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第29章 凡河内躬恒

 雨上がりの京都・嵯峨野。竹林の小径に滴が光る。ひときわ風雅な装束の男が、しずしずと歩を進めていた。地を踏むごとに、彼の足音すらも小さな旋律となって溶けていく。凡河内躬恒――平安の和歌の精鋭が、令和の古都にその姿を現していた。

 彼が訪れていたのは、小さな町家を改装した「古語保存会」の稽古場だった。畳の間に若者たちが円座となり、文語の読み下しや、五七五七七のリズムを身につけようとしていた。現代語訳と照らし合わせながら、古語の美しさと、その“揺らぎ”に触れようとする姿が、まるで灯火のように揺れていた。

 講師の女性が語る。

「“あはれ”という言葉には、“愛おしい”も“哀しい”も、“深く感じる”という思いも、すべてが重なっているんです」

「今の言葉に訳すと、どれも少し足りなくなる。だから私たちは、音のかたちを守るんです。言葉の奥にある、気配ごと」

 その言葉に、躬恒は深く頷いた。

 かつて彼は『古今和歌集』の撰者の一人として、言葉を集め、磨き、時代の気配を封じ込めた。その経験から、言葉の“芯”がいかに時を超えて響くかを知っていた。

 今、目の前の若者たちが、変わりゆく日本語のなかで「古き音」を守ろうとしている。だが彼らは、ただ懐古に浸るのではなく、“伝えるために変わる”ことにも挑んでいた。

 一人の青年が、こんな風に言った。

「SNSで五七五をやってるんですが、現代語と古語を混ぜて“違和感のある余韻”を出したいんです。たぶん、そこに余白がある気がして」

 その言葉に、躬恒の心が熱を帯びた。

「そう…音の美しさも、意味の重なりも、そして何より、残された“余白”が人の心を打つ」

 講座の終わりに、参加者がそれぞれ即興で短歌を詠む時間が設けられた。躬恒も、一枚の和紙を手に取り、筆をとった。



 歌を詠んだ瞬間、室内の空気が凛と張り詰めた。誰もが、その響きに引き寄せられたように目を閉じた。

 司会の青年が尋ねた。

「すみません…どちらの方ですか? すごく古典っぽいけど、現代的な歌で…」

 躬恒はただ、静かに笑みを浮かべ、こう答えた。

「わが名など、風の名と知れ」

 その一言を残して、彼はすっと立ち上がり、雨に濡れた小径へと戻っていった。

 彼の残した短歌は、講師の手によってコピーされ、次の講座で教材として扱われることになる。

「“変わらぬ芯”が、今を生きる私たちにもある――そう信じて、言葉をつなぎましょう」

 そう語る講師の声に、若者たちはしっかりと頷いた。

 古語は死なず、形を変えながら、また新たな声に宿っていた。

 終

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