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タイトル(仮)  作者: 川合夏樹
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其の二


「ガタン、ガタン、ガタン。」


都内を走る運送トラックの助手席に振動が伝わる。俺は次の現場へと向かう道のりをこの窓から眺めていた。建築現場の事務所、新築のオフィスビル、そしてモデルルーム。正月明けの運送業のバイトは忙しく、朝9時に一つ目の現場、そこから順に都内の現場を一軒一軒廻って行く。昼休憩を間に挟んで夕方くらいまで廻り、最後の現場の仕事が終われば、そこで運転手の人とは現地解散。時給だが、早く終わろうが、契約時間は一緒の為、給料も変わらない。今日のように早く終われば割の良い仕事だ。作業着姿の格好をした俺は、ヘルメットを入れたリュックを背負って、現場近くの最寄り駅へと向かう。毎回、最後の現場が違うため、携帯を使って自分で現在地を調べるのが面倒だが、今日は駅前の現場で終わってくれたのでラッキーだ。俺は携帯で経路を調べ、電車を乗り継ぎ、中央線に揺られながら自分の住む吉祥寺の街へと帰路に着く。


吉祥寺に着くと、仕事帰りの人達で駅前はごった返しており、その人ごみを避けるようにして俺は吉祥寺駅北口前の交差点を渡る。時間帯を見計らって、いつも帰りに寄るスーパーで、2割引きになった弁当を買い、アパートに着く頃には、少し街灯がちらつき始めていた。部屋番号の霞んだポストからチラシを取り出し、鍵を開け、部屋へと入る。安全靴を脱ぎながら、物淋しくキィーと閉まる扉の音が玄関に響き渡る。リュックを玄関先に置いて溜め息混じりに俺は部屋に上がると、そのまま弁当の入ったコンビニ袋をキッチン台に置き、真っ先に手洗いうがいを済ませた。そして肌に纏わり付くような汗の染みた作業着を急いで脱ぎ、洗濯機へと投げ入れ、そのまま風呂場へと直行する。シャワーを浴びて汗を流し、部屋着に着替えた俺は、レンジで弁当を温めながら、ベッドに腰掛け、テレビを付けてようやくひと息。バラエティー番組で一笑いする間もなくレンジが鳴り、重い腰をあげ、暖まった弁当を直ぐ様取り出す。割り箸を弁当の蓋に乗せながら、テレビ前の机まで持っていき、ベッドに腰掛けて、早速弁当の蓋を開ける。立ち上る湯気の匂いを嗅ぎながら割り箸手に合掌し、割り箸を割って勢い良く一口。この一瞬が細やかな俺の幸せなのだ。


弁当を口にしながら携帯に目を通していると、「LUNA LUNA 」からのメールが届いていた。今月は「LUNA LUNA」でのライブの予定を入れていなかったため、来月2月に出演するライブの出演者等、タイムスケジュールの確定メールだと察し、すぐさま俺はメールを開いた。しかし、そのメールの内容を見て俺は目を疑った。久保さんが来月いっぱいで「LUNA LUNA 」を辞めるというのだ。俺の箸も一瞬で止まり、大晦日の事を思い出しながら混乱し、訳がわからなくなっていた。何故なら初詣の後、「今年もよろしくお願いします。」と互いに挨拶をし、笑顔で解散していたからだ。俺は、《そんな話聞いていない、正直驚いた》という旨のメールを返信し、折り返しのメールをただただ待つ。そして、《驚かせて申し訳ない、自身は2月いっぱいまでは「LUNA LUNA」にいるので、また来月ライブで会おう》という旨の記された折り返しのメールが届き、俺は《よろしくお願いします》と、短い文章に留め、メールを返信した。今年も最悪のスタートだ。



新宿駅東口を出て、アルタ前の信号を渡る。先月からの気分転換を図る為、服でも買おうと今日は久しぶりに新宿に来た。渋谷とも迷ったが、決め手はスクランブル交差点の人混みが苦手だから。しかし、新宿アルタ前もさほど景色は変わらない。新宿駅には頻繁に足を運ぶが、意外に街を知らない。今日は新宿の街をぶらぶらと散策することにした。アルタ前から新宿西口方面に出て中古CDショップなどお店をゆっくりと回った。が、結局服も何も買わずじまい。随分と日も暮れてきた夕暮れ時の新宿の街から、俺はアルタ前に戻り、駅東口に差し掛かった時、ふと俺は思い出したかのように駅に向かう人混みを逆行して行く。そして、信号ランプが変わるとともに、俺は靖国通りを渡って、鳥居のような「歌舞伎町一番街」と書かれたアーチの前に着いた。


