そうなりたかった私
平日の地方都市の駅前を、人類は基本的にうろつかない。私はがらっがらでぼろっぼろの駐車場に車を停めて、駅に向かった。
ロータリーも閑散としていた。周辺の商業ビルからほとんどすべてのテナントが撤退し、人類は国道を車で移動しながら子を産み、育て、そして死んでいった。
私は駅舎の脇、なんらかの機械みたいなものを囲んだフェンスにもたれてダフネを待った。バッグに無造作に突っ込んであったよれよれの文庫本――宇佐見りんだった。なんでバッグに入ってたのかはさだかではない――をめくりながら、ぼーっと、ダフネにもスマホを持たせるべきか、みたいなことを考えた。
ふと、濡れたせんべいみたいな臭いがした。何かを思い出しそうないやな臭いだった。
「お」
声がして、肩を掴まれた。全身が瞬時に硬直して、掴んできた相手の手汗がブラウスを貫通してきたのを感じた。
「やっぱりはるちゃんだ」
どざざざっと音を立てて血の気が引いた。
はるちゃん。
コンカフェ時代の、私の源氏名だった。
なんで、どうして、が、頭の中を飛び回っている。からだじゅう凍ったように冷たくて、でもあたためられたみたいに膨らんでいく感じがする。
「あっこれ生フルーツゼリー、はるちゃん好きだったでしょ?」
あっちこっちしわが寄ってゆがんだ紙袋。
好きなわけないし見たくもない。キャバでも風俗でもないんだからキャストへの差し入れは禁止だって何度も何度も何度も言った。なのに押し付けてきて、なに入ってるか分かんないから怖くて捨てるたびにフルーツゼリーのきらきらしておいしそうな感じに申し訳なさを覚えていた。みんな同情してくれたけど、アフターやってんじゃないのって裏で言ってる子もいた。もっとはっきり断れって店長に叱られた。
息がうまくできない。くちびると歯茎がぴりぴりする。
「すっぴんでも分かっちゃうよねやっぱはるちゃんオーラあるから。動画観てすぐ分かったよ」
動画。たぶん、ダフネの。津田さんとダフネと見切れていた私。特定されたんだ。こんなことあるか? 令和のこの時代に? VIPからきますた、みたいなやつだろ凸という文化。世代じゃないから解像度低いけど。私の頭はずっとどうでもいいことを考えている。やるべきことがある、確実にある。逃げるとか、通報するとか。なのに私は突っ立っている。
「えっあっ」
私は息を漏らした。男がスマホを私に向けていたから。
「もうチェキ無料でしょ? ってうそうそ、撮らないってはるちゃん昔から冗談通じないんだよねそこがいいんだけど」
なんで、なんでそれを冗談で済ませようとするんだろう。ずっとそうだった、最寄り駅まで付きまとわれて食事に誘われて私は本当に心からなけなしの勇気を振り絞って断った、こいつはそれを嘲笑って、冗談だよで終わらせた。私は、そのとき……
「は、はは」
そのとき、そうだ、今みたいに私は愛想笑いを浮かべた。自分の身を守るのにそれしか思いつかなかった。傷つけようとしてくる相手に対して、無防備であることしかできなかった。
怖くて怖くてどうしようもなかった、どうすればいいのか分からなかった。バイトを辞めてもこいつは私の周囲に現れ続けた。私は大学卒業まで意味もなく粘って実家に逃げた。警察に頼るなりさっさと引っ越すなり、やりようはいろいろあったはずなのに、私は合理的な判断力を失っていた。とにかく卒業だけはって、殺されませんように犯されませんようにって毎日毎日震えながら祈りながら通学していた。
「ふんすんすんすん」
「それ! 懐かしいなーはるちゃんと喋ってる感じするわ。冗談言うとすぐそうなるんだから」
嫌だ、嫌だ、からだの中になまぬるい笑い声が侵入してもぞもぞと動き回ってる感じがして気持ち悪い。リスナーや同期にチックいじられるのはぜんぜん苦じゃない、ちょっとかわいい個性のひとつとして居場所をつくってもらったから。でもこいつのは違う、なにがどう違うのかわかんないけど絶対に違う。
「そうそうそれでわざわざ来てさ、お話したいなーと思ったんだよ久しぶりに。駅中にドトールあったから行こうか」
手を、つかまれる。肌と肌がこすれあって、触れた場所からこいつの熱が腕を這い上っていく。私はまだ中途半端な愛想笑いを浮かべている。怒るべきときに怒れず逃げるべきとこに逃げられず。
腕を引っ張られるその力に、苛立ちと、私を支配しようとする意志が込められているのを感じる。心も体も完全無欠に竦みあがって、私の足が追従の一歩を踏み出す。
