第61話 明かされる師の能力
この話は日曜日に投稿されたものです
土曜日分をまだお読みでない方はお手数ですが一話前を先にお読みください
そして後書きにいつもとは少し異なる次の投稿予定を書いておきました
忘れずにチェックお願いいたします
低体温症を知っているだろうか?
Hypothermiaとも呼ばれるそれは、人間のような恒温動物の深部体温(中核体温とも呼ばれる)が、正常な生体活動の維持に必要な水準を下回った際に生じる様々な症状の総称である。人では、直腸温が35℃以下に低下した場合に低体温症と診断される。また、低体温症による死を凍死と呼ばれる。
恒温動物の体温は、恒常性により通常は外気温にかかわらず一定範囲内で保たれている。しかし自律的な体温調節の限界を超えて寒冷環境に曝され続けたり、何らかの原因で体温保持能力が低下したりすると、恒常体温の下限を下回るレベルまで体温が低下する。その結果、身体機能にさまざまな支障を生じる。この状態こそ低体温症である。
低体温症の恐ろしいところは、必ずしも冬季や登山など極端な寒冷下でのみ起こるとは限らない点である。今回説明する上で必須ではないので軽くだけ述べると、濡れた衣服による気化熱や屋外での泥酔状態といった条件次第では、夏場や日常的な市街地でも発生しうるということだ。
軽度な低体温症であれば自律神経の働きにより自力で回復することができる。しかし、重度の場合や自律神経の働きが損なわれている場合は、死に至る事もあるほど軽視出来ない症状である。これらは生きている限り常に体内で発生している生化学的な各種反応が、温度変化により、通常通りに起こらない事に起因する。
そんな低体温症には大まかに二種類に分けられる。
一つ目は偶発性低体温症(accidental hypothermia)、またの名を一次性低体温症。 他の基礎疾患によらず、純粋に寒冷曝露を原因として中心体温(直腸温)が35℃以下に低下した病態。単に低体温症とのみ言う場合、通常はこちらを指す。
時には35〜33℃までは正常とも言われることもあるが、33℃を切り下がれば下がるほど心拍数、身体の震え、意識の混濁などの症状の重度が上がっていく。20℃以下になれば身体の震えが止まり筋硬直し、意識消失や仮死状態すら通り過ぎ、死に至る。
もう一つは内科疾患、薬物作用、栄養失調などの副次的結果として発生した低体温症は二次性低体温症と呼ばれる。これらの素因を有する者が、単独では偶発性低体温症を起こさないレベルの軽微な寒冷曝露で複合原因的に発症した場合も含まれる。
上記で説明した二種類の低体温症どちらにしても症状の経過は同じである。最初の症状は体が激しく震え、歯がカチカチ鳴るなどだ。冬場に外で待ち合わせをするなどした際に、経験したことがある人もいるかもしれない。
次に体温がさらに下がると震えは止まり、動きが緩慢でぎこちなくなる。この経過が先述した症状の重度が上がっていることを意味する。あらゆる反応に時間がかかり、思考がぼんやりして正常な判断ができなくなっていく。
これらの症状は極めてゆっくり現れるので、本人も周囲の人も何が起こっているのかなかなか気がつかないことが多い。転んだり、ふらふらとさまよったり、休もうとしてしゃがんだり、横になったりするでしょう。震えが止まったら、動作がますます鈍くなり、昏睡状態に陥る。心拍や呼吸の速度は遅くなり弱くなり、最終的には心臓が停止する。
身近なようで身近に感じない。起きそうで起きないが、起こるべくして起きる。だから見逃される。身近に潜む病威、それが低体温症。
何故このような説明がなされたのか。それはこの現象、低体温症こそが姉川未桜の力の一片であり、副次的なものであるからだ。
未桜がこの力を使う上で肝としているのは、低体温症で直接命を奪うことではない(原理上殺傷力はあり)。低体温症が発症した際に生じる身体機能の支障、反応・思考・運動速度の低下である。
未桜の周囲に、空気に、大気をも干渉する程に大規模な力。気温変化の中でも“低”にのみ特化した能力。それこそが未桜の能力、“極寒世界”。
その範囲は未桜が能力を発動した地点を中心に同心円状に広がり固定される。効果範囲は未桜の過負荷粒子の消費量に比例し、最大規模は東京ドーム一個分。この範囲は能力発動中は固定されるので変更できず、変更の際は一度能力を解除する必要がある。