「ここが歌舞伎町か。」

興味本位、好奇心、煩悩。どの言葉も、このアーチをくぐる理由によく当てはまる。言葉の混ざり合った通りには、客引きらしき男が立ち、周りを見渡すとキャバクラやホストクラブ、アダルトな大人の店が軒を連ね、街の雰囲気が明らかに変わった。そして俺の頭の中を、椎名林檎の「歌舞伎町の女王」がBGMのように流れ始める。ここにいる男も女も、どこか獲物を捉えた狩人のような視線で横切る俺を眺めて行く。舐めるようなその視線を横目に、俺は捕らえられないよう、足早に通りを進む。すかさず客引きの男が俺に向かって来るが、一切視線を合わせずに俺は通り過ぎる。こういう時、相手と目を合わせないことが大切だ。うまく切り抜けたと思った瞬間、


「お兄さん。」

と、道脇からスーツ姿の男が声をかけた。俺はさっきと同様、視線を合わさず黙って通り過ぎる。しかし、男は俺の横に付きながら愛想よく話し続ける。


「今日はラッキーですよ。新人で良い子がいるんですよ。しかも新人割り。」

更に男は続ける。


「写真観るだけでもどうです?ほら、写真観るだけならタダですから。」

ひつこい勧誘に、俺は足を止め、


「そう言ってぼったくる気でしょう?わかってんだよ。」

と探りを入れる。


「とんでもない。ウチはそんな店じゃないんで。本当に写真観るだけ。どうです?」

男の顔を見つめながらギラギラしたネオンの下、俺の心はぐらりと揺らぐ。そして、


「いらっしゃいませ。」

男に連れられて入った店内は、外装とは異なり、非常に綺麗で、カプセルホテルやサウナ店のフロントのような印象。頭の中でイメージしていた風俗店の印象は受けない。男は、俺が写真を観るだけだということをフロントの店員に伝え、俺に会釈しながら店を後にした。


「写真見学とのことで、誠にありがとうございます。」

フロントの店員が丁寧な口調でそう言うと、数枚の写真をフロント机に並べて置いた。


「今夜、出勤しております女の子です。どうぞ、ご覧下さい。」

アイドルのブロマイド写真のようにドレスアップし綺麗に撮られた写真には、一人一人、女の子の名前が記載されている。少し髪を染めた派手目な子が多い中、黒髪の女の子が写る一枚の写真に、俺は目を引いた。


「この子は?」


「お目が高い。新人の子でして、今人気の子なんです。今からご案内できますが、いかがなされますか?」

愛想のいい店員の顔を伺いながら、その子の写真をじっと見返す。そして俺は…


「こちらへどうぞ。」

店員に番号札を渡され、待合室に入ると、お茶と手ぬぐいの用意されたソファー席に案内された。俺はそこに座って待合室を眺める。豪華な装飾品の飾られた待合室には、既に先客が数人座っていて、少し気まずい雰囲気だ。まさか振られた彼女に渡す予定だったクリスマスプレゼントを買うために貯めたお金を、こういうお店で使う事になろうとは、俺は夢にも思っていなかった。しかも風俗自体、今日が初めて。新宿に服を買いに来たはずが、俺は一体何をしてるんだろうと後悔に苛まれた。


「31番の方。」

定員が呼びに来たが、俺の札の番号ではない。俺の前に座る年配客が立ち上がり、横を通り過ぎて待合室を出て行く。しばらくするとフロントの方から女の子の挨拶する声が、微かに聞こえた。自分の番号に近付くにつれて、胸の鼓動が高鳴る。そして、


「33番の方。」

自分の札の番号が呼ばれると、俺はリュックを背負って、店員に番号札を渡しながら待合室を出る。フロント店員が会釈しながら、


「ごゆっくりお楽しみ下さいませ。」

と言って見送り、フロント前の通路を歩いて行き、少し先にある階段前に案内された。


「アイリさんです。では、ごゆっくりお楽しみ下さいませ。」

階段を少し見上げると、そこに女の子が一人立っていた。そしてその子を見て俺が最初に思った事、それは、「騙された。」だった。フロントで最初に見た写真の女の子とは全く容姿が違ったからだ。写真では髪型は黒髪のロング。うっすら化粧を施した清楚な印象だったが、階段に立つ女の子は、ソフトボールやバレーボール部員かのようなくらい短くボサボサのショートヘア、化粧もほとんどしていないようなスッピンの子だった。階段を少し上ると、


