異世界に転生したけど価値観が違いすぎる
「見てごらんなさい、あの白魚のような指」
「目もぱっちりとしてますし、あの折れそうな腰なんて!」
「腰だけじゃないわ。腕もごらんなさい。木の棒よりも細いのではなくて」
――これは全部悪口だ。
私には前世の記憶がある。なんてことのない普通の女性で、なんてことのない平和な世界で生きていた、そんな記憶。
物心つくころには、自分が以前とはまったく異なる世界に生まれ直したということを理解していた。
「可愛い子ね。将来が楽しみだわ」
会う人会う人がそう言って、私を褒め称えた。
貴族の家に生まれ、愛くるしい姿をしていた私は完全に天狗になっていた。
だけど、私の全盛期は四歳で終わりを迎えた。
当時の私はどこかのお姫様のようだった。金色の髪は艶やかで、ぱっちりとした目に、長いまつ毛。肌は白く、頬は薔薇色。これでもかとばかりの美が終結した私だったが、それは前世基準にすぎなかったのだと、その日思い知らされた。
「どうして、どうして太ってくれないの……!」
そう言って泣きはらすお母様の姿に、私は頭を銃で撃ちぬかれたような衝撃を受けた。もちろんそんな経験はないので、想像だけど。
この世界では、ふくよかなことがなによりも美しいということだった。どうりで会う人会う人みんな肉の壁だったはずだ。
太っていることはそのまま裕福だということに繋がり、引いてはそれだけ領地が富んでいるということになる。だから太っていることは貴族にとって一番重要なのだ。次に艶やかな髪、滑らかな肌とくる。それもそれだけを維持できる富があることを差すから。
領地を経営できる手腕? そんなのは当たり前のことだ。できない人は切磋琢磨して働かないといけない。だから痩せるし、太れない。有能がどうかの判断材料にすらされている。
どうして太らないといけないのかを泣き続けるお母様に聞いたら、支離滅裂ながらもそう説明された。
長くて細い指いいなぁとか考えている場合じゃない。これはなんとしても、太らないといけない。そう決心した。
だけど、道のりは険しかった。
甘味を優先的に食べても、ベッドの上で転がり続けても、私の体はまったく太らなかった。限界容量を超えて食べたら普通に吐いた。
前世であれば、なんてすばらしい体だろうと歓喜していたところだけど、今世ではこの体質が憎くて仕方なかった。
だって、太れない私を見てお母様が毎日泣いていたから。
児童虐待を疑われて針の筵のような扱いを受け、傷一つない私の様子からそうではないとわかると、今度は民からの税をよからぬことに使っているのではと王家からの偵察がきた。
さらにそうではないとわかると、最終的に病弱な子どもを産んだ駄目な母親だという誹りを受けるまでにいたっていた。
これは直接そうと言われたわけではない。ただお祖母様やお祖父様の言葉の端々や、周囲の扱いからそうだろうと検討をつけだけだ。
ただの推測にすぎないが、おそらくそう外れてもいなかったはず。
太ろう太ろうと頑張る私と、泣き過ごすせいで段々と痩せ、細くなっていくお母様。
お母様の様子が好転したのは、第二子――つまり、私の弟が産まれてからだった。
太れない私とは対照的に、弟は産まれたころからころころとしていた。四歳――私が太らないといけない事実を知ったのと同じ歳には、それはもう、子豚ちゃんと称されるほど丸々としていて、駄目な腹ではないと証明したお母様はまた昔のように肉になった。
「太らなくてもいいのよ。あなたが元気に育ってくれているだけで嬉しいわ」
毎日毎日泣き続けていたお母様は、そう言い切るまでに回復した。
お母様からすれば、病弱な子ども――実際は風邪一つひいたことがない――私がすくすくと育っているだけで万感の思いなのだろう。でも私は、太ることを諦められなかった。
当時私は十二歳で、初めての失恋をしたばかりだったから。
初めて彼に出会ったのは私が六歳のときで、伯爵家のお茶会にお母様が参加することになり、私もついていったのが始まりだった。
お茶会とは名ばかりの、太れない子供をもつ親同士の励まし合い会。参加者は伯爵家のご婦人とお母様。それから私と彼だった。
彼はほかの六歳の子どもとは違って、とてもほっそりとしていた。風が吹けば倒れそうな体に、憂いを帯びた穏やかな笑顔。