その上、再度範囲を設定する際には、先程とは別に過負荷粒子を消費するため非効率である。この点、効率至上主義の未桜が好まないのは言うまでもない。
そして範囲内であれば気温の調節も自由自在。こちらに関しては範囲設定とは違い、何度でも温度を変化できる。但し、能力発動時の気温よりも上げることは出来ないし、一度下げた後に温度を戻すこともまた出来ない。それは先程も述べたとおり、この能力は“低”に特化しているが故である。
効果範囲も気温変化量も完全に未桜の過負荷粒子に依存しているため、限界はある。範囲は東京ドーム一個分だったが、もちろん気温変化量にも限度はある。能力範囲内は誰もがこの能力の影響下に入ることになる。指定された気温までの低下速度も操作可能だ。
温度変化については範囲を再設定する場合、少しばかりややこしいことが起きる。それは再設定する能力干渉範囲が前回の範囲とどれだけ重複しているかが問題になってくるからだ。
能力で気温を操作する場合は、過負荷粒子によって半強制的に下げるため、然程問題は見られない。もちろん物理法則は無視できないので、気温を急激に下げることでの弊害は出てくるが、今回は話の筋からズレるので割愛する。
話を戻すが、範囲の再設定で生じる問題は範囲を解除したからといって、気温が能力発動前のものに即時に戻るわけではないことだ。例えるならクーラーを未桜の能力、クーラーでガンガンに冷えた部屋を未桜の能力範囲とする。クーラーをいきなり切ってもクーラーをつける前の室内温度に直ぐに戻ることはないだろう。ほぼこの原理と同じことである。
つまり再設定される範囲とその前に設定されていた範囲が重複していればいるほど、かつ再設定までの能力発動のラグが短ければ短いほど、再度気温を下げるために要する過負荷粒子消費量を抑えられるわけだ。長ったらしく説明したが、未桜の性格上このような非効率的な能力の使用はほぼありえないと考えていいだろう(なら説明しなくてもいいわけだが、念のためである)。
今の説明だけでは未桜の“極寒世界”は並外れた能力のように聞こえる。しかし欠点はもちろん存在する。それは未桜も自身の能力の干渉を受ける上に、発動条件が自身を中心に同心円状に範囲を固定しなければならない点だ。
つまり未桜が耐えられる外気温でなければ、使ったところで利点にならない。未桜は発動限度温度をマイナス30℃に設定している。これは未桜が気温変化に割ける過負荷粒子の量と、自身が活動できる限界温度の兼ね合いの結果を示している。
因みにマイナス30℃の空気を吸うことなど普段の生活では行わない。このような極寒の環境で生きる民族ですら、気をつけることは深呼吸である。一気にこれほど低い温度の冷気を吸い込むと、肺が凍結してしまい、死に至ることもある。運動など以ての外だ。
しかし未桜はこの過酷な環境下で自律的な体温調節の限界を大幅に下げた上で、有酸素運動を可能にした。こればかりは効率とはいかず、慣れという最も単純で、最も辛い修行を経て身につけた。しかし例え訓修業を経たとて、万全というわけではない。その日の身体のコンディションもかなりの比重で影響する。
そういった理由もあり、未桜は限界温度まで下げることは最後の手段として用意したに過ぎず、その際に自分が動ければ範囲内にいた仲間を助けることができる、といった考えからきたものだ。
「貴様ら、死ぬ覚悟は出来たか?ただの八つ当たりだが……悪く思うなよ?」
温度差によって体感温度がぐっと下がり、凍えるほどの冷気包まれた世界の中で。氷柱のように鋭く、それでいて美しい口調が木霊する。
この世界に囚われた者達は即座に悟る。この声の主がこの現象の原因をもたらし、この限られた世界の支配者であると。
「ひぃぃぃ!!」
誰かが声を上げ、白目を向いた。まるでお化けや化け物でも見たかのような声で。彼が見たのものはお化けや化け物のようなこの世のものではない存在ではなかった。いや、この世のものではない点では同じジャンルとも言えようか。
この世のものではない、言葉で表現するのもおこがましいほどに美しい女性だった。何らかの原因で黒髪の一部が雪でも被ったかなように白く、彼女の周囲からは冷気が発生している。ここまで言えば雪女という表現が一番近いのかもしれない。