「初めまして。」

そう言って小さく会釈する堅い表情の彼女に、俺はすっと手を繋がれる。


「どうも、初めまして。」

少し引きずった表情を浮かべながら、俺も会釈する。手を繋ぎ、階段を上がる最中、俺は心の中で罵詈雑言を連呼させる。そして階段を上ると、通路脇にはいくつも部屋が連なり、俺は彼女に手を引かれながらその廊下を通り、部屋まで案内される。


「ここです。」

そう言って、一室の部屋のドアの前で彼女が立ち止まる。


「靴、脱いで下さい。」

彼女の指示に従って、俺はドアの前で靴を脱ぎ、部屋へと入る。彼女は、俺の靴を部屋の前に揃えて置き、自身の靴を並べ置くと部屋へと入った。薄暗い明かりの小さな部屋には、手前にベッドが置かれ、奥にバスタブ、シャワーが見える。彼女は、俺の靴を部屋の前に揃えて置き、自身の靴を並べ置くと、部屋へと入りドアを閉める。


「荷物とかどの辺に置けばいいかな?」

俺がそう訪ねると、


「どこでもいいですよ。この辺とか。」

ベッド下の空いたスペースを指差す彼女に従い、俺はリュックを置く。荷物を置いた俺の前に彼女はすっと立ち、


「初めまして。アイリです。」

彼女はもう一度俺に会釈しながら挨拶をする。


「初めまして。イトウです。」

何故か俺の口からフッと出た名前が「イトウ」だった。彼女は俺の着ているジャケットを受け取り、洋服棚のハンガーに掛ける。そしてベッドに腰掛け、


「イトウさんも座って下さい。」

そう言って、俺を自分の横に座らせた。俺は、キョロキョロと薄暗い部屋の中を見渡しながら、


「もう少し部屋の灯りを明るく出来る?暗いの苦手で。」

俺がそう言うと、彼女はドア横に付いた部屋の灯りを調節するツマミを回しに行き、


「このくらいでいいですか?私も明るいと恥ずかしいので。」

少しだけ明るくなった部屋を眺め、俺が頷くと、彼女は俺の横に再び腰掛ける。互いにしばらくの沈黙の後、彼女が


「トイレとか大丈夫ですか?」

と、俺に尋ねる。


「うん、今は大丈夫。」

と、俺が応えると、


「今日は仕事の帰り?」

彼女が続けざまに質問を投げかける。


「いや、休み。」

そう言って俺が彼女の顔を見ると、


「ふーん。どんな仕事されてるんです?」

と、伏し目がちな表情をして俺に質問を続けてくる。正直に今のバイトの話をすべきか、一瞬頭によぎりながらも俺は、


「アパレル関係。」

と、彼女に嘘をつく。いや、実際には過去に働いていた職業が口に出たと言うのが正しいが、3ヶ月で辞めた仕事を口に出したのだからやはり嘘に変わりはない。


「へぇー、店員さんなんだ?」

相変わらず、彼女の表情は俺に対して興味を示す素振りもない。


「まぁね。」

そう言葉を発した最中、俺は心の中で「もう、無理!」と叫びながら頭を抱えていた。すると、


「イトウさんはこういうお店来たことあるんですか?」

彼女から、はっとするような質問が唐突に飛び出す。俺は、


「うーん、一回友達に誘われて別のお店に行ったことあるくらいで、全然行かないよ。」

初めてだと彼女に言う事が恥ずかしいから?きっとそうだろう。俺は自問自答しながら、彼女に嘘を話す。


「ふーん、そうなんだ。じゃあ、どうして今日は来ようと思ったんです?」

さらっと確信を突くような事を彼女に聞かれ、俺は少し一呼吸考えた後、


「好きな子がいたんだけど、彼氏が出来ちゃってね。」

振られたからとは彼女には絶対に言いたくない。今答えられる精一杯の解答に対して彼女は、


「振られたんですか?」

と、躊躇いなく俺の張りぼてだらけの心をカウンター気味に貫いた。そして俺は、


「まぁ、そんなとこかな。」

と、苦笑いを浮かべ認めるしかなかった。


「結構います、そういう人。」

