第16章 中納言行平
夕陽が海に溶けゆくころ、沖縄・那覇の空港近くにあるビーチリゾートの浜辺。海風が柔らかく吹き、波音が静かに耳を撫でるなか、ひとりの男が遠く水平線を見つめて立っていた。藍染の狩衣に、旅人のような足取り――その人物は、中納言行平である。
かつて「立ち別れ」と詠い、離れた者への想いを募らせた男が、今また、果てしない海を前に佇んでいた。
ビーチでは、旅の非日常を楽しむ観光客たちが、写真を撮り、笑い声をあげている。砂に文字を書く者、サンセットを背景にポーズを取るカップル、ドローンを飛ばす青年。すべてが一瞬を切り取るための所作だった。
行平は、その光景を静かに眺めていた。
「…旅とは、本来、離れて知る“想い”のことなり。今は、それを写してすぐに戻れる世か」
ホテルのラウンジでは、「旅Vlog」や「#絶景スポット紹介」といった映像がスクリーンに映し出されていた。スマートフォンを片手に、行きたい場所を“探す”時代――それは彼にとって、限りなく新しく、限りなく不思議な感覚だった。
「思いを募らせ、遠き者に会わんと願いし昔。今は、願わずともすぐ繋がれる」
彼の目に映るのは、機内モードのスマホ画面に浮かぶ“既読”の文字と、“返事がない”通知に眉をひそめる若者の姿だった。見えることが、心を近づけるとは限らぬ。行平はそのことを、深く理解していた。
夕暮れが深まり、浜辺の人々が少しずつ減っていくなか、行平は浜に腰を下ろし、波音に耳を澄ませた。
「波のかなたに、まだ知らぬ想いがある。見えぬがゆえに、恋しくなるものがある」
行平は懐から一枚の紙を取り出し、静かに歌を詠む。
彼はその歌を小さなボトルに入れ、波打ち際からそっと放った。
それはどこへ届くとも知れぬ、言の葉の舟。
数日後、そのボトルは台湾の小さな浜に漂着し、ひとりの若者が見つけることとなる。その若者は、将来の進路に迷っていた学生で、たまたま旅行で訪れていた。
「夢と見るかな、か……」と呟き、彼はそっとその紙をポケットにしまった。
一首の和歌が、再び誰かの背中を押す。
それが、旅の本当の贈り物かもしれない。
終