そして太れないという共通点もあって、私は一気に彼に惹かれた。
彼は私とは違って本当に病弱だったのだけど。
お母様の懐妊がわかってからは少しずつ付き合いが減り、弟が子豚ちゃんになったあたりで相手のご婦人が机に突っ伏して泣きまくった。
「裏切者!」
と叫ぶご婦人となだめるお母様から逃げるように、私と彼は庭園の花を眺めていた。
「もうお茶会はなくなっちゃうのかしら」
「そうなるだろうね」
弱弱しく笑う彼に、私は悲しみから目を伏せた。
「私、あなたのことが好きよ。お茶会がなくなってもまたこうして会いたいわ」
これが最後のお茶会になるかもという思いから、私は勇気を振り絞った。
「……僕も、君のことは好ましいと思ってるよ」
「だったら……!」
その先を告げることはできなかった。
彼が細い首を横に振りながら、いつものように、憂いを帯びた笑みを浮かべたから。
「僕は将来、伯爵家を背負わないといけない。夫婦どちらも太れないとあっては、民が不安がる」
領主が太っているということは、そのまま領民のステータスにもなる。富んだ土地には人が来るし、人が来れば金を落とし、さらに栄える。
逆に痩せていたら、領地経営が上手くいっていないのではと領民の間に不安が広がる。
だからこそ、貴族は太ってないといけない。
民のためにとそう言う彼に、私はそれ以上なにも言えなかった。
太らないといけない。太らないと、結婚すらできない。
なんの変哲もない前世を生きていた私には、この世界で活用できるような知識がなかった。漫画を読むことを趣味読書ですと言うような人間が知っていることなんて、死亡フラグと厨二病な台詞と技名ぐらいだ。
だから職業婦人になる気もなければ、一代財産を築く気概もない。
太ろうと食べて、寝て、食べて、寝て、そんな毎日を過ごしていたある日――彼が病のすえに命を落としたという報が入った。
それからも私は食べて食べて食べて、食べ続けた。
それでも太れない。どうやっても太れない。もはや自棄になっていた私は、結婚相手を見つけるために手あたり次第に茶会に参加し、十七になってからは夜会にも積極的に出た。
そして、まるで褒め言葉のような悪口を浴びる今にいたっている。
どすんどすんとまるで地面が揺れるような音にご令嬢たちの口が閉じた。
この音がなにかなんて考えるまでもない。先代王の妹君の娘であり、現公爵家のご令嬢が夜会に到着した音だ。
「ごきげんよう」
扉が開かれ、圧倒されるような質量がフロアに現れる。
自ら歩くことを放棄した肉。明かりに照らされた白銀の髪はきらめくようで、白い肌は滑らかで傷一つない。そして公爵令嬢たる彼女が寝そべる輿を支える奴隷。後ろに控える黒衣を着た魔術師。
貴族の美とされるすべてが彼女に集結されている。
この世界には奴隷が存在する。奴隷を何人召し抱えられるかも貴族のステータスの一つだ。なにせ、歩くことすらままならなくなると運ぶ人が必要になる。
貴族に仕えることができるというのは、奴隷としても悪くない話らしい。輿を担ぐためには筋肉がいる。筋肉を育てるためには食用の肉がいる。そしてみすぼらしい恰好のものに運ばれたくないという貴族の考えから、上等な服までも与えられる。
それに輿で運ばれるということは、奴隷が反乱を起こしたら地面に叩きつけられる危険性があるため、自分の奴隷は大切にというのが貴族の間でのモットーだ。
なので輿を担ぐ奴隷がいるということは、それだけ奴隷からも慕われているという証にもなる。
つまり、彼女は裕福で慈愛に満ちているということだ。
「まあ、あなた――またいらしてるの?」
「フェルミア様、先日ぶりでございます」
スカートの裾を持ち淑女の礼をとる。ステルメル公爵家のフェルミア様は私と同じで茶会夜会の皆勤賞の持ち主だ。私が誘われていないものにも参加していると考えたら、彼女の多忙さには頭が上がらない。
「体が弱いのでしょう? ご静養なさってはいかがかしら」
「ご心配いただきありがとうございます」
目のほとんどが肉に埋もれてわからないが、フェルミア様は多分笑っているのだと思う。
口振りは刺々しいが、彼女は優しい人だ。
ある日の茶会のことだった。夏真っ盛りで、暑くて暑くて仕方ないのに庭園で熱い飲み物を飲む羽目になり、私は熱中症でぶっ倒れた。
