第26章 貞信公
東京・丸の内。曇天の下、高層ビル群が整然と並ぶこの一角に、重厚なコートを羽織ったビジネスパーソンたちが行き交っていた。その中に、威厳ある眼差しと凛とした佇まいを湛える男が立っていた。衣は唐風の直衣に近く、装いには平安の貴族の格式が滲む――その人物こそ、藤原忠平、すなわち貞信公である。
かつて、延喜の治と呼ばれた時代を築き、律令の再整備と善政の手本となった男が、今、令和の経済中枢を見つめていた。
目の前には、ある大企業の本社ビル。ガラス張りのロビーの奥では、執行役員会議が開かれていた。スクリーンには「ガバナンス」「内部統制」「株主責任」などの言葉が並ぶ。
「なるほど…人を率い、組織を束ねる術は、今も求められているか」
貞信公は、傍観者ではなかった。一日という限られた時間の中で、彼はあえて“視察者”として、ある企業のガバナンス研修に参加していた。講師は熱弁をふるう。
「透明性こそ信頼です。企業は“説明できる組織”でなければならない時代です」
「利を得るのみならず、誰のために、何のために存在するのか――これが企業の“倫理”です」
その言葉に、貞信公はゆっくりと頷いた。
「“まこと”という言葉は、千年の時を越えてなお、人をつなぐ鍵となるのか」
彼の記憶には、かつての朝廷で交わされた無数の合議が蘇っていた。表と裏、虚と実、形式と誠。人をまとめることの難しさは、昔も今も変わらない。ただ、そこに誠があるかどうか――それだけが、真の“政”を分けるのだと彼は知っていた。
研修後、彼は一枚の企業理念ポスターの前で立ち止まった。
《誠実・信頼・挑戦》
「…よい言葉だ。だが、それをどう結ぶか。それこそが、人の道であろう」
その足で向かったのは、近くの皇居外苑。風が強く、砂利の上に木の葉が舞っていた。大手門を眺めながら、彼はふと立ち止まり、懐から短冊を取り出すと、穏やかに筆を走らせた。
書き終えたその一首は、風に乗って近くの石畳にふわりと落ちた。
翌朝、皇居ランナーのひとりがその短冊を見つけた。「これ、落ちてました」と管理事務所に届けられたが、職員がその内容を読み、「何とも不思議な…深い歌ですね」と、掲示板に貼り出すこととなった。
それを見たある財界人は、静かに立ち止まり、携帯のカメラに収めながら呟いた。
「“誠の糸”…我々が忘れてはならない言葉だな」
その瞬間、千年前の政の志が、現代の街角にふたたび宿っていた。
貞信公の姿はもうどこにもなかった。ただ、その眼差しだけが、都市の空にそっと溶けていた。
終