彼女はそう言うと、


「服、脱ぎます?」

彼女はベッドから立ち、唐突に着ていたワンピースを脱ぎ始めた。


「ちょっ、えーっと、タオルとかある?あれば貸してくれない?」

慌てて彼女にそう言うと、既に下着姿の彼女は不思議そうな顔をして、


「どうせ裸になるのに。恥ずかしがり屋なんですね。」

彼女はそう言って部屋に置かれたタオルを俺に手渡した。


俺は服を脱ぎ、タオルを巻いて下着を脱ぐ。彼女は、俺の服を裁たんで、ベッド下の籠にしまう。彼女はそのまま、照れることもなく平然と下着を脱いだ。服を着ていると気付かなかったが、とても女性的でグラマラスな体型だ。俺は彼女に手を引かれ、奥の洗面シャワーへと向かう。


「タオルを外して、そこに座って下さい。」

大きな洗面鏡の前、少し変わった形状の洗面椅子に俺を座らせると、その横で彼女はシャワーを手にして湯を出し、手で温度を確かめる。


「温度はこのくらいで大丈夫ですか?」

彼女が手にしたシャワーから出るお湯に触れ、俺が頷くと、彼女は洗面器にボディーソープを入れ、シャワーのお湯を入れてボディースポンジを使って泡立たせる。その泡をしっかりと染み込ませたボディースポンジで俺の背中を洗い始めた。と同時に、彼女の大きな胸が背中を滑るようにして当たって行く。


「こんな感じなんですか?」

鏡越しに彼女に話し掛けると、


「こんな感じですよ。」

彼女はそう言うと、


「教わったばかりで、慣れてないけど。」

彼女は背中を洗うと、その流れから肩や腕を洗い、同じように滑らせるようにして胸を当てる。そして、


「失礼します。」

そう言って、彼女は洗面椅子の座る部分にある窪みと俺の尻との間から手を突っ込んでそこを洗い始めた。驚きと恥ずかしさに一瞬声を発しそうになりながらも、彼女が洗い終えるのを俺はじっと耐えた。丁寧にボディースポンジで俺の身体を洗い終えると、身体中に付いた泡を彼女がシャワーで落としてくれる。鏡越しに彼女は、


「ローションどうします?」

と俺に尋ねてきた。俺は鏡越しに、


「そういうの苦手だから、やめとくよ。」

そう言って断ると、


「良かったぁ。私も苦手なんです。じゃあ、先にお風呂に浸かってて下さい。私も身体洗うので。」

俺は湯を張った小さなバスタブに入って、蛇口から出る湯の音を聞きながら、身体を洗う彼女を待つ。身体を洗い終えると、彼女は俺に歯磨き粉を付けた歯ブラシとお湯を入れたコップを手に持ち、


「これ、どうぞ。」

と言って、俺に手渡す。


「どうも。」

俺は歯を磨きながら、彼女を眺める。すると彼女も歯を磨きながら、コップを持ってバスタブへと入ってくる。狭いバスタブに横並びに二人並んで座り、歯を磨く。バスタブの外に口に含んだ歯磨き粉を出してもいいかとジェスチャーしながら俺が尋ねると、歯を磨きながら、彼女は頷く。バスタブ外にぺっと吐き出し、コップのお湯で口を濯ぐと、彼女もぺっと吐き出し、口を濯ぐ。歯磨きを終えると彼女は、俺の使ったコップと歯ブラシを受け取り、バスタブを出て洗面台に置きに行く。そして彼女は再びバスタブに入ると、


「前に座っていいですか?」

そう言って彼女は俺の方に背を向けた格好で、膝元に密着する形で座る。蛇口から出るお湯の音が耳元に響くバスタブで、しばらく互いに沈黙が続く。


「こっち向かないの?」

俺が尋ねると、


「こういうものですよ。」

と背中越しに彼女が答える。ふとその時、俺は一つの事に気付いた。それは、出逢ってから一度も彼女が俺の目を見て話していないということだ。口調はさばさばとしていて明るいのに、何故か彼女の表情はずっとぶっきらぼうで堅い。その印象から見て、余程俺に興味が無いか、嫌いなタイプなのだろう。そう悟った俺は背中越しに、


