第19章 伊勢
昼下がりの丸の内オフィス街。ガラス張りの高層ビルが立ち並び、通りにはスーツ姿の女性たちが颯爽と行き交う。プレゼン資料を抱え、イヤホンで会議に参加しながらランチを買いに走る姿――その中に、異彩を放つひとりの女がいた。深い紅の袿に、黒髪を美しく結い上げたその人物は、伊勢であった。
彼女は一歩ごとに周囲を見渡し、感嘆とも憂いともつかぬ表情を浮かべていた。
「…この世は、女の力で動いておるのか」
かつて、平安宮廷に仕えた女房として、そして天皇の寵愛を受けながらも一人の女性として愛と名誉の狭間を生きた伊勢。その彼女が、令和の街に見たものは、華やかに、そしてしなやかに働く女性たちの姿だった。
とあるカンファレンスの会場では、「女性とキャリアの未来」というテーマでセッションが開かれていた。壇上では、IT企業の女性CEOが力強く語っていた。
「かつて女性は“従う者”とされた。けれど今は、意思を持ち、選ぶ時代。社会のかたちを、私たちの手で描くのです」
その言葉に、伊勢の胸が熱くなる。
「女が、意を持って道を選ぶ――それが叶う世が来たとは」
彼女は、かつて自身が生きた宮廷での束縛を思い出す。恋に殉じ、噂に晒され、それでも自らの歌で己を表現した日々。人前では“控えめに”、心では“熱く”――それが女の定めだった。
だが今、人前で語ることを許され、胸を張って自らの価値を示す女性たちがいる。彼女たちはペンを持ち、議論し、未来を構想している。
伊勢はふと、近くのブックカフェに入った。そこでは若い女性たちが、ノートパソコンに向かって仕事をしていた。ある者はエッセイを書き、ある者はビジネスプランを練っている。
「かつて、私が筆に託した“詞”は、今やこんなにも多くの手に宿っておるのか」
感動とも、喜びとも、安堵ともつかぬ感情が、彼女の胸に押し寄せてきた。
伊勢は窓際の席で短冊を取り出し、ゆるやかに筆を走らせる。
彼女はその歌をカフェのレジ前にそっと置き、立ち去った。誰にも気づかれることなく。
数時間後、店員がその短冊に気づき、メモ用紙として使われていたことに驚きつつも、その美しい筆致に目を留めた。
「誰かの忘れ物かな…でも、捨てるにはもったいないな」
彼はそれをレジ横の掲示スペースに飾り、「お客さまの詠んだ歌」として紹介した。
やがて、その歌を見たある編集者が、「この短歌をテーマにエッセイを連載しませんか?」と女性ライターに声をかける。
こうして、伊勢の言葉は現代の“詞”となり、新たな舞台へと舞い上がっていった。
終