解けないパズルと新婚生活
「あぁ、やっと終わった……」
疲労困憊の体に鞭を打ち、ぼろ布を体に巻き付けた死にかけの旅人が砂漠を横断するように私は歩いた。
辺りは暗くなりつつあって、1日の終わりを感じさせる寂しさと哀愁が漂っている。
結局、書類が見つかったのは2時間後のことだった。
見つかった時に2人の先生は喜びを爆発させていた。
あれを見せられては少なからず貢献できて良かったと思う。
その代わりに物置部屋のほこりで制服の裾が白くなってしまっていたが。
校内は静寂に包まれていて、それは吹奏楽部の活動が終了していることを意味していた。
それでも私が音楽室に向かっているのは、少しでもフルートを吹くためである。
既に最終下校の時間が近付いているが、先生から許可を得て30分だけ時間を貰った。
住宅地では流石にフルートの演奏をすることは出来ないので、練習する機会があれば逃せない。
ようやく音楽室の扉が見えた時、私はホッとした。
内心、また邪魔が入るのではないかと思っていたからだ。
「良かった……取り敢えず基礎練習だけでもしなきゃ」
ほこりを払ったせいで汚れた手を洗うために、トイレに入る。
電気が点いているにもかかわらず、中はなんだか暗く感じた。
それは校内に誰もいないことを頭の中で勝手に意識してしまっているからだろうか。
お化けの類いは苦手ではないが、だからといって好んでお化け屋敷に入ったり、ホラー映画を見たりはしない。
こういうのは変に意識しないことが大切である。
「きゃっ、つめたぁ!!」
手を洗おうと蛇口を捻ると、私の体へ大量の水が襲いかかってきた。
蛇口のネジが緩んでいたのだろう、頭から被らなかっただけマシかもしれない。
しかし、制服がびしょ濡れになってしまった。
目の前にある鏡に自分の姿を写してみると、カッターシャツが水に濡れて下着がうっすらと透けている。
秋の冷え込みから背筋がゾクッとした。
「さ、さむ……」
先程まで暑いと感じてきた気候が、水のせいで急に寒くなり始めた。
ハンカチで顔や腕をぬぐうが、濡れている服は乾かしようがない。
「最悪……今日は厄日だな」
幸い、今日は体育があったので、汗で濡れた体操服を再び着ることからくる嫌悪感を我慢すれば、透けたカッターシャツで帰ることは避けられる。
しかし、鞄から出した体操服は、今日の体育をいつもより張り切っていたせいで普段より湿っていた。
これを着るのはかなり抵抗感がある。
「…………はぁ」
一瞬だけ迷ったが、音楽準備室ですぐに体操服へ着替えることにした。
そして、フルートを吹く準備を進める。
不幸は嘆いても仕方無い。
ドンマイ、私。
「ただいまー」
「おかえり……って、どうしたの、体操服なんか着て」
楓花は、運動部でもないのに体操服を着ている私に驚いた。
「何も聞かないで……」
楓花と別れた後の出来事は話すだけでも疲れてしまう。
靴を脱いで洗面所に行き、濡れた制服を洗濯機に放り込みながら私は溜め息を吐いた。
「楓花、ありがとう。今日、来るって言ってたっけ?」
「んーん。有栖のおかげで部活が長くやれたらから、お礼にご飯手伝おうと思って」
楓花は制服にエプロンを着ていて、右手には菜箸左手にはおたまが握られていた。
廊下の奥からは魚の焼ける良い匂いがしている。
「ごめん、ご飯勝手に作っちゃって」
「そんな、謝らないで。むしろ感謝してるんだから。部活で疲れてるでしょ? 後は私が
やるから、楓花は座ってて」
「いや、どちらかというと有栖の方が疲れてるように見えるけどー?」
私から鞄を優しく奪うと、楓花は洗面所から出て扉を半分だけ閉めた。
そして、その間から顔だけを出して、
「先にお風呂にして、あ・な・た」
と新婚生活を楽しんでいるお嫁さんのように可愛くウィンクをした。
白のエプロンが余計にお嫁さんの雰囲気を強めている。
その不意打ち発言に顔が赤くなるのを感じて、思わず楓花へ背を向けた。
それだけでは不自然過ぎるので、慌てて手を洗う。
