いえーいですわ
顔を洗ってコンタクト捨ててめがねにして、リビングに戻って、女は――ダフネは、ちゃんと存在していた。
「うんまっ、これ、うま、めちゃうまですわ!」
「そう? ありがとう。庭のゆすらうめをねー、ジャムにしたんだ」
「まあ! キナリノですわ!」
「丁寧な暮らしってこと?」
パン食いながらめちゃくちゃ馴染んでいた。
「いやいやいやいやおいおいおいおい、なにこれ? 何がどうしてどうなったの?」
私はお父さんの隣に座って、真っ向からダフネを見た。
起きたら月桂樹が丘ダフネ完コス女が私の部屋を掃除しているの、端的にあまりにも異常事態だろ。
ダフネは食べかけのトーストを皿に置き、ナフキンで口元を拭い、にっこりした。
「分かりませんわ!」
ぶちのめされたいのか?
「気づいたら洵ちゃんの配信部屋にいたらしいんだよね。んで、リビングに出てきたところで、俺とばったり」
「驚かせてしまって申し訳ございません。まあイケオジ! と思いましたわ」
「ええーまじで? はっはっはいやいやいや」
「がー!」
私はとりあえず大声を出した。
「受け入れるなよ! 異常者を! すんなり!」
「まあまあ洵ちゃん、考えてごらんよ。配信部屋……というか、納戸には窓がないよね。かつ、俺はずっとリビングにいて、扉からの出入りをチェックできた。ということは、つまり?」
つまりじゃねえよ。
「コナンくんですわ!」
不可能な物を除外していって残ったものがこんなに信じられなかったらすんなりとはいけねえよ。
「つまり、こうなるね。悪役令嬢Vチューバーのアバターが、リアル受肉した」
「嘘だろ……」
「いやーなんだ、ほら。俺が父親になるのも、紗枝が死んだのも、大学出て実家に戻った娘が悪役令嬢Vtuberになるのも、ぜんぶ想定してなかったからね。こういうことも起きるもんかと」
「並べちゃっていいもんかなあ? 母親の死と」
私はダフネに目を向けた。ヨーグルトにゆすらうめのジャムを垂らし、ぱくぱくですわで我関せずだ。
「それじゃあ洵ちゃん、こうしようか。ダフネさんが単なるコスプレ異常者なのか、リアル受肉したアバターなのか、一問一答形式で確かめる。判定は洵ちゃんに任せるよ」
「クイズ大会ですのね! こう見えてわたくし、ぶいクイ第二回大会四位の経験がございましてよ!」
スっと箱企画の話を持ち出してきた。よく勉強しているらしい。まあ四位って最下位だけどな。
「分かった。もうひとまずそれでいこう。単なる異常者だった場合、速やかにお帰りいただいていい?」
「令嬢たるもの、吐いた唾は呑みませんことよ!」
結果。
どうやら各種SNSや配信で開示した情報については把握しているらしい。
たとえば住所は知らないし、父親と二人暮らしなのは知らないけど、実家住みなのは知ってる。
免許を持っているのは知っている。ゲーム知識には偏りがあって、私が実はごりっごりのR18乙女ゲーマーであることは知らない。
谷崎潤一郎と松浦理恵子が好きなのは知らないが、小さいころ明日のナージャが死ぬほど好きだったこと、スパイファミリーは言うてヨルさん推しであることは知ってる。
「……分からん。判定不能」
いくつか引っかけ問題も出してみたが、すべて切り抜けられた。
アーカイブとSNSを完走した上に内容を暗記しているフリークアウトレイヤーと、本当に受肉したアバター。どちらにしても信じがたい。が、もう絶対に認めたくないことながら、天秤は後者側に大きく傾きつつあった。
「ごちそうさまでした! めちゃうまでしたわ!」
「どうもどうも」
「お父さま、洗い物お願いできますかしら? わたくし、お掃除の続きをしてまいりますわ」
「ありがとね、ダフネさん」
ダフネは封を切っていないゴミ袋を手に私の部屋へと向かった。
「洵ちゃん、どうする?」
なんで面白がってるんだこの父親。懐どうなってんの?