「ハグしていい?」

と彼女に尋ねる。彼女はそのまま俺の腕を取り、俺の両の腕を自分の胸元まで持って行くと、


「いいですよ。」

そう言って、胸元に持って来た俺の両の腕から手を離す。俺はそのまま背中越しに彼女をぎゅっと抱きしめる。勿論彼女の表情も、反応も何もわからない。けれど、彼女の首元から香る花のような匂いが俺の身体を優しく包み込む。俺はそっと目を閉じて、彼女の首もとに口付けをした。すると彼女は、焦るようにバスタブから急に立ち上がり、


「のぼせちゃいますから、上がりましょ。」

そう言って湯船を出る。俺は嫌がることをしてしまったと思い、すぐに、


「ごめん、良い香りだったからつい。」

そう言って湯船を出ると、


「くすぐったかっただけです。はい、こっちで身体拭きます。」

そう言って彼女はバスタオルを手で広げて俺を待ち構える。俺が向かうと彼女は俺の身体を一通り拭き、バスタオルを俺に手渡す。そのバスタオルを腰に巻き、俺はベッドに腰掛けると、彼女も身体拭き、胸元にバスタオルを巻いて、俺の横に腰掛けた。


「何か飲み物頼みます?」

そう言うと彼女はベッド横の机に置かれたドリンクのメニュー表を取り出して俺に見せ、


「私はホットの緑茶にします。何にします?」


「じゃあ、冷たい烏龍茶で。」

メニューを決めると、彼女が部屋の壁に付いた固定電話からフロントに注文をする。注文を終え、ベッドに戻った彼女が、


「ドリンク来るの待ちましょう。」

そう言って俺の横にちょこんと座る。まるで氷の入ったグラスにウイスキーを注ぐような、二人だけの空間がこの部屋に生まれ、同時に静かな緊張が部屋を渦巻く。すると、微かに部屋の壁から何か音が漏れ聞こえてくる。しばらく聞いていると、それは明らかに隣りの部屋から聞こえる女性の喘ぐような声音。その音を意識した瞬間、グラスに入った氷が溶け、音を鳴らすようにして俺は、


「キスしていい?」

と彼女に尋ねる。視線を合わせる事もなく続く沈黙の後、彼女は小さく頷いた。俺は、ゆっくりと彼女の方へと近付き、互いに向かい合い、もう一度彼女をぎゅっと抱きしめる。そして逸らしたままの瞳をスッと閉じた彼女に、俺はキスをした。唇と唇が重なり合うだけの短くて幼げな口付け。そのまま彼女をベッドに横にし、俺は彼女の胸元を覆うバスタオルに手を当て、タオルをほどこうと手に力を入れる。すると、ほどけたバスタオルを胸元で掴んだまま、ぐっと力を入れて彼女はバスタオルを離そうとしない。明らかにタオルを剥がす事に抵抗している。


「まだドリンク来てないよ。」

そう言って頬を赤らめ、視線を逸らした彼女の恥じらうような表情が、さっきまでのさばさばとした口調の印象とは事なり、可愛く、そして余りに幼く俺には映り、タオルを掴む手の力をすっと緩めた。するとその瞬間、ほどけたバスタオルを胸元に当てながら、逃げるように彼女はベッドを降り、ドアの方に向かう。


「ドリンクまだかなぁ?」

話を逸らすかのようにして、彼女は寄りそうように、覗き込むようにドアの前に立つ。その彼女のはだけた後ろ姿が、まるで彫刻の「ミロのヴィーナス」のように美しく俺には映った。そして儚げな彼女の横顔をベッドの上からじっと眺めていた。すると、コンコンっとドアをノックする音が聞こえ、


「あっ、やっと来ましたね。取ってきます。」

そう言って彼女は店員が去るのを見計らい、ドアを開けて部屋の前に置かれたコップの並んだ小さなお盆を持ち、部屋に入る。そしてベッドに座り、


「はい、どうぞ。」

俺に烏龍茶の入ったコップを手渡すと、彼女は机にお盆を置き、俺の横でひとくちホット緑茶を口にする。俺も一口飲み、机のお盆にコップを置いた。そして、


「さっきの続き、いい?」

と、彼女を見つめながら、ゆっくり彼女の方へすり寄る。彼女は視線を逸らしながら、


「いいですよ。そういう所ですから。」

そう言って、コップを机に置くと、彼女は静かにベッドの上に横になった。そして俺が近づくと胸元のバスタオルに手を当て、俺が再度、胸元のバスタオルをほどこうとタオルを掴むと、彼女もぐっと再度、力を込めて抵抗する。それを見て俺は、


