船がゆっくりと右に曲がり始める。

カイは先端へへばりついて灯りが揺れるその小舟に目を凝らした。小さな灯火が、波の動きにあわせてゆらゆらと揺れている。船が近づくにつれて、小舟もはっきりと見て取れるようになった。

「じいちゃん!」

「おやっさん、無事だったか!」

男たちが呼びかける。

――しかし。

小舟の上に、うずくまるようにしている翁の黒い影は、そんな声にも反応を見せず、ピクリとも動かなかった。

「―――?」

訝しく思い、一人が綱をおろして軽やかに小舟に降り立った。老人の肩に手をかけ、

「おい、おやっさ…」

ぐらり。

老人の体はそのまま…

「うっ…うわああああ」

「どうしたっ!」

「おいっっ!」

水夫の悲鳴に、船上は騒然となった。

「ねえ! じいちゃんは? どうしたの?」

カイはもどかしげに身を乗り出し、綱を降りようとした。

「来るんじゃねえっ!」

鋭い一喝に少年はビクリと身を竦ませた。

「リキ」

「―――」

水夫はおそろしく低い声で船長を呼んだ。

リキは黙ったまま、カイを制しておいて綱をするすると下りていった。

はっと息を飲む気配。

降り立ったリキが目にした、かつて翁であった人間は、いまや。

先刻までかろうじて形を保っていた白骨は、さらさらと音たてて小舟の底に白い小さな砂山を作り上げた。血のあともない。

白い砂と翁の着ていた衣が形を失い、その場にくずれ落ちているのみ。

しばし、リキは自失の態からぬけ出せなかった。

昨日まではあんなに元気だったではないか。

しかも、翁はほんの一刻前にここに来たはずだ。こんな、骨までも砂に変わるほどの、一体なにがあったというのか…?

「リキ…?」

「来るな!――見ないでくれ…こんな……」

リキの声が震えた。

そのとき、

「うわあ!」

帆柱の上で悲鳴が上がり、ドサリとなにか塊が落ちてきた。

一瞬の――。

「は、白骨!?」

甲板に落ちてきた水夫の着物と砕けた骨の砂が、小舟の翁の姿を暗に物語り、男たちの背筋を冷たい汗が伝い落ちた。

その、愕然とする帆船のすぐそば。

闇から生まれたような、真っ黒な影が帆柱のすぐそばで、ぬらりとそそり立っているのに気づいたのはカイであった。

「妖物…!」

呟く声に、水夫たちは一斉に反応した。

上空に浮かぶ赤い二つの目が無表情に甲板を見つめていた。

その、不気味な赤い目が、一番年若い少年に止まったのと同時、少年の内側から沸騰するような熱いものがこみあげ、爆発した。

「翁を喰ったのはお前かっ!」

叫びはそのまま力となり、妖物の目から放たれた見えない力は少年にはじき返された。


ぐおおおおっ


不気味な唸り声をあげ、黒い影は己の妖力をまともにくらってグラリとかしいだ。

カイは怒りのままに水夫から青竜刀をひったくると、海中に逃げた妖物を追って海に飛び込んだ。

「カイ!」

騒然となる中、リキは蒼白になりつつも少年を追って海の中に踊りこむ。

ぐおおおっ

妖物は頭を激しく振りながら深く潜ってゆく。少年がぐんぐん速さを増し、水圧などものともせず目前にまで迫った妖物の尾ひれを引っつかみ、青竜刀を叩きつけた。

ギャアアアッ!!

激しい鳴き声をあげ、身をくねらせ、めちゃくちゃに暴れだした妖物はすさまじい水流を起こした。さすがにこれには抵抗できず、これ幸いに追いついたリキが少年の身体をしっかと抱えて水面へと浮上した。


「ゲホッゲホッ」

したたか水を飲んだ少年は、しばらく荒い息をついていたが、やがて、なんとか上体を起こせるようになった。

「無茶をする」

ごつんとリキのげんこつが入る。

「いてっ!…ごめん…」

「うーん…しかし、カイ坊。こりゃすげえぞ」

「ああ。魚のようだが違うな。こりゃ一体なんだ?」

水夫たちは少年が握りしめていた妖物の尾ひれをしげしげと見つめた。

色とりどりの鱗がびっしりと生え、光に照らせば七色に輝いた。

「きれいだね…。気づかなかった」

カイは鱗のきらめきに目を細めた。

何故こんなに美しい鱗を持つ生き物が、一瞬にして人を白骨に変えてしまう妖力をもっているのだろう?


 その翌日、翁と水夫の弔いが船上で行われた。

海に生きてきた人々だ。海にかえしてやるのが一番自然だろう。

白い砂が夜明けの日に照らされて輝き、さらさらと海へ流れていった。

一同は合掌して見送った。

「…翁がね、言ってたよ。この足を許都魚にくれてやったから少しは腹の足しになっただろうって。喰い喰われが掟だって…」

カイは呟くように言った。

リキの手が少年の頭に置かれた。

「そうです。生きるために…。しかし、妖物はそうだと思いますか…?」

その声音にどれほどの怒りがこめられていただろう。

男の横顔にはまったく、なんの表情も浮かんではいなかった。だが、胸中には計り知れぬ思いが渦巻いているはずである。

リキ、カイをはじめ、水夫たちの胸の奥には、妖物をこのままにしてはおかぬという強い思いが楔のように打ちこまれたのだった。


そして船は一旦、児嶋の津へと引き上げた。




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