HSS劇場『暗闇の半分は、自由でできています』
眼が覚めたと思ったけど、あたしは本当は覚めていないのかもしれない。
起きている実感がない、体中が気だるく、眼を開けているはずなのに眼を開けている実感がない――真っ暗闇だ。
昔、キャンプで山奥のキャンプ場に行ったとき、伸ばした手が見えないことがあったけど、そのときは手は見えなくても空に光る星や月が見えていた、しかし今は見えない。
上を向いても、下を向いても、どこを向いても見える色は黒だけ。
「……ここ、どこ……?」
あたし……神詩安は、誰にともなく訊いた。
……誰に? そうだ、暗闇なだけで誰か居るかもしれない。ひょっとしたら、先輩や先生、お母さんが。
「誰かー、誰か居ないのーッ? 誰か居ませんかー! ここはどこですかー!
……あなたは…どこにいますかーッ?」
返事はないことをあたしは、心のどこかでわかっていた気がする。
それでもあたしは訊かずにはいられなかった。居ないとは思うけど、それを確かめずにはいられなかった。
誰も応えてくれなかったが、ひとつわかったことがある。
声が、返ってこない。
狭い空間では声は必ず反響するはずなのに、それがない。ここはとても暗くて広い空間、それは判った。だけどここはどこなんだろう? こんなに暗くて、こんなに広い場所、あるんだろうか?
あたしは四つんばいになって叫んでいたが手元の感触が変だ。畳だ。独特の網目の感触と温もり、匂いや雰囲気も間違いなく畳だ。
全身にも触ってみる。着慣れた制服だ、シワやポケットの位置でわかる。間違いなくあたしのものだ。
頬に触ってみるとよっぽど長く眠っていたらしく、くっきりと畳の痕が付いているらしいが、それを見るための鏡も光もない。
あたしは手探りで立ち上がり、周囲に手を伸ばしても触れるものは生暖かい風だけで、ひたすらに畳が広がっていることだけがわかった。
「……行くか」
ここで助けを待つような気はしない。一秒でもここには居たくなかった。
靴と靴下を脱いで左手にまとめて持って、あたしは歩き出した。どっちが前で後ろなのかも見てはわからないけど畳の縁があるので、それを沿うように歩いていけば真っすぐに歩いていくことができる。
一畳、二畳、三畳、と歩み進めていく。
ひとつの畳が何メートルなのかはわからないけど、とにかくあたしは歩きながら畳の縁の数を数えることにした。
戻りたくなったら、最初の場所に戻れるように。あそこに助けが来るとは思えないけどひとつでも場所を覚えておきたかったから。
次々と畳を越えていくが、景色も足の裏から感じる感覚も変わらないし、壁も段差もない、ただまっすぐに歩いていくことができた。
「百九十二畳……」
風も匂いも、なんの代わり映えもしないけど、あたしには歩き、今どれだけの畳を踏み越えたか数える以外にすることがなかった。
「二千七百五十四畳……」
少しずつ思い出してきた。
ここに来る前の記憶、あたしは学校から帰っている途中だった。
「大丈夫ですか?」
その人は返事をしなかった。できなかったのかもしれない。
古めかしい学生服、近くにその人の持ち物らしきバイクが放り出されていた。
狭い路地の裏でその人はうずくまり、襟の辺りに血が付いていた。
「すみません、大丈夫ですか?」
あたしはそれを繰り返すだけだった。速く助けを呼ばなければならない、そう思ってあたしは返事も待たずに携帯電話で119番を押していた。
本来は、そこで脈を計ったりしなければならなかったのかもしれないが、あたしは触れなかった。
触ったら何か、何かの責任のようなものが発生するような気がして、あたしは119番で助けを呼ぶことで触らないことを自分を正当化していた。
「城南大学付属高校の近くで。ええ、近くにセブンマートのある十字路です、はい、そこから入っていた路地裏で倒れているんです…意識は無いみたいです」
連絡したけど、それでもあたしはそこにいなければならないらしい。
「大丈夫ですか?」
答えは返ってこないけど、他にできることもない。
あたしは救急車が来ているかどうか…というか、この場にただ座って居るのが辛くて頻繁に路地の外を覗きに行った。それを何度か繰り返しているうちに異変は起きた。
容態が変わったとか、そういうわけじゃない。 そもそもあの人が生きているかもあたしにはよくわからなかったし、それは永遠に分からなくなった。
居なくなったのだ。さっきまでそこに倒れていたはずの人が消えた。
最初から大した怪我でなかったのか、誰かに連れさられたのか、それは判らないが、とにかく消えた。
「どこですか、大丈夫ですかっ」
どこに行ったの、どうすればいいの、ここからあたしも離れればいいの、どうすればいいの、救急車の人にはなんて云おう、さっきの人はさらわれたの?
