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第37章 文屋朝康

 

 夕暮れのシネマコンプレックス。恋愛映画の上映後、余韻に浸る観客たちがゆっくりと劇場を後にする。照明の戻ったロビーでは、カップルが感想を語り合い、一人で観に来た若者がそっと涙をぬぐっていた。

 そのなかに、まるで物語の登場人物のような佇まいの男が立っていた。白地に赤をあしらった狩衣、洗練された顔立ちと、どこか翳りのある眼差し――文屋朝康、その人である。

 彼は、恋に翻弄されながらも、あくまで繊細に情を詠んだ歌人であった。

「白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける」

 その歌に込めた感情は、恋という名の儚さと、心の内に潜む“連なりの断絶”だった。

 今、彼が見てきたのは、ある純愛映画。出会い、誤解、別れ、再会――平凡な恋愛の枠組みの中に、繊細な感情の襞が描かれた作品だった。

「…あまりに、綺麗に揃いすぎておる。だが、それゆえに、我が胸の一部が、そっと揺れる」

 上映後のトークイベントでは、脚本家が語っていた。

「届かない想いの“余白”こそ、恋の本質だと思っています。あえて言葉にしないことで、観客がそれぞれの記憶と照らし合わせられるように」

 その言葉に、朝康は静かに目を伏せた。

「“言わぬこと”に宿る恋――それは、千年前も今も、変わらぬ道理なり」

 彼は劇場の一角に設けられていた「感想カード記入スペース」に立ち寄る。訪れた観客が作品への感想や、自らの想いを書き記して貼っていく小さなコーナーだ。

 若い女性がそっと書いた言葉が目に入る。

「本当は、言えばよかった。でも、あの時の沈黙があったから、今の私がある気もする」

 その文に心打たれた朝康は、自らも一枚のカードを手に取り、筆をとった。



 そのカードは、誰が貼ったのかもわからぬまま、他のメッセージと並んで掲示された。

 後日、劇場スタッフがSNSにそのカードの写真を投稿し、キャプションにこう記した。

「名前のない詩が、映画より余韻を残すこともある」

 やがてそれは、多くの観客の共感を呼び、「言葉にできない恋心」をテーマにしたトークイベントの開催にまでつながった。

 一首の歌が、再び誰かの“胸の波”を呼び起こしたのだった。

 文屋朝康は、スクリーンの暗がりのなかへと帰るように、音もなく劇場をあとにした。

 それでも――彼の残した“余韻”は、今も誰かの胸の内に、そっと揺れている。

 終


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