「…………見てくる」
部屋掃除はだいぶ進んでいた。
「洵子! ちょうどよかったですわ! 捨てていいものとよくないものの区別が……洵子?」
バッスルドレスの裾と袖口が埃だの抜け毛だの食べかすだので汚れていて、ぴしっとしていた美しすぎる前髪が汗でぺちゃんこになっていて、そういう姿を見ていたら、急激に胸が痛んだ。責められているような気分だった。
「その、ありがとう……ありがとう? ごめんね? ごめんねか、こんな汚い部屋で」
「お気になさらずー!」
声がでかい。
「わたくし、なにを隠そう無類の掃除好きですの! さあ次はお風呂場ですわよ!」
ダフネが出ていって、ぴかぴかの部屋に取り残された。
キャミソールやデニムや枕カバーが、洗濯かごに収まっていた。
読み散らかした本が本棚の前に積まれ、ふたたび並べられるのを待っていた。
マフィンかなんか食ったあとのアルミカップとコンビニ払いの振込用紙とシュシュとヘアピンとスシローの醤油パック(未開封)と鎮痛剤やトローチのシートが地層みたいに積み上がっていた座卓は、いまやすっかり天面が見えていた。
スタンドミラーだけが、昨日と同じく壁を向いていた。
全体的に、わたくしならそうするよなって感じの部屋になっていた。
どうにも居心地が悪くて、私はリビングに戻った。
「た、た、た、大変ですわー!」
血相を変えたダフネがすごい速度で風呂場からこっちに走って来た。
「えなに、どうしたの」
「アルガンオイルが! ございませんことよー!」
「ねえよアルガンオイルはうちの風呂場に」
SNS上の虚像だよそれは。
「まあ! では、ナイトキャップも!?」
「ないよ」
「まさかまさか、導入美容液はたまたま切らしているのではなく?」
「ないです」
ダフネはわなわな震えはじめた。
「でしたら、でしたら! シャワーヘッドがヘッドスパ効果を標ぼうしたものではなく、ごくごく一般的なプラスチックであるのも……」
「はい、はい、すみませんまじで」
こんなかたちで承認欲求のしっぺ返し食らうことってある?
違うんだよ、たしかに見栄は張った。それは認めるけど、数少ない女性リスナーに喜びや共感を与えたかったんだよ一義に。だってこのネイル好きってツイートしたらお揃いにしてくれるじゃん、そしてそれをわたくしがいいねしたらその子が喜んでくれるじゃん。それとあと、これが効果あったよ! みたいな、なんていうかこう……アドバイス欲、そう、だれかのアドバイス欲を満たしてあげたかったし、アドバイスした子がリプ欄でちやほやされてるところを見たかったんだよ。夢のようなインターネットをやりたいって思いの方が強かったことだけは分かってほしい。
「あい分かりました! じいや! 庭にお車を回してちょうだい!」
「おおせのままに、お嬢様」
ダフネがぱちんと指を鳴らしてさっそうと歩きだし、すごい速度で役を受け容れたお父さんが続いた。
私はしばらくぽかんとしていた。
「おいおいおいおいおいおい!」
慌てて追いかけ、家を飛び出す。ダフネはハスラーのハンドルを握っていた。
「さあ行きますわよ! ロスサントスはわたくしの庭ですわ!」
「ウワー! やめろ今すぐ!」
父親の軽でノコノコ行っていい場所じゃねえよサンアンドレアス州ロスサントスは。
私はハンドルを奪い、ダフネを助手席に押し込んだ。ダフネはすんなりシートベルトを締めた。
「運転してくださるの? ありがとうございますわ!」
「免許ないだろ」
「令嬢たるもの、いつだって歩道が広いではないかの精神ですわ!」
「そんな態度で車に乗っていいのDIOだけでしょこの世で」
「いえーい! ですわ!」
「なに?」
ハイタッチを要求するなよ。そりゃたいていのネタが通るだろ同一人物なんだし。
「行ってらっしゃい。お昼はどうする?」
窓越しに、お父さんが声をかけた。
「いやもう分からん……まじでなんも分からん」
お父さんはやや同情っぽく笑って家に戻った。私はため息をついて、ハスラーを近所のショッピングモールに向けた。