「恥ずかしい?」

そう彼女の顔を眺めながら尋ねると、


「恥ずかしいですよ。」

そう言って、彼女は視線を横に逸らし頬を赤らめる。その表情を見て察した俺は、彼女の胸元のバスタオルから手を離し、


「少し話そうか?」

そう言って、彼女の横に寝転がる。彼女が驚いた表情をしているので、


「俺、人見知りだし。そもそも、お互い何も知らないのに、こういうことするのもなんか変だしさ。人見知り?」

俺がそう聞くと、彼女は首を横に振り、


「人見知りがこんな仕事しませんよ。」

そう言って、ほどけたバスタオルをもう一度胸元に巻き直すと、


「お話したいです。」

彼女はベッドに横になってそう言った。互いにベッドに横になり、天井を見つめて、


「趣味とかある?俺は音楽聴いたりするの好きなんだけど。」

如何にも初対面の相手に話すありきたりな話題を振ると、彼女は少し考え、


「音楽はそんなに詳しくないんですけど、映画とか観ます。」

映画の話題に彼女がスイッチしたので、


「そうなんだ。映画館で観るの?」

俺は彼女の話しに乗って質問をする。


「はい。最近は行けてないんですけど。」

それを聞いて俺は、


「自分も学生の頃、よく行ってたよ。今はわからないけど、昔、月の初めが学割で千円で観れたから。よく友達と映画館行ったなぁ。なんか観たい映画が無くて、観る映画決めずに街に出たんだけど、結局決まらず、小さな映画館でやってたマイナーそうな映画を観たの。当時中学くらいだったんだけど、とにかく意味わかんない映画でね。洋画なんだけど、なんか途中で空から大量に蛙が降ってきたりして。それで見終わって、みんな訳わかんなかったねって言って帰ったんだけど、大学生くらいになってから、たまたま深夜にテレビでその映画がやってて観たの。そしたらめっちゃ良い映画で。当時意味わかんないって感じたのは、その映画、オムニバスのストーリーが劇中行ったり着たりする映画で、最後に一つの話に繋がっていくってストーリーだったんだけど、全く同じ作品なのに、観た年代が違うとこんなにも印象が変わるんだってすごい感じて。不思議な体験だった。中学の時に映画館で観てなかったら、そんな風には絶対思ってないから。『マグノリア』って作品なんだけどね。」

彼女の方を見ると、真剣な表情で俺の顔を見ている。


「洋画と邦画ならどっちが好き?」

俺がそう聞くと、


「どっちも観ますけど、強いて言うなら邦画が好きです。」


「邦画かぁ。」

俺は天井を見つめながら、自分の思い付く邦画を頭に浮かべた。


「『月とキャベツ』って知ってる?」

俺がそう尋ねると彼女は首を横に振る。


「ジャンルは何ですか?」

と、彼女が尋ねる。


「うーん、恋愛ファンタジーかな。」


「ファンタジーなんだ。」

彼女はそう呟く。


「うん。『花火』って言う主人公がいて、昔売れてたバンドのボーカルでシンガーソングライターなんだけど、今は曲も作らず田舎で一人暮らししてたの。ある日、家に『ヒバナ』って名乗る少女が突然訪ねて来るの。ファンだって。どうして花火は曲を作らないのって。その子と主人公のひと夏の物語って感じなんだけど…」

俺が彼女の顔を見ると、真剣な表情で俺の話をじっと聞いている。そして、彼女が俺の眼を見ながら話を聞いていることに、俺は気付いた。


「ごめんね。俺ばっかり話して。」

そう言って笑うと、彼女は首を横に振り、


「ううん、聞きたいです。」

短い髪型と相まった彼女の表情は、まるで小猿のように可愛らしく、また幼くも見えた。


「メジャーな映画じゃないんだけど、学生時代に深夜のテレビで観て、すごく印象に残ってて。大人になってからも何度か観たんだけど、やっぱり好きなんだよね。出演者も少ないし、静かな映画なんだけど、映像と音楽がすごく良くて。俺の中で『THE 邦画』って感じ。」