ならば彼が恐怖したのも頷ける。環境といい、容姿といい、雪女と連想してもおかしくはない状況。それに彼を含めたこの空間に囚われた者達は刻々と思考というものを奪われていく。正常な判断をしろという方が無茶なのかもしれない。
「人を化物扱いか……これだから力は使いたくないんだ」
未桜は自身に宿ったこの能力を好ましく思っていない。それは能力発動時に起きる表面上の、つまりは外見の変化である。
未桜が“極寒世界”を使用する時、自動的に自身の体を細かい雪で包み込む。綺麗な黒髪が白くなったのはそのためだ。
なら、何故そのような現象が起きたのか。それは自身が極寒となった世界で活動するため、生命維持の本能がそうしたのだ。
分かりやすい例で言うなら、原理は“かまくら”に近い。“かまくら”は積雪量の多い地域で見られる伝統的なもの。
“かまくら”の中は暖かいとその身を持って体験してきた者や知識として知っている者は多いだろう。しかし、何故暖かいのかという理由のほうへと目を向けた者は少ないように思える。
理由は簡単。かまくらといえば雪で作られるのが基本である。そしてかまくらを形成する雪には微細な空気の粒が含まれている。その空気が外気の温度を遮断する断熱作用を持っているのである。
つまり、未桜は自身に雪を被ることで擬似かまくらを作成し、外気の冷気をある程度遮断しているのだ。しかし完全には遮断出来るわけではないことは言うまでもない。
そして、未桜が被る雪が人肌で溶けないのは過負荷粒子による現象ではなく、これもまた“かまくら”と同じ原理なのだが長くなるので割愛する。因みに発生した雪は単に空気が一気に冷却された結果であることは明記しておく。
「慌てるな!所詮能力者一人だ!手持ちの武器で奴を蜂の巣にしろ!」
群れた兵隊の中にはやはり司令官がいたらしい。この極寒の中、大声て部下たちに激を飛ばす。集められた数はざっと数えただけでも百人はくだらない。そして彼らの手には各種それぞれ異なった銃器が握られていた。
「一斉に撃てぇぇえ」
司令官の男が命令を下す。男たちは寒さで震えた指を懸命に動かし、引き金へと誘う。そして、皆がほぼ同時に引き金を引いた。
カチッ
しかし、鳴り響くのは発泡音でも連射音でもない。
カチッカチッカチッカチッ
虚しいかな。この場にある銃器全てが反旗を翻したかのように、言うことを聞かない。銃口からは硝煙も弾丸も出てこない。出るのは押し返す力のない引き金を引いた時に鳴る寂しい音のみ。
「な、な……何故……だ……」
司令官の声が震えていた。それは寒さ故かそれとも恐怖によるものか、もしかするとその両方共言えるか。
圧倒的な数の暴力で一人の女性を抑えようとした結果がこれだ。次々と男たちの顔色が青白く変わる。それはまるで共鳴するかのように、集団内で伝播した。
簡単な話だ。空気中に含まれる微量な水分がこの異常なまでの気温の低下で凝固し、銃口や銃身、銃器自体を凍らせたに過ぎない。
ここで銃弾が撃ち出される原理を軽く述べておこう。
まず、銃の撃針が弾薬の雷管を叩くことで、雷管内部の火薬が燃焼する。この時、内蔵された火薬は圧力が加わると燃焼する起爆薬でなければならない。
次に雷管内の火薬が燃焼すると、薬莢内の電火孔と呼ばれる小さな穴を火花や燃焼ガスが通過し、装薬に引火して激しく燃焼する。
最後に装薬が燃焼を始めると、発生した燃焼ガスにより内部圧力(腔圧とも言う)が高まり、弾頭が押し出されて銃身の中を進み発射される。
これが引き金を引いて弾丸が発射されるまでの僅かな間に行われている工程となる。銃器は水中でも内部の火薬や装薬が無事であるならば、内部に備え付けられているエアースペースによって確保された酸素を用いて引火し弾丸を撃ち出せる。もちろん空気よりも抵抗が大きい水中では速度が落ちるのは言うまでもないが。
しかし今回は銃器を凍らされてしまった。凍結してしまえば空気は氷になる際に取り込まれるため、引火に必要な酸素が失われる。そうなってしまえば火薬が燃焼することもなく、弾丸が発射されることもない。
ネタが解れば大したことではない。問題なのはこれを大したことではないように行ってしまう未桜が能力にあるのだ。
「どけ」
未桜が発したのはそれだけ。たったそれだけで男たちは崩れ落ち、未桜が通るための道を開けた。否、開けさせられた。開け渡さざるを得なかった。