そこに救いの手を差し伸べてくれたのが、フェルミア様だ。彼女はいつも専属の魔術師を連れ歩いている。もちろんこれも貴族のステータスの一つだ。
この世界には魔法が存在する。大なり小なりはあれど皆が使えるもので、魔法の手腕から魔術師と呼ばれる職に就くものもいる。
自らが動かないことが貴族のステータスのため、魔法すらも人にやらせるのが貴族だ。魔術師を何人雇えるかも、裕福さの証明になる。
ただこれに関しては、本当に裕福じゃないとできないことなので精々が一家に一人いるかいないか程度なのだけど。
だがそこはさすが公爵家とでも言うべきか。フェルミア様には専属の魔術師がいる。何人召し抱えているのかは知らないが、三人連れ歩いているのを見たことがある。
彼らは常時フェルミア様の周囲を冷やしたり温めたりと、環境に左右されない快適な空間を維持している。
そして、その快適な空間を放棄してまでフェルミア様は私を冷やすようにと連れていた魔術師に命じた。
その日フェルミア様が連れていた魔術師は一人だけで。目を開けた私が見たのは、汗だくになりながらも「いいから寝てなさい」と私に命令するフェルミア様だった。
それ以来私はフェルミア様に頭が上がらないし、フェルミア様は――見た目のせいもあって――私を病弱だと勘違いしている。
だからこのやり取りはもはや恒例行事だ。
「あそこまでお願いするわ」
恒例行事を済ませたフェルミア様は不自然に空いている一角を扇で指して、輿を担ぐ奴隷に命令する。
不自然に空いているスペースの外では肉がぎゅうぎゅうのすし詰め状態だ。この輿一行を鎮座させるために皆が身を寄せ合っている。
さすがにすし詰め状態はいやなのか、少しずつ横にずれていき、私のところまで連鎖は続いた。
押しつぶされる! と私が命の危機に見舞われた丁度そのとき、救いの手が差し伸べられた。
「大丈夫?」
手を引いて肉の塊から私を助け出した男性は、首をかしげている。ちょっと首の肉が多いのでよくわからないが、多分かしげている。
「あ、はい。ありがとうございます」
金髪の巻き毛に、歩ける程度の肉と瞼の下に見える青い瞳。さて、彼は一体誰だろうか。
「そんな細い体では危ないよ」
「見た目ほど病弱ではありませんので……いえ、今のはたしかに危なかったですが」
細い体=病弱の方程式が私の中で確立しつつあったため、思わずいつもどおりの口上を述べかけた。
「えぇ、と、初めてお会いしますよね。私はレフリア・ルティアスと申します」
「これは失礼。私はユーフリグ・マルミスだよ」
マルミス家といえば、たしか侯爵家だったはず。ちなみに私の家は名ばかりの辺境伯だ。
二百年以上前に辺境伯の称号を賜ったのはいいものの、それ以来これといった戦争もなく、ねじの外れた王が近くの国の玉座についたときのためにと、ある程度の軍備を整えているだけの家。
国境沿いに領地があるのに、行商すらも来ない。国境沿いには高い山と、断崖絶壁と言ってもいいほどの崖がある。これを乗り越えてまでルティアス領を目指す気概のある行商はいない。
戦争があったときには魔法で崖と山を越えてきたとか。押し寄せる軍勢を見事追い返した当時のルティアス伯爵家当主が、その武勇を買われて辺境伯の称号を賜ったのだとかなんとか。
だが、今となっては当時ほど広大な土地もなく、戦争すらもないため、本当に名ばかりの辺境伯である。
これらについては、他国なら痩せている女性が好ましい国もあるのではと調べたときにわかったことだ。
戦争のない期間が長かったせいで、どこの国も似たり寄ったりな価値観だったのだけど。
そして、政略結婚するほどのうまみが我が家にはないということも判明した。
「マルミス様は、これまで夜会に参加されたことは?」
「恥ずかしながら今日が初めてだよ。食事会などには何度か参加したけど、夜会にまで出る暇がとれなくてね」
丸々しているのに珍しい。
「初めてにルーディウス家の夜会を選ばれたのは正解ですよ。ダンスが見事で、皆さまが食べるのも忘れて見惚れるほどですから」
ルーディウス家は先代王の妹君――フェルミア様の母君の妹――が嫁いだ家だ。専用の振付師と楽団を雇っているほどダンスに力を入れていることで有名で、ダイナミックでアクロバティックなダンスの数々は、また見たいと夜会に参加する人が続出するほどだ。
