表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/38

第8章 喜撰法師


 鎌倉の静かな山裾、苔むした寺の境内に、観光客たちの声が響く。木漏れ日が差し込む参道を、若者たちがスマートフォンを手に、カメラのシャッターを切って歩いていた。そのなかに、ひときわ目を引く装束の人物がいた。灰茶の法衣に身を包み、笠を傾けた僧――喜撰法師である。

 彼はゆるやかな足取りで境内を進み、境内の奥にある小さな茶屋の前に立ち止まる。そこには“抹茶体験”の看板が掲げられ、外国人観光客が和服を着て記念撮影をしていた。

「これほどに、多くの者が静けさを求めて山に来るとは…されど、その“静けさ”は、どこにあるのかの」

 彼の視線は、観光客のスマートフォンに向けられていた。人々は一様に、目の前の景色ではなく、画面越しに風景を切り取っていた。竹林の音、苔の香り、鳥のさえずり――それらが画面には映らないことを、誰も気に留めていないようだった。

 ふと、本堂の前でベンチに座る中年男性に目を留める。彼は手を合わせ、静かに目を閉じていた。まるで喜撰法師の“心の住処”を思い起こさせる姿であった。

「わがいおりは 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり」

 かつて自身が詠んだその歌を思い出す。人に避けられるような場所でも、心を澄ますにふさわしい場所がある。それが“宇治山”であった。だが今――“静けさ”さえも観光の対象となり、誰かに見せるために追い求めるものになっていた。

「目で見るより、耳を澄ませよ。心で触れよ」

 彼は本堂の裏手へと歩を進め、小さな地蔵の前に腰を下ろした。風が笹を揺らし、どこからか子どもの笑い声が届いてくる。その一瞬に、ようやく「現代の静寂」を見出したように感じた。

 彼は笠をとり、懐から取り出した短冊にそっと筆を走らせる。

 

 彼はその短冊を、小さな祠にそっと立てかけ、立ち上がった。

 境内に戻ると、相変わらず人々はカメラを構え、喧騒を携えて歩いていたが、彼の足取りは乱れなかった。静けさは外にあるのではない。心の内にこそ、宿るものである――そのことを改めて噛みしめながら、彼は山道の奥へと消えていった。

 翌日、祠を掃除していた寺の住職が、その短冊を見つけた。誰が詠んだのかはわからなかったが、「これは…まるで本物の歌人が残したような…」と、寺の掲示板に貼り出すことにした。

 その歌はやがて訪れた参拝者の心を打ち、静かに広がっていった。

 終


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