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第4章 山部赤人


朝霧が晴れ始めた富士山の麓。観光バスの窓から、高く聳える白銀の嶺が一望できる。バスガイドの案内に、乗客たちが一斉にスマートフォンを掲げるなか、ひとりだけ、じっと目を閉じてその風景に向き合う男がいた。深緑の狩衣をまとい、笏を携え、どこか自然と一体となるような気配を纏っている――山部赤人であった。

赤人はゆっくりと目を開ける。眼前に広がるのは、かつて彼が詠んだ“田子の浦”とは似て非なる風景だった。高くそびえる富士の峰こそ変わらぬものの、その裾野には灰色の工場群が連なり、排煙が空に溶けていく。

「これが…今の富士の姿か」

彼の口元に浮かぶのは、驚きと、そして少しの戸惑いであった。車内では観光客たちが歓声をあげ、バスガイドは満面の笑みで説明を続ける。

「この辺りは工業地帯としても有名で、製紙工場や化学プラントが多くあります!でも、富士山はいつだって日本の象徴なんです!」

その言葉に、赤人はふと目を細めた。

「象徴…なるほど、それは我が時代にも通ずることか」

かつて、万葉集に数多くの“山の歌”を残した彼にとって、自然とは神にも等しい存在だった。山を詠み、海を讃え、花を言葉に託した彼の歌は、人の世を越えて自然の大きさと美しさを語っていた。だが今――人はその自然の姿を、便利と引き換えに変えていた。

観光バスは展望ポイントに到着し、乗客たちは次々と降りていく。赤人もまた、静かに歩を進め、富士を真正面に見据える展望デッキに立った。

空には、夕方の陽が傾き始めていた。工場の煙と雲がまじりあい、空のグラデーションに溶けていく。その背後に、凛として変わらぬ富士の嶺が在った。

「人の営みと、山の在り方は、ぶつかり合うことなく、とけあうものなのかもしれぬな」

彼は背中に感じる子どもたちの笑い声、カメラのシャッター音、工場の低い唸り――それらすべてを包み込むように、ひとつの歌を心に結んだ。

 

その言葉は、まるで風に乗せて峰へ届ける祈りのようであった。

赤人の姿は、やがて夕暮れの光に溶けていく。誰も気づかぬうちに、彼は去っていた。ただ、展望デッキの案内板のすみ、誰かが貼ったメモのような小さな紙片に、その歌だけが残されていた。

翌朝、清掃員がそれを拾い、ポケットに入れて持ち帰る。そして、机の片隅にそっと飾られたその五行の言葉は、誰にも知られず、小さな心の灯となって生き続ける。


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