その言葉に強制力が付与されていたわけではない。未桜の能力は正真正銘気温を下げるだけであって、そんな力は備わっていない。言葉に強制力を付与したのではなく、擬似的に言葉に強制力が乗っかったと解釈すればいい。
生存本能や野性本能といったところか。敵うはずもない相手を目の前にした時、人は動物はどうするのか。逃げれるものなら逃げればいい。逃げ切れれば勝てなくとも負けはしない。それもまた戦略である。
しかし、いつでも強者との戦いから逃げ出せるとは限らない。その日の体調、相手との戦力差、置かれた状況。様々な要因が絡んでくる。
今回は状況が余りにも悪すぎた。一方的なワンサイドゲームと成り下がった。
種明かしをしてしまえばどうということではない。単にこの極寒の環境と未桜に対する恐怖で立っていられなくなったに過ぎない。中には失禁してしまっている者も少なくない。因みに失禁によって下半身が冷え、低体温症の症状が悪化することは前述通りである。
「はぁ……手間の掛かる……」
その場で崩れ落ちる男達を一瞥し、未桜は歩みを進める。既にこの限られた範囲では異常気象に見舞われ、初夏にもなろうとしているはずなのに、現在の気温は極北地域に匹敵する。
それでも未桜の足取りは軽い。体の震えや思考力の低下などは見られない。一歩一歩確かな足取りで目的地へと目指す。
どれだけ組員を抑えても意味がない。大元である組織の頭を消さなければ、この抗争に終止符は打てない。後始末という言葉の真意はまさにそれだ。
未桜が目指すは縫戸組組員、縫戸平也ただ一人。初段階で標的にされていた風霧銀次と敵対していた相手に対象がズレた構図だ。これを皮肉と言わずなんというべきか。
この空間に囚われた者達は次々と意識の朦朧や混濁により地面に伏す。骨折や殺傷痕からくる肉体的な苦しみがない分、うめき声といった不快な音は聞こえない。強いて挙げるなら、寒さに震え体を揺すり、衣服が擦れる音ぐらいか。
そんな中で一箇所だけ異なる音が聞こえる。不規則な足音。まるで壁に寄りかかりながら、震える足を必死に動かし、この場から逃げようとしているかのような、そんな足音。
未桜はそれに気付くも急がない。それまで通りにゆっくりと歩を進め、着実にその音源へと近づく。そして直ぐに追いついき、追い詰めた。
「貴様が縫戸平也だな?」
「ひぃっ!」
背後から未桜に声をかけられ、驚く縫戸。その顔は銀次を追い詰めていた時の憎たらしさはまるでなかった。狩るものから狩られるものへとジョブチェンジした哀れな男の末路。
「恨みも妬みも、面識すらないが……どうかこの世から消えてくれ」
「くっ……き、貴様が……これをやった、のか……」
「その小さな頭でよく考えればいい……まあ寒さでまともな思考はできんだろうがな」
「な、何者だ……誰…の差金だ?」
「お前を消す者だ。それ以上でもそれ以下でもない。無駄話も飽きた……」
未桜は拳を握り、過負荷粒子を纏う。
「やめ……やめてくれ……た、頼む……金なら払う……俺だけでも……俺だけでいいから……見逃してくれ……」
「死ね」
「………あがぁぁぁぁぁぁ……能力者めぇぇぇぇぇ……はぁっ!?はっ……かっ……かぁっ……がああぁっ……」
追い縋るようにもがく縫戸の戯れ言などに聞く耳を持たない未桜。そして死の宣告を通達する。もう無理だと悟った縫戸は、未桜に縋るのを止め、出せるだけの大声で未桜を罵倒し、息絶えた。
大声を出す、その行為が縫戸の死を決定づけた。未桜の能力には直接的な攻撃力はない。未桜の使用用途は気温を下げ、身体的異常を促すこと。それにより副次的に低体温症が発生するに過ぎない。
今回の場合は低体温症よりも稀なケース。上記で挙げた例の一つ。極寒地域では深呼吸をするべからず。つまり縫戸の死因は肺の凍結による窒息死。息ができない苦しみに飲まれ、縫戸は天へと召された。
「胸くそ悪い……これだから能力は使いたくないんだ……」
未桜は転がる縫戸に見向きもせず、能力を解除し、その場を後にした。
これにより風霧組と縫戸組、銀の弾丸の三つ巴の争いは終焉を迎えた。
読んでいただきありがとうございます
誤字・脱字などがありましたら教えていただけたら幸いです
第62話は土曜日18時投稿予定ですが
出来れば年内に投稿したいと思います
もし投稿出来るようならば30日か31日の18時になると思われます
頑張ります
年末で忙しいかと思いますが確認よろしくお願いします
一応活動報告で事前に報告します




