恋ってどんな味?
プロローグ
初恋は春になっても解けない山頂の雪のようなものだ。そしてその雪は見えるのに決して触れる事ができない。
高校2年生になっても未だにそれを引き摺っている。
よく初恋は甘酸っぱいとかって言うみたい。けれどあたしにとっての初恋はそんな甘酸っぱい思い出じゃない。
あたしの初恋は他の子と比べて早い方だったと思う。小学校4年生の夏に訪れた。稲妻に打たれたかのような鮮烈さだった。
初恋の相手はお姉ちゃんのクラスメイトだった。6歳年上の高校生でとても美しい人だった。
あたしと彼の出会いはそんなに特別なものではない。
夜が遅いからって彼がお姉ちゃんを家まで送ってきたのがきっかけだった。
あたしはその時にちょっと会話をしただけだ。恥ずかしい事に下の名前だってお姉ちゃんから聞くまでは知らなかった。
だけどあたしは彼に一目惚れだったのだ。
頭のてっぺんから爪先まで美しいあの人に一瞬で心を奪われてしまったのだ。解けない魔法にかかったみたいだった。
その人は自分の理想がそのまま人になったようなルックスだった。
黒いサラサラの髪の毛、乳白色の綺麗な肌。細身でスラリとした体格に薄茶色の瞳。どれをとってもあたしの理想だった。
雰囲気はどこか浮世離れしていて神秘的な魅力のある人だった。人間ではないと言われても納得してしまう不思議な雰囲気だった。
洗練された仕草に優しくて落ち着いた喋り。さらに同年代の男子にはない落ち着いた柔らかい物腰。
全てが理想だった。
一目惚れしないわけがなかった。
10歳ながらに夢中だったと思う。
最初はお姉ちゃんと帰ってきたからお姉ちゃんの彼氏かと思った。けれどお姉ちゃんがそれは即座に否定した。
お姉ちゃんが言うにはあんなかっこいい人と自分が付き合うわけないでしょうとの事だ。
その否定に少しだけほっとした。大きくなったらお兄ちゃんと付き合いたいなと幼心にして思った。
あたしは彼の事を王子様のお兄ちゃんと呼ぶようになった。当時のあたしはとにかく語彙がなかったのでかっこいいものを表す言葉は王子様しか知らなかったのだ。
お姉ちゃんが帰宅する度に彼はいないのと尋ねていた。
僅か数分の邂逅で、あたしは彼に心を掴まれたのだ。
それからはひたすら彼の事が頭に浮かんだ。
寝ても覚めても彼の事で頭がいっぱいだった。
彼に「あずさちゃん」と甘く囁かれるのを何度も頭の中で描いていた。
同級生の男の子なんか目に入らなかった。
当時はこの感情の名前を知らなかった。そしてのちにこの感情の名前を知ることになる。
その感情の名前こそ「初恋」だ。
だけどあたしの初恋はあっという間に終わりを告げた。
あの人は出会ってからすぐに儚くなってしまった。実はあの出会いから1ヶ月しないで彼は亡くなっていた。
それを知ったのは彼が亡くなった大分後だった。
彼の死を知ったときはショックだった。
どうして早く教えてくれないのとお姉ちゃんに詰め寄った。
お姉ちゃんは顔を下に向けてごめんねとだけ力ない声で言った。
後にお母さんから聞いた話だけど、お姉ちゃんはあたしが彼の事を好きなのを知っていたから、伝えるのに躊躇したらしい。
そして月日は流れていった。彼への淡い恋心を抱きながら。
小学6年生になった。女子は早熟な子も多く話題は好きな人や恋の話が多かった。
「あずさちゃん、知ってる?恋って甘酸っぱい味がするんだって!」
「そうなんだ。なんかイチゴみたい」
「あずさちゃんらしいね!すぐそうやって食べ物に例えるところ」
小学6年生の時の少しませたクラスメイトのゆうちゃんはそう言っていた。
だけど他のクラスメイトは違うことを言っていた。
「姉さんが言ってたけどね、恋はほろ苦いんだって。でもわかるなー。あたしも好きな人がいるんだけど素直になれなくていっつも後悔するの」
「そっかー。ゆうちゃんは甘酸っぱいって言ってたよ。どっちが本当なんだろう?」
「恋はね、人によって味が違うんだって」
「へー。知らなかった」
「恋とかに興味なさそうだもんね、あずさ」
「そんな事ないよ!」
そんな話を聞いているとお姉ちゃんの恋はどんなものだっただろうと気になった。だから訊いてみた。
「お姉ちゃん、恋ってどんな感じなの?初恋は甘酸っぱいの?それともほろ苦いの?」
「あずさ、急にどうしたの?」
お姉ちゃんは読んでいた本を閉じて、あたしに向き直る。
「友達が恋は甘酸っぱいとか言ってたの。だけど別の子はほろ苦いって言うの。だからお姉ちゃんの恋がどんなものか気になったの」
お姉ちゃんは困ったように唸った。
「恋って言うのは味が決まっているわけじゃないの。人によって全然違うの。恋した本人にしか恋の味はわからないの」
お姉ちゃんはたまに難しい事をいう人だった。当時のあたしはお姉ちゃんが言っている事の半分もわからなかっただろう。
「ふーん。それでお姉ちゃんにとって恋はどうだったの?」
「お姉ちゃんの?」
「そう!お姉ちゃんの!お姉ちゃんだって好きな人いたことあるんでしょう。その時の恋はどうだったの?」
お姉ちゃんは少し間を置いてから答えた。
「……秘密」
「お姉ちゃんのケチんぼ。あずさの事子供だと思ってナメてるでしょ?」
「そんな事ないよ。あずさがそんなに言うならお姉ちゃんの恋がどんなのだったか教えてあげるね。でもちょっと難しいからあずさにはわからないかも」
「ひどーい。馬鹿にしてるでしょ。あずさわかるもん!」
そう言って頬を膨らませた記憶がある。
「甘い毒。恋は甘い毒みたいなものかな」
そう言ったお姉ちゃんの表情は諦めのような悲しみのようなよくわからないものだった。声は言葉にできない複雑な感情を秘めていた。
当時のあたしには意味がわからなかった。だけどそれ以上突っ込んだことを訊くことはできなかった。お姉ちゃんの顔が、声がこれ以上は立ち入らないでと訴えていた。
今となってはこの言葉の意味を痛感する。
私が彼に植え付けられた想いはまさにそれだった。時々頭に蘇ってくる。だけど彼は死者だからもう会えないと言う現実が私の胸を苛んだ。
彼が亡くなって7年が経った。彼は16歳で亡くなったのであたしは既に彼の年を追い越してしまった。
不思議なことにもう7年も経つのにあの人の姿ははっきりと鮮明に思い浮かべることができる。
あの人はあたしの心に根付いて、甘い痛みを与えてくる。
その痛みは甘いけれど、ゆっくりと身を焦がすようなものだった。