あたしは考えが纏まらないまま、彼の姿を探すように路地裏を探しまわって…
「四千五百二十三畳……?」
思い出せない。
黙々と暗闇を歩きながら、頭の中も暗く、そのあとが判らない、思い出せないが、お腹の底から込み上げてくるような違和感。
不安があたしを包み込み、どうすればいいのかもわからないけれど…というより、どうすればいいかわからないから、あたしは走りだしていた。
昔のことを思い出そうとすると、無性に怖かった。
ただ走っていたかった。息ができないほどに走っていたかった。脳に酸素が回らなくて考えることもできないほどに走っていたかった。いつの間にか手に持っていたはずの靴と靴下は、どこかで落としたけど、それでも止まれなかった。止まってしまうのが怖かった。止まってしまったらもうこの闇の中から出られないような気がして。 その焦燥は走っている先に何かが“見える”まで続いた。
見えた、たしかにそれは光だった。真っ白の光、灯台のようにあたしを呼んでいるように感じた。
「誰か居るんですかッ! 来てください……そうじゃなきゃ、そこに居てください、お願いだからッ」
光が見えたあとは、あたしはただ走っていた。
なにかが後ろから追ってくるような、止まったら追いつかれてしまうような実感があった。何に追いつかれるかは判らないが、あたしは走るしかできなかった。
「ねえ、そこに居てください、待ってて、今行きますから!」
近づいても近づいても、光が近づかないんじゃないかという予感があった。逃げ水とか蜃気楼とかいうものがある、いくら追っても追いつけない光の錯覚なんじゃないかという不安が胸中でグルグル。
だけど、それに追いつけないとしても、そこには間違いなく光がある。光の生む眼の錯覚ならば、少なくとも光だけはそこにある。
光があるなら、他には何もなくてもいい。
「やった、やった、やった、やったッ」
不安を押しのけて、光は近づいてきた。感覚的には今のあたしは陸上部の友達よりも早いと思う。チーターか新幹線くらいのスピードが出てきる気がする。
スピードでも迷いもブレーキもなく、あたしは走り続け、光源に勢いよく衝突し、跳ね飛ばされたけど痛みなんか気にしている場合じゃない、光だ、光だ、光だッ
光を全身に浴びて、どれほどの時間が経っただろうか。体中に全力疾走の疲労と痛みが戻った頃、あたしはやっと正気を取り戻していた。
冷静に自分を見てみれば、服装は乱れて、裸足で走りぬけて足の爪は割れ、キズには畳の“い草”が血と汗で張り付いているが、幸か不幸か、もう足の方は痛みを感じていない、キズを作ったのは大分前らしい。
そしてあたしは光源、“自動販売機”に目を向けた。
商品ウィンドウを照らす青白い光、見慣れたジュース用の自販機は、やけに頼もしく畳の上に聳え立っている。
だが、その自動販売機はとにかく珍妙で、商品サンプルがひとつも入っていない上、値札は全て『¥0』、そして『つめた~い』の表記。
それから判るのは、無料の冷たいものが自販機に詰まっていて、それをあたしが飲みたいというだけ。
ウィンドウの灯りにして、自販機の周りを見渡しても、周囲には何もないし、この自販機にしても電源用のプラグが畳に穴を開けて、そこに通しているだけだ。
ということは、この畳の下には電源があるということなんだろうか。もしかしたら、防犯用のブザーとか、人を呼ぶ機能があるかもしれないが…今、道具もなく畳を返すだけの体力はあたしにはなかったし、その体力を得るためにも自販機のボタンを押した。全ての販売ボタンに『売り切れ』の赤文字が浮かび、それと引き換えにゴロゴロとジュースが落ちてくる音がした。
背筋に冷たいものを感じさせるから『つめた~い』なのかな…とか、場違いに笑いながらあたしはジュースを取り出した。だけどあたしはその缶を見てあたしはまた鳥肌が立った。
「……なに、これ……?」
その缶はアルミともスチールとも違うような、妙な重厚感のある不思議なもので、ラベルもなく鏡のように全体が銀色の光沢がある。
振ってみるとただのジュースではなく、中に固形物が入っているのがわかった。コーンスープに入ってるトウモロコシのように小さなものじゃない、オデンの缶詰のようにほとんどが固形物で、その他にジュース…というより汁が入っている。
オデン缶かとも思ったけど、にしてもは冷たい。これはなんなのか、あけてみれば判るはずだがその缶の最も変わっている点は、プルトップもなく開けようがないところだ。