貴族同士のダンス? 動かないことがステータスの貴族が踊るはずがない。ダンスは見て楽しむものだ。
夜会だろうと茶会だろうと食事会だろうと、絶対に食事の用意がされている。食事自体は別室に置いてあり、ルーディウス家の使用人か自分の連れてきた使用人に取ってきてもらう。お肉が食べたいと言うと大振りのステーキが運ばれてくるから、大きさの指定がいる点に注意。
「噂をすれば――そろそろダンスが始まりますよ」
ルーディウス家の使用人が机と椅子を運び込みはじめている。食事や飲み物を嗜みながらダンス鑑賞をするのが常なので、交流タイムが終わったらそれぞれ仲のよい人と座ることになっている。
私は万年ぼっちだ。たまにフェルミア様が誘ってくれるけど。
「よければ、一緒にどうかな」
フェルミア様がどこにいるかは一目でわかる。今日はほかのご令嬢と食事するようで、すでに机のそばにいた。机と合うように丁度よい大きさの台座が床に置かれ、輿がその上に降ろされている。ちなみにこの台座運びも専用の奴隷がいる。
「え、あ、申し訳ございません。もう一度お聞きしても」
いつ見てもすごいなぁとフェルミア様を見ていたら、肝心な台詞を聞き逃した気がする。誘われたように思えたのは、気のせいだろうか。
男性に誘われる経験など長らくなかった私は盛大にうろたえていた。
「ほら、私は夜会に参加するのが初めてだから君に色々教えてもらいたいなと思ってね。親しい友人も――見つけ出せそうにないし」
どうかな? と多分首をかしげたマルミス様に、私は全力で頷き返した。
隣に男性が座っているというだけでそわそわしてくる。喉を通らなそうなので、食事は最小限に柑橘系のジュースを飲む。こういうときはお酒を飲むのが普通なのだが、酒に飲まれて粗相をしては目も当てられなくなる。
茶会に参加してはいろいろな人の恋愛事情を収集し、夜会に参加してはフリーの男性を探す毎日。痩せている私に見向きするような相手なんて見つからず、ご令嬢たちの嫌味に耐え――ようやく、ようやく私にも運が巡ってきた。
「マルミス様は普段は何をされているのですか?」
ステージの上で宙返りしている曲芸師――もとい踊り子からマルミス様へと視線を移す。感嘆のため息をこぼしていた彼は、私の突然の質問にぱちくりとまばたきをした。
「何を、といっても――特別なことは何も。父上に教えを乞い、将来のためにいろいろと学んでいるだけだよ」
「勉学家なのですね」
男性の心を手に入れるためには、まず褒めることだ。そしてあなたに興味がありますよということを、これでもかとアピールするのも大切だ。
笑っているだけで男性が捕まえられるほど、世の中は甘くない。
「きっと民に慕われる領主になれると思いますよ」
だが太ることだけに尽力し続けた、万年ぼっちの私の話術はお粗末なものだ。ここでしっかりと捕まえようとは思わないで、次に繋がるような会話に専念しよう。降って沸いた幸運を取りこぼすわけにはいかない。
「それならいいけど、まだまだ学ばないといけないこと、やらないといけないことも多いんだ」
そう言って、マルミス様は弱弱しく笑った。
夜会も終わりの時を迎え、別れの挨拶を惜しんでいた私にマルミス様は今度一緒に遠乗りでも行きませんかと誘ってくれた。天にも昇る気持ちで頷き、有頂天のまま帰路に着く。
夢ならば覚めないでと願いながら寝台に入り、眠れない夜を過ごした。
寝れば覚める夢ではなく、夜会での出来事は現実だったことを実感したのは、それから一週間ほど経ってからだった。
マルミス様から誘いの手紙を受け取った私は、祝福のベルの音を聞いた。返事の便りを渡すためにお母様が使用人を呼んだベルの音だったけど。
そして数日が経ち、マルミス様が屋敷にやってきた。私は今、交流のために王都にある屋敷に滞在している。マルミス家が所有する領地は王都からそう離れていないため、あまり王都の屋敷で過ごすことはないらしい。だからたまには王都にも赴きたいと、そうマルミス様からの便りに書いてあった。
その一文がなかったら、こちらから赴くかどうか悩んでいたと思う。辺境伯とはいえ名ばかりだ。侯爵家の方に足を運んでもらうだなんてとんでもないと、そう考えたかもしれない。
