第17章 在原業平
春の風がやわらかに吹き抜ける、青山の街角。洒落たカフェのテラス席に、ひとりの男が腰かけていた。艶やかな直衣に身を包み、うっすらと口元に微笑を湛えるその男は、まさしく在原業平であった。
彼の姿はまるで絵巻から抜け出したようでありながら、不思議と街並みに溶け込んでいた。隣のテーブルの若者が、スマートフォンを見ながら笑っている。画面にはハートのマークと、見知らぬ誰かの顔写真。
「そなた、恋をしておるのか?」
思わず問いかけた業平に、青年は驚きつつも画面を見せてくれる。
「これ、マッチングアプリって言うんです。写真やプロフィール見て、気になる人とチャットして、気が合ったら会うんですよ」
「会わずして、想いを交わす…?」
業平はまばたきをした。彼にとって恋とは、逢うことであり、語ることであり、共に風を感じること。相手の目を見て、声の震えを聞き、袖の動きに心を寄せる――その一瞬一瞬に恋が宿るものだった。
「まるで、言の葉のなかにのみ咲く恋。それは…美しき幻のようじゃ」
その後も彼は、好奇心の赴くまま、現代の恋模様を観察した。アプリで出会い、チャットで語らい、スタンプで想いを伝える。だが、いざ「会う」となると、戸惑いや躊躇が立ちはだかるという。
ある日、業平はひとりの女性と出会う。やさしい笑顔と知性を湛えたその人は、業平の風貌に興味を抱き、互いに言葉を交わすようになった。だが彼女は、あくまで「オンラインでの関係」を望んだ。
「会わずとも、あなたの言葉に心がときめくのです。それで十分ではないかしら」
業平はしばし考えた。手紙という形でしか伝えられぬ恋も、かつてあった。遠く離れても、なお通じ合う心があった。しかしそれでも、彼は願ってしまう。
「面影を…ひと目、見とうござる」
ついに会うことになったふたり。春の夕暮れ、川辺の桜がほころぶなかで、業平は胸の高鳴りを覚えた。だが、会えばこそ見える“温度差”もまたあった。会話の間、話題の選び方、微笑の意味――文字の向こうに思い描いていた彼女とは、わずかに、しかし確かに違っていた。
やがてふたりは、静かに別れることになる。
「恋のかたちは、時代とともに変わるもの。されど、恋そのものは…」
業平は空を見上げて微笑んだ。切なさを胸に抱きながら、彼はまた筆をとる。
彼の姿は、川風に乗って消えていった。桜の花びらが、春の終わりを告げるように、静かに舞っていた。
終