地面にたたきつけても、踏みつけても、自動販売機の後部側、尖っている部分も試してみたが、キズひとつ付かない。
「食べれないじゃん、これ」
あたしは、この自販機を見つけたことで、何かの安心感を持っていた。
ここがどこかは判らないが、少なくともこの自販機を設置し、メンテナンスをしている人が来るはずで、この辺りで待っていればいつか誰か来てくれる。あたしは自動販売機に背中を預け、何時間でも待つつもりだ。さっきまでは静かすぎて耳が変だったけど、今は自動販売機の可動音がとても心地いい。
どういう仕組みになっているのかわからないが、一定のリズムで刻む音楽に、あたしは夢心地に眠ってしまう気になった。
「……なに、今の」
不協和音。自動販売機とは決して交わらない音。うれしいはずの音にあたしは腰を浮かせて、いつでも逃げられるように準備していた。
なぜかはわからない、だが身体が云うことを聞かない。
「ねえ、誰ですか! ここに居ますッ あたし、ここに居ます」
返事はない、だがその音ががまっすぐこっちに向かってくるのはわかる。雑音も反響物もない、自動販売機から見て左側からこっちに向かってきている。
タイヤやキャタピラのような規則的な音じゃない。何かが走ってきている音、そして人間じゃない。
重ねたキャベツを出刃包丁で切ったときみたいなザックザックした音…更に例えるなら畳に穴を開けながら走っているような…先端の尖った竹馬で畳に穴を開けながら走っているような奇妙な音。 そんな足音を立てる人間は、あたしの知る限りいないはずだ。
「止まってください、って云ってるじゃないですかッ」
あたしは声を震わせながら、さっきの開かない缶ジュースを適当な方向に向けて投げつけ、それと同時に踵を返し、逆方向に走り出していた。
後ろからカラスを束にして啼かせたような、大音量の甲高い鳴き声が聞こえてきたが、無視してあたしは走り続けている。
続いて何かが倒れる音、そして再び訪れた完全な闇、さっきの“何か”が自動販売機を破壊したんだ。あたしは反射的に振り返っていたが、自販機が壊れた今、何も見えるわけがない。
それでもあたしは走る走る走る走る走る、それ以外にできないから。
そして何かわからない何かは、追ってくる、追ってくる、追ってくる、追ってくる。 例の畳を吹き散らすような足音。一文字でより明確に表現するなら跫。
大して早くはないけれども、それは確実にあたしを捉え、追いかけてきてる。 何度か走る向きを変えてみたが、それでも“それ”は軌道修正して追いかけてきている。
わけがわからないけれども止まるわけには行かない。 止まったら殺される、それは事実だと思う。 それでも音が近づいてくる、気配が背後まで迫ってきている。あたしは無駄だと知りつつも振り返った。
その瞬間、怪物が光り、あたしはその怪物の姿を見ることができた。
大きな顔面は光沢のある真っ白の毛並で、目が真っ赤に光っていて…あたしは、それに見覚えがあるし、名前を知っている。そうだ、これの名前は救急車。
「詩安、シアンッ、分かる!? お母さんだよ!」
目が覚めると、そこは光と安心に溢れた世界で、視界の中には見慣れたみんなの心配そうな笑顔があった。
あたしは自分で呼んだ救急車に轢かれて……その救急車に乗せられて。
やっぱり夢だった。そうだよ、あんなの、ありえないもの。 何も見えないし食べれないし休めない、走り回るしかできなかった夢の中からあたしは帰ってきたんだ。
あたしは周囲を見渡した。お母さんだけじゃない、お父さんも、兄さんも居るし、弟の次郎も来てくれていて…そして、その光景に明らかにおかしい間違いを発見した。
「ねえ、お母さん…“どこ”」
当たり前かもしれないけど、あたしには夢の中であれだけ走っても両足に疲れはなかった。それどころか、“足がどこにあるかすらわからない”くらいだ。
「あたしの足は…どこにあるの……?」
足だけじゃなく腕も肩口から感覚がない。全くない。
そんな中、唐突に鼓膜を破るほどの金切り声が聞こえてきた。あたしだ、あたしが叫んでいるんだ。
帰ってきた。あたしは見ることも聞くことも食べることも休むこともできず、走ることしかできない世界から帰ってきた。
しかし、この世界ではあの世界で唯一出来ていたことができなくなっていた。
不自由と不幸と不運はイコールではないが、無関係ではないのだ。
なんということはない、逆になっただけだ。
さっきまでは安らぎと合理的な現実が欲しかったが、今は不条理な夢が欲しくなった。
恐怖という生きている実感と、走ることができるあの夢を。