第32章 春道列樹
春爛漫の午後、目黒川沿いの桜並木。スマートフォンを手にした人々が、歩道いっぱいに並びながら、連なった花々のアーチを撮影していた。川面には花びらが幾重にも浮かび、風が吹くたびに小さな波紋がきらめく。
その人波の中に、ひとりだけまるで時間の流れから外れたような佇まいの男がいた。鮮やかな水浅葱の狩衣をまとい、手には小さな巻物のようなものを抱えている――春道列樹、その人である。
彼の目に映るのは、桜ではなく、それを“写そうとする”人々の姿だった。高価なカメラを構える者、自撮り棒を振る者、ドローンを飛ばす者。けれどその誰もが、桜を見ながら――どこかで“他者に見せる桜”を意識していた。
「春を愛す目の、いかに多きことか。だが、皆が見ておるのは、己が写る春に過ぎぬか」
列樹は、人々が撮った写真をその場で確認し、何度も撮り直す姿に心を寄せながらも、同時に、かすかな哀しみも感じていた。
「人は、今を残したくて写す。だが、写した瞬間から“その時”は失われるものなり」
彼は、花の色よりも、笑い声やシャッター音、その場に生まれる“気配”を味わっていた。
道沿いに設けられた小さな屋台に近づくと、「桜短歌を投稿しよう」という手書きのボードがあった。店主が即興で短歌を書き、花見客がそれを買ってポストカードとして贈るという趣向らしい。
列樹はその風雅な試みに心を動かされ、そっと筆を借りて一首を綴った。
書き終えた瞬間、店主がそれを見て目を見開いた。
「これ…売り物にするには、もったいないです。飾らせてもらっても?」
列樹は微笑みながら、軽く頷いた。
「春の盛りは、人の笑みのうちにあり。花は、ここに咲くゆえ」
そしてそのまま、川沿いの桜に背を向けると、彼の姿は雑踏の向こうへと、ふわりと溶けていった。
その短歌は、桜の季節のあいだ、屋台の看板のように飾られ、多くの人がその前で立ち止まり、写真を撮った。そして誰かが呟いた。
「この歌のおかげで、スマホじゃなくて目で桜を見た気がする」
その一瞬の“気づき”こそ、春道列樹が咲かせた、もうひとつの花であった。
終




