第33章 紀友則
夜の渋谷。ネオンの明滅と雑踏が入り交じる中、クラブミュージックの鼓動がビルの奥から鳴り響いていた。アンダーグラウンドの小さなライブハウス、その片隅に、場違いなほど静かな気配を纏った男が立っていた。装いは朴素な直衣、手には小さな和紙の束――彼こそ、紀友則であった。
かつて「久方の 光のどけき 春の日に…」と、穏やかでありながら内に激しい感情を秘めた歌を詠んだ彼が、今この場で耳にしているのは、重低音のリズム、ラップのフロー、歓声と、喧騒そのものだった。
だが彼の眼差しには驚きはなく、むしろ興味深く音を“聴いて”いた。
「言葉が…鼓に乗る。韻を刻み、人の心を打つ。これもまた、歌か」
目の前のステージでは、一人の女性MCが、己の生き様を韻に託して叫んでいた。社会への違和感、愛への渇望、自らのルーツへの誇り。それらを五拍、七拍、自由な言葉で綴る彼女の姿に、友則は心を奪われた。
「ここにも、“和歌”があるのだな。形式こそ異なれど、音と言葉が一体となり、魂をゆさぶる」
ステージが終わると、観客から自然と拍手が起こった。友則は拍手をせずに、ただ深く頷いていた。すると、横にいた青年がふと彼に話しかけた。
「すごかったっすよね。ああいうの、和歌っぽいって思いません?先輩、俳句とかやってる人っぽいし」
友則は少し笑って、小さく答えた。
「確かに、あれもまた一首のように思える。時に韻を踏まずとも、情は言葉に宿るゆえ」
やがてクラブの隅で、参加者が自由にメッセージを残す“リリックウォール”があると知り、彼はそこへ向かった。壁一面にマジックで言葉が並び、思い思いのフレーズが塗り重ねられている。
「ここが、今の“短冊掛け”か…」
友則は、誰もいないスペースにひとつの歌を記す。
それを見つけたスタッフのひとりが、思わず呟いた。
「…誰だろう。これ、めっちゃ良い。リリックっぽいけど、和歌じゃん…!」
数時間後、ライブハウスの公式SNSは、その短歌を撮影した写真と共にこう投稿した。
「深夜の渋谷で咲いた、見知らぬ詠み人のことば。#誰かのリリック #夜の和歌」
投稿は瞬く間に拡散され、共感の声が相次いだ。
誰かが呟いた。
「音楽って、時代も言葉も超えるんだな。和歌、こんなにかっこよかったんだ」
その夜、紀友則は何も告げずにビルの裏手に消えていった。
だがその歌の残響は、夜の街と人々の耳に、いつまでもリズムとなって響いていた。
終