マルミス様の心遣いが骨身にしみわたる。
お母様がマルミス様を出迎える。お父様は領地に残っているので、客人をねぎらうのは屋敷の主であるお母様の役目だ。私はその横で、来ていただけて嬉しいですとはにかんだ笑みを浮かべるだけ。
それだけなのに、私の心中は大嵐だった。可愛く笑えているだろうか。鏡を見て何度も練習したけど、緊張しすぎて顔がこわばっているかもしれない。自分の頬に触れて確認したい衝動に駆られるのを、必死に自制する。
「娘をよろしくお願いします」
遠乗りの準備はマルミス様が整えてくれているそうで、お母様に見送られながら屋敷を後にする。
遠乗りと言っても、馬に乗ったりするわけではない。この世界での遠乗りは魔術師の操る乗り物に乗って空の散歩をすることを差す。つまり、裕福な人の趣味だ。
貴族が馬に乗ることはない。馬に乗って駆けるのは騎士などの体を動かすことが生業の人たちの役割と決まっているからだ。
今回マルミス様は魔術師と馬車の客車部分を用意してくれた。魔術師は御者の座る場所に乗り、客車に入るのは私とマルミス様だけ。二人きりだなんて、乗りこむ前から緊張してきた。
手を引かれ、豪奢な作りの客車に乗る。中には赤い絨毯とクッションが敷かれ、これまた豪勢な内装だった。
「遠乗りは初めてなのですけど、注意しておいた方がいいことはありますか?」
「そうだね。窓からあまり体を出さないように、ぐらいかな」
窓にあたる部分には何もはめ込まれていない。これは外がよく見えるようにと遠乗り用に作られているからだそうだ。
窓から外を眺めると、少しずつ地面が遠くなっている。浮遊感は感じなかった。何これすごいとはしゃぐ私をマルミス様は温かい目で見守ってくれていた。
それからも何度もマルミス様に誘われ、遠乗りに出かけたり、一緒に食事にも行った。マルミス様の食べる量は見た目ほど多くはなかった。調子でも悪いのだろうかと心配した私に、マルミス様は緊張しているんだと照れたように笑っていた。
本当に、そう、本当に幸せな毎日だった。
「言わないといけないことがあるんだ」
ある日の遠乗りで、マルミス様は深刻そうな面持ちでそう告げた。
マルミス様がいつものように優しく笑ってくれていたら、私も笑顔で答えいていただろう。だけど、よい話とは思えない表情をマルミス様はしていた。
マルミス様の家はとても裕福だ。痩せっぽっちの女などを相手にしなくても、いくらでもよいお相手が見つかる。いや、すでに見つかっているのかもしれない。これはお別れの話なのかもしれない。
「あ、あれはなんでしょう」
だから聞きたくなくて、私は窓の外に見えたものを必死に指さした。気が動転していたからか、私は身を乗り出しすぎていた。
「危ない!」
ぐらりと傾く体をマルミス様が引き寄せてくれたので、窓から落ちることはなかった。だけど視界に広がった大地が私の鼓動をかき鳴らす。頭にまで心臓ができたように全身が脈打つ。もう大丈夫だとわかっているのに、鼓動の音が止む気配はない。
多分、大地のせいだけではない。マルミス様の腕の中に、私がすっぽりと収まっているせいもあるかもしれない。初めて触れるマルミス様の体は固かった。
「あれ……?」
マルミス様はふくよかな方だ。その体は柔らかいはずなのに、柔らかさを感じない。見上げた先で、マルミス様は憂いを帯びた笑みを浮かべていた。
客車が地面に降ろされ、私は逃げるようにして屋敷に帰った。また今度、という挨拶はなかった。決定的な一言を聞きたくなくて逃げたのに、結局現実を突きつけられた。
久しぶりに訪れた墓は綺麗に整えられていた。
「また振られちゃった」
花を供えながら、今は亡き人に愚痴を漏らす。
「もう貴族で相手を探すのはやめたほうがいいのかな。商家にでも嫁入りして、領地に行商を呼び込むほうがお父様や弟のためになるのかも」
「それは困るかな」
どうやって行商を呼び込もうかと悩んでいた私は、後ろからかけられた声に顔を跳ね上げる。振り返ると、柔らかく微笑むマルミス様が花を片手に立っていた。
「どうしてここに?」
「彼と私は同じ月に生まれた従弟同士でね」