「なんとかなれッ!」
とつぜん、異様に勇ましい絶叫が空気を震わせた。
「おあ?」
私の足元に、ペットボトルのキャップがころころ転がってきた。
顔を上げると、バッスルドレス姿の顔の良い女が、ばかでかい模型店の紙袋をひっさげ、仁王立ちしていた。
「なんとかバニアには! させませんことよ!」
まじか。
こいつまじか。
編み上げブーツのヒールをかつかつ鳴らしながらダフネは私たちに迫った。
「青雲! それは君が最後に見た光ですわ!」
ちいかわネタを擦りながら、ダフネは私をがばーっと引っ張った。男の手から私の手がすっぽぬけ、たたらを踏んだ私はダフネに抱き寄せられた。ダフネは柔らかくてあたたかくてシャクヤクの香りがした。
「あ、は、あれ? 動画の……?」
「領民のみなさまごきげんよう! ぶいばーす所属の悪役令嬢、月桂樹が丘ダフネでございますわ!」
ダフネは、さも全て説明し終えたみたいな顔をした。
「あ、か、か、帰っ、て、いい、からもう」
私はがたがた震えながら言った。
この相手は、たまたま精神がささくれだってて昔の知り合いについつい結婚マウントを取ってしまった、本質的には無害な友好型じゃない。同じ言語と同じ生活様式なのにコミュニケーションが成り立たない擬態型だ。なんで私はこの期に及んでちいかわ擦ってるんだよ、とにかく早く逃げろよ。むやみに被害を拡大したって意味ないよ。
「わたくし、パスモの残高がゼロ円でしてよ!」
チャージしろ今すぐそこの券売機で。
「そこの貴方! 性的対象に強引に迫って良いのは成人向けコンテンツにのみ許される倫理規範だけとお知りなさい! 架空の性行為だけが人類に認められたぎりっぎりの性的楽園ですわ!」
男はややぽかんとしていた。だがすぐに私を見てにやついた。
「えっ? なんかそんなガチ感出されるとこっち悪者みたいになるよね。そんな本気で相手してあげてると思ってんの?」
「浅ましい! 浅ましすぎますわ!」
ダフネは即座に切り返した。
「尊厳を守るために他人を引きずり下ろすのは5ちゃんねるの中だけにしなさいな! 匿名同士のレスバで内なる獣を解き放つんですのよ!」
どうしていついかなる時でもインターネット悪役令嬢の側面をお出しせずにいられないんだ。
「まずは一メートルほどお離れにっ――」
言葉の途中でダフネは怯んだみたいに一歩下がった。男が一歩前に踏み出したからだ。男は目を見張り、それから自分の所作が与える効果に気づいたのか、侮蔑的な笑みを浮かべた。
私を抱きとめるダフネの腕に力がこもった。私を守るように――
「ふんすんすんすん」
ダフネが鼻を鳴らした。私そっくりに。
だからダフネは、すがるように、私を抱きしめていた。
怖いんだ、怖いよ、当たり前だ、怖いに決まってる。
だって、私がたったいま怖いんだから。
この子は、私だ。
最初から、私だった。
誰にでも気をつかう私で、しんどいときにしんどいって言えない私で……私よりもずっと、すごくすごくがんばっている私だったんだ。
私はダフネの手に手を重ねた。ダフネは凍ったみたいに冷たかった。
大きく大きく、私は息を吸う。
「くたばりあそばせおらァ!」
絶叫する。マイクの前でいつもそうしているように。
「なんでキャストに差し入れするんですの! 教えはどうなってんですの教えは!」
私はインターネット悪役令嬢の側面をお出しした。いついかなる時でもこれ一本でリスナーを沸かせてきたのだ。銀盾Vチューバーなめてんじゃねえぞ。
「え? いや、あ? 生フルーツゼリー?」
「令嬢たるもの、『こいつ……抱けるのでは?』なる浅薄な期待に応じることなかれ! 無礼者! 今すぐ国に帰るんだな! ですわ!」
私の口から言葉が迸る。嘔吐みたいに堰き止められなくて気持ち悪くて爽快だった。
「うわなんだこいつ」
「またそうやって半笑いを! 相手を見下すことでレスバを打ち切るのは事実上の敗北宣言ですわ! 逃げるな卑怯者! わたくしたちは戦っていますのでお前の負けでわたくしたちの勝ち! ダフネもそうだそうだと言っておりますわ!」
ダフネがかすかに笑う、その小さくて愛おしい震えがぴったりくっついた体に伝わる。私は今、怒るべきときに怒れている。共感すべきときに共感できている。物語の中の悪役令嬢みたいに。
月桂樹が丘ダフネは、そうなれなかったわたくしだ。
そうなれなかったわたくしは、そうなりたかった私だ。




