第3章 柿本人麻呂
夜の灯りが静かに瞬く、東京・赤坂のホール。その内部では、ある文学賞の授賞式が執り行われていた。壇上には、現代詩や短歌、俳句の受賞者が並び、胸を張って言葉の力を語っていた。招待席のひとつに、古代の風を纏った男が腰掛けていた。深い緋色の狩衣に、落ち着いた目元――柿本人麻呂。その姿は、時を超えてなお、言葉に生きる者として、まったく違和感がなかった。
彼は、壇上の若き受賞者が詠んだ短歌に静かに耳を傾ける。
「手のひらで 消えたメッセージ 抱きしめて 返せぬ想い ただ星になる」
「…たしかに、これは歌である」
人麻呂は目を伏せ、口の中で反芻するように呟いた。自身が生きた万葉の世では、恋も別れも死も、自然とともに詠まれた。だが今、都市の中でも人は同じように孤独に打ちひしがれ、言葉にすがって生きている。その姿が、たまらなく愛おしく思えた。
彼は展示スペースに足を運ぶ。そこには歴代の受賞作品や詩人たちの言葉が、原稿用紙やデジタルパネルに並んでいた。だが、彼の足が止まったのは、壁に貼られた一枚の年表だった。そこに、小さく刻まれた文字を見つける。
「柿本人麻呂――万葉の歌聖」
その説明の脇には、彼の代表歌が記されていた。
「あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」
人麻呂は静かに目を伏せた。
「千年の後も、なお我が歌を忘れぬか…。そのことの、いかにありがたきことか」
だが、それだけでは終わらなかった。隣には、SNSで若者たちが現代語訳やパロディを投稿した例が、プリントアウトされて展示されていた。
「長い夜を 一人で過ごす Netflix 山鳥の尾は 知らぬまに消え」
彼は目を丸くし、しばし絶句したのち、ふっと吹き出した。
「言葉の形は変われど、人の心はまことに同じか…」
展示の一角には、現代の“和歌アプリ”を体験できるタブレットがあり、人麻呂はそっと指で画面を撫でた。テーマを選び、五・七・五・七・七のパーツを並べ替えて、即席の短歌を作るシステム。
「これは…まさに、歌の遊び、いや、歌の鍛錬なり」
人麻呂はその場に腰を落ち着け、いくつもの画面を行き来しながら、人々が紡ぐ現代の言葉に耳を澄ませていた。恋、別れ、孤独、祈り、未来――どの歌にも、小さく灯る真心があった。
やがて、夜が更け、ホールを出た人麻呂は、ビルの谷間からのぞく月を仰いだ。スマホで空を撮る若者の隣で、彼もまた、心に残る言の葉をひとつ、空に浮かべた。
その瞬間、月の光がほんのりと強くなったように見えた。彼の姿は、静かに光の粒となり、夜空へと還っていく。
残されたタブレットには、彼が詠んだ歌が自動保存されていた。開発者がそれに気づくのは、数日後のことである。
「これ、誰が詠んだんだ…? 名前、入ってない…でも、やたら完成度高いな」
そう言いながら、その歌は“アプリ伝説の一句”としてひっそりと語り継がれていくことになる。
終