そう言って、マルミス様は墓に花を供える。白く咲き誇る花は死者への弔いとしてよく使われるものだ。私が供えたのは彼が好きだった黄色い小さな花弁をもつ花だった。
「だからか、小さな頃はよく似ていたんだよ。だけど、十を超える頃には似なくなった。片方は健康で、もう片方は病弱だったせいだろうね」
マルミス様は悲しみを帯びた瞳で墓を見下ろしている。
「本当に、健康だったんだよ。だけど運命の女神は意地悪だったようでね。結局亡くなったのは彼の方だった」
「それは、どういう……?」
「事故だったそうだよ。一人息子しかいなかった侯爵はよく似た従弟を養子にと望んだ。病弱な子どもだったのに」
マルミス様が何を言っているのかわからない。ああ、違う。わかってはいる。わかってはいるのに、頭が追い付かない。
「新しい命を宿していていた母は、我が子を侯爵に渡したんだ。侯爵家ならばよりよい環境で病を治せるからと、そう言って」
「マルミス、様? あなたは――」
「たしかに病は治った。だけど体質だったんだろうね。痩せたまま、侯爵の望むようには成長できなかった。だから、彼は新しい魔術師を雇ったんだよ。幻影魔術を使える魔術師を」
唇が震え、言葉がうまく紡げない。それでも、聞かないといけない。
「――あなたは、誰ですか」
「その話を、この間したかったんだ」
そう言って、マルミス様の姿が変わる。風が吹けば倒れそうな体で憂いを帯びた笑みを浮かべる――亡くなったはずの、彼だった。
「よくある話だそうだよ。高位魔術師を雇える家は、太れない子供を魔術でごまかすんだ」
何を言えばいいのかわからない。死んだと思っていた相手が目の前にいて、成長した姿で話している。
「騙そうと思っていたわけではないんだ。君が夜会によく来てると聞いて、元気にしてるだろうかと顔を見たかっただけで、だけど、結局騙すような形になってしまった」
「ええ、そう、そうですね。私、弄ばれたということでしょうか」
昔振られた相手にもう一度振られるだなんて、たちの悪い冗談だ。
どうして彼がこんな話をしているのか、回らない頭では処理できない。
「それは違う! 君を弄んだりなんてしていない」
「でも、だって、そうでしょう。私とは一緒にいられないと、そうおっしゃっていたじゃないですか」
太れない妻はいらないとそう言われた。だから太ろうと頑張ってきた。民のために、将来のために、お母様のために、まだ見ぬ夫のために。食べて食べて食べて、それでも太れなかった。
「違う、違うんだ。あの時の私は幼く、甘かった。望まれるものになろうと必死だったんだ。君の気持ちを踏みにじってしまったことは、謝っても謝りきれないことはわかっている。それでも、君が許してくれるなら、私は君と一緒にいたい」
「それは、どういう、ことでしょう」
「レフリア・ルティアス、私と結婚してほしい」
目の前が真っ白になる。祝福のベルの音は聞こえない。どうして、なんで、そんな言葉だけが頭の中を巡っている。だって、おかしいじゃないか。私は太れない。太れない女性は貰い手がいない。だって、そう聞かされ続けていた。
「私、見てのとおり痩せていますよ」
「わかっている」
「太れないから、民が不安がります」
「幻影魔術でいくらでもごまかせる」
「それは民を騙すということでしょうか」
ぐっと彼が言葉に詰まった。民のためにと語っていた彼が、民を騙そうとしている。
「――侯爵家の跡取りは私しかいないから、民を安心させるためにも、嘘が必要なんだ」
「では、私にもその片棒を担げと、そうおっしゃるのですか」
「君が負担に思うのなら、断ってくれても構わない。君と一緒にいたいと思うのは、私のわがままだから」
だけどどうか、手を取ってほしい。そう言って差し伸べられた手を前にして私は涙をこぼした。望んでいたものが目の前にある。あの日の彼とは少し変わってしまったけど、それでもたしかに目の前にいる。
私の答えなんて、結局最初から決まっていた。
「――私も、あなたと共にいたいです」
「幻影魔術がよくあるお話だとおっしゃっていましたが、それは、公爵家もそうなのでしょうか」
「ステルメル家のものは自前だよ」
よかった。フェルミア様は生粋のご令嬢だった。
という文章を作中に入れようかと悩んだのですが、空気が壊れそうなので断念しました。