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那古野城

今回は少し短めです。

1537年(天文6年) 那古野城

織田信秀は与五郎の伝手を使い、今川氏豊の参加できるようになっていた。信秀は那古野で開かれる連歌会に足繁く参加し、翌年天文7になる頃には、今川氏豊は信秀に対して絶大な信頼を寄せており、信秀は那古野城に何日も泊まれるようになっていた。


ある日信秀は那古野城で倒れた。そして信秀は氏豊に対して、「氏豊殿、私はもうだめです。遺言を残したいので家臣を呼びたい、よろしいですか」と氏豊に言い、氏豊は信秀に同情して家臣を呼ぶことを許可した。


そして信秀は与五郎や政秀を始めとした、数十人の家臣を城内に引き入れることに成功した。その夜信秀は家臣と共に那古野城に火を付け、外に待機していた者たちをと合流し、城を乗っ取ることに成功する。


「謀ったな!信秀!」

「お主のようなお人好しでは、乱世を乗り切れないと言うことだ」


信秀は氏豊を追放し、那古野城を自らの居城とした。

その後も尾張南部の地盤を固めるため翌年の1539年(天文9年)に古渡城を築き、津島に次ぐ商業都市である熱田を支配し、信秀の勢力は尾張には並ぶ者がいないほどになった。


そして信秀は前回中途半端で終わってしまった三河攻めを再開し、安祥城を占拠して、城主に庶子の織田信広を任命した。


信秀は三河攻めでは優位に立っていたが、しかし信秀には懸念事項があった。それは美濃守護代、美濃の蝮と恐れられる斎藤利政である。利政は信秀と対立関係にあり、隙きあらば尾張に攻め掛かろうとしていた。そこで信秀は、与五郎に尾張北部にある城を与え、そこの防御を固めさせていた。


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