「私もそういう静かなの好きです。聞いてて好みかも。」


「TSUTAYAとかに置いてるかわかんないけど、あれば借りてみて。お薦め。」


「探してみよ。」

そう言って彼女は仰向けになって天井を見上げた。


「何か、お薦めとかある?」

俺がそう尋ねると彼女はしばらく考えて、身体を横にし、俺の眼を見ながら答えようとした、その瞬間、部屋の壁に付いた固定電話から呼び出し音が鳴る。彼女はベッドを降りて受話器を取り、電話に出ると、短く受け答えをし、受話器を置く。そして、


「ごめんなさい。もう、五分前みたいです。」

申し訳ない表情でベッドに座り、俺を見つめる。


「嘘!?もうそんな時間?」

俺は焦ったようにベッドから起き上がり、彼女の方に近付いて、


「そっか、仕方ないよ。少し、話過ぎちゃったね。早く服着よう。」

そう話すと、俺は焦りながら急いで服を着る。急がなくて大丈夫と話す彼女は、対象的にゆっくりと服を着て、もう一度部屋を出る事をフロントに電話する。彼女は電話を切ると、荷物を持った俺に忘れ物がないかを確認し、ドアを開けて靴を履き、共に部屋を出る。その時、ドア前で


「最後、ハグしていい?」

俺がそうお願いすると、彼女は黙って視線を逸らし、両腕を横に広げた。そして、


「話、途中で終わっちゃったけど、ありがとう。」

彼女を抱きしめ、俺は耳元でそう伝えた。彼女は黙ったまま小さく頷いた。ハグし終えると、彼女は俺と手を繋いで、


「行きましょ。」

そう言ってフロントまで俺を先導する。階段を降りて、フロントに着くとフロント前にいる店員が、俺に向かって、


「ありがとうございました。」

と会釈しながら挨拶する。俺は繋いだ彼女の手を離し、そして、


「ありがとう。」

そう伝え、この店を後にする。玄関先で振り向くと、彼女はフロント前で俺を見ながら小さくお辞儀をした。


店を出て、新宿駅に向かう道中、俺はいろんな感情が交錯していた。新宿に来た後悔、歌舞伎町に行った後悔、あの店に行った後悔、お金を払いながら彼女と何もしなかった後悔。しかし、一番の後悔は、彼女との会話が途中で終わってしまった事だった。彼女のお薦めの映画を聞けなかった事。その事が、今日一番の俺の後悔だった。アパートに戻って、部屋に入る。リュックを置きベッドに横になるが、ずっと彼女との会話が頭の中を回っている。俺の中で、もう一度彼女と会い、途中で終わった話の続きをしたいという気持ちが強まっていく。俺はベッドから飛び起き、携帯で今日行った店の名を検索する。「歌舞伎町 スピカ」。すると、店のホームページに彼女の写真と名前が掲載されていた。写真には顔にモザイク処理がされているが、名前は「アイリ」と記載されている。ホームページには彼女の出勤日が記載されていて、次の出勤日は三日後。ホームページを見ると、出勤日前日から予約出来ると記されていた。俺はもう一度ベッドの上に仰向けになって、今日出逢った彼女の顔を冷静になって頭に浮かべた。


「アイリか。」

そう呟き、俺は部屋の天井をじっと眺めた。



三日後、俺はまた「歌舞伎町 スピカ」の待合い室にいた。予約も、丁度彼女のスタート時間で取ることが出来、俺が一番最初の客。クリスマスプレゼントに貯めたお金が彼女に消えるのかと思うと、この上なく自分が恥ずかしく、情けない。もし1ヶ月後に店に来ていたなら、彼女は俺の事などとうに忘れているだろう。ましてや、話の続きなど到底出来ない。更に彼女の印象に残っていなければ、既に俺の存在を忘れている事すらあり得、覚えていたとしても、会ってたった三日で店に来るような客を彼女が快く思うかさえわからない。俺にとって今日来る事は、言わば賭けだった。

店員に番号を呼ばれ、待合い室を出て、フロント前を通り、階段へ向かう。胸の鼓動が高鳴る通路の先、その階段に立つ彼女と対面すると、彼女は一瞬驚いた表情を見せ、階段を上がる俺の手を繋ぐと、


「早いですね。」

そう言って彼女は、にこっと俺の顔を見て笑った。


それが2月の初め。

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