其の四
「ブァックションッ!!」
俺の放ったくしゃみの音が、湯船から天井へと反響し瞬時に広がる。
「花粉症?」
俺と横並びにして湯船に浸かるアイリが、そう聞いてくる。この店で彼女と会うのも今日で三度目。3月に入っては初めてだ。俺は鼻を啜ると、
「うん。薬飲んで来たんだけどね。目薬もしたし、あと鼻シュッシュッもしてきたし。」
俺はそう言いながら、湯船に深く肩まで浸かり、彼女の少し火照った横顔を眺める。
「そうなんだ。イトウさんも大変ですね。」
彼女はそう言って、俺と視線を合わせぬまま何処か遠くの方を見つめていた。さすがに俺の事も覚えてはくれているようで、相変わらずのさばさばとした口調だが、時に今のような淡々とした口調へと変わる。その瞬間に見せるどことなく寂しげな彼女の眼に俺は興味を持ったのかもしれない。アイリは、今日も慣れない俺を尻目に、淡々と服を脱ぎ、淡々と俺の身体を洗い、淡々とシャワーで身体を流してくれる。そして互いに歯を磨き、湯船に浸かると、こうして俺と横並びになって彼女はじっとしたまま湯船に浸かっている。蛇口から濯がれるお湯の音がこのぎこちない二人の空間のリズムとなって、ただ静かに時が過ぎて行く。無言のまま、互いに背中が温まっていく中で、さっきの淡々とした口調と比例する彼女の表情を横目に
「花粉症じゃないの?」
そう彼女に問いかける。
「私は、大丈夫ですよ。」
遠くを見つめた彼女の表情が少し緩んだ。その瞬間、間髪いれずに
「いいなぁ。けど油断してると急になるからね、花粉症って。アレルギー反応だから、なんか人によって許容量が違うらしいんだよ。ほら、コップに水が溜まっていって、ある日突然溢れるみたいな。俺なんか、中学からだもん。」
俺はそう言いながら、どうにかこの空気を変えようと必死で彼女に話続けた。
「へぇー。」
しかし、彼女の瞳の先は遠くを見つめたまま。俺の顔など一切見ることもなく、破れ太鼓のような反応しか返ってこない。けれど、それでも俺は、
「でも、家の婆ちゃんは、いまだに花粉症じゃないの。だから人によって全然違うんだよね。羨ましい。」
まるで、転校して来たばかりのクラスメイトに話しかけるように、ずっと彼女に話しかけていた。そう、この時俺は、少し感じ取っていたのだ。彼女は、自ら望んでここで働いていない。きっとこういう事も、本当は好きではないんじゃないかと。
「私は、イトウさんのお婆ちゃんと一緒がいいなぁ。」
そう言うと、急に湯船の中でくるりと俺の方へと背を向け、俺の膝元にくっ付くようにして彼女は座る。そのアイリの背中を眺めながら、俺はゆっくりと彼女を抱きしめた。そして、俺は何も聞かなかった。互いに黙ったまま、しばらく花のように甘い香りのするアイリの背を俺は抱きしめていた。すると突然、
「触ってもいいんですよ?」
背中越しに俺に向けて放ったアイリの言葉が、俺の胸の鼓動をどんどんと加速させて行く。
「地元って、こっちなの?」
慌てて俺は彼女の背から手を離し、無意識に話題を変えていた。するとアイリは、
「イトウさんは何処なんです?」
そう言って背中越しに俺へと聞き返す。少し俺は間を空けて、
「俺、関西なんだよ。」
そう言って、彼女に本当の事を話した。名前も職業も、彼女に話す事すべてがデタラメでどうする。彼女を知りたいのなら、自分も本当の事を少しは話すべきだろ。そう俺は心の中で呟いていた。すると、彼女は急に後ろを振り向き、
「えっ!?イトウさんって、関西の人なんですか!?全然判らなかったです!!普段、関西弁出ないんですね!」
と、俺に向ける表情や声のトーンが一瞬で変わった。
「うん。こうやって普通に話すくらいなら出ないけどね。タメ口になるとやっぱ出ちゃうかな。」
思いのほか彼女の反応が良く、俺は少し戸惑いながらもそう言うと、
「じゃあ、今日はタメ口で話しましょ!?私、結構、方言フェチなんです!ダメですか?」
食い入るように見つめる彼女のキラキラとしたその眼を、俺は初めてこの時見た。こんなに前のめりな姿勢になって興味を示してくれるとは思わなかっただけに、少し照れ隠しのつもりで、
「うーん、急に話してと言われたら、なんか出しにくいなぁ。」
と、俺は言った。すると彼女は少し残念そうな表情を浮かべて、
「そうですよね。急に関西弁でって言われたら出ないですよね。なんか分かります。」
そう言うと、彼女は俺から少し離れ、また横並びに湯船に座る。彼女は寂しそうな表情を浮かべ、また遠くの方をじっと見つめ始める。その表情を横から見ていて、もう一度声をかけようとした次の瞬間、
「じゃあ、今日は極力、関西弁でお話お願いしますね!」
急に前のめりな姿勢で俺の方へと近付き、じっと俺を見つめるアイリの眼にはまたキラキラと輝きが戻っていた。そして、その訴えかけるような真っ直ぐな眼差しに俺は照れながら、
「うん、いいよ。」
と、彼女の眼をしっかりと見つめながらそう応えた。
「やったぁ。」
彼女は嬉しそうにニコッと笑うと、少し安堵した表情を浮かべて、そっと俺から視線を外した。そして、
「私は、生まれも育ちもこっちだから、方言って羨ましいんです。」
そう続けて言いながら、彼女はまた俺の横へと身体をぴたりとくっ付ける。そして少し笑みを浮かべながら、真っ直ぐまた遠くを見つめていた。寄り添うように俺に肩をくっつけて、静かに佇む彼女に向かって俺は、
「そうなんや。」
と、自然と無意識にそう応えていた。すると彼女は、
「あっ!」
と、とっさに声を上げてこちらを振り向く。そして、俺の顔をじっと見つめて、
「今のいいですね。」
そう言って彼女は小さく微笑んだ。
蛇口から湯船に灌ぐお湯の音と、くるりの「ばらの花」という曲が、その瞬間、この空間にはきっと流れていた。