「で、でも……楓花に悪いっていうか」
「ぜーんぜん。さっきのお礼だってー。もうお風呂沸いてるしー」
大した仕事をしていないのに、夕食を用意してもらうだけでなく、お風呂まで沸かしてくれている。
本当に楓花がお嫁さんになったみたいだ。
「タオルとかは私が準備しておくからー」
ごゆっくりー、と手をひらひらさせながら洗面所の扉を完全に閉められた。
当然だが、1人きりになる私。
このままお風呂に入らずに台所へ行っても、丁度学校で私がやったように押し戻されることは簡単に予想できたので、厚意を受け取ることにする。
正直、汗まみれの体操服を再び着たせいで、気持ち悪かったのだ。
このままの汗臭い体で楓花に近づくのは避けたい。
せっかくだから、いつ以来か分からない一番風呂を頂くことにした。
体を洗って、湯船につかると全身の疲れが溶け出していくようだった。
思わず出てしまった気の抜けた声が狭い浴室によく響いた。
ふくらはぎを揉んだり腰をさすったりしていると、湯加減はいかがですか、と楓花が洗面所に入って来た。
「タオルと着替え、置いとくねー」
本当に何から何までやってもらっている。
メイドさんを雇っている富豪はこんなに快適なのだろうなと想像しながら、メイド服姿の楓花をイメージしてしまい、本人が近くにいる時に何だ、と慌ててそれをかき消す。
「ありがとう、楓花。本当に全部やってもらって悪いね」
「何度も言ってるけど、さっきのお礼だよー。何なら、背中流してあげようか?」
大胆な発言に思わず湯船の中で溺れそうになる。
「な、なに、言ってるですか、楓花さん」
「えー、女の子同士だから別に変じゃないよー」
そういえばそうだった。
同性同士でお風呂に入ることは別に不健全な事ではない。
それなのに楓花の発言を聞いた瞬間、お湯を飲んでしまいそうになるほど驚いてしまった。
「そんなに驚くなんて、変な有栖」
「ははは……」
何とか笑ってごまかすことにする。
もう取り返しがつかないかもしれないが、楓花に変な人間と思われることは避けたい。
「まぁ、いいや、ご飯作ってるから。今日は焼き魚を中心とした和食でまとめてみました」
「色々作ってくれたんだね。ありがとう、楓花」
純粋に彼女には感謝をしなければならない。
今日は色々あり過ぎて、正直夕食を作る体力が無かった。
今度からは後に控えている用事のことを考えて頑張るようにしなければならない。
そうやって出来もしない目標を立てていると、楓花が、そうそう、と話しかけてきた。
「有栖の為に可愛い下着を選んでおいたからね」
「え? げふっ!」
今度こそ派手にお湯を飲んでしまう。
だって、そんなことを言われたら仕方が無いじゃないか。
「大丈夫、有栖?」
「な、なんとか。それより、下着を選んだって!?」
そういえば、タオルと着替えを用意すると言っていた気がする。
タオルならば簡単に用意できるが、着替え、ましてや下着は私の部屋に入らなければ用意できない物だ。
つまり、楓花が私の部屋に入ってタンスの中から私の――――
「なーんてね、タオルと下着を用意したのは千幸ちゃんだよー。私はそれをここに持って来ただけだよー」
「ふ、楓花ぁ……」
最近の楓花にはドキドキさせられっぱなしだ。
それだけ私は楓花のことを意識してしまっているのだろう。
その“意識”の正体は何だろうか。
「とにかく、ゆっくり疲れを取って下さいな、あなた」
「あ、あなたって呼ばれると、少し恥ずかしい……かな」
「そう? 私は何だか新鮮で好きだけどなー」
「千幸たちの前では、そう呼ばないでね」
「やっぱり恥ずかしい?」
「………………うん」
そうでなくても楓花のことを変に意識してしまっているのだ。
まるで、アツアツの新婚生活を営んでいるように振る舞われると、余計に意識してしまいドキドキする。
何となく胸の前で腕を組み、警戒してしまうのはきっと、少し意地悪な今の楓花ならば、いつ浴室のドアを開けて入って来るか分からないからだ。
別に楓花に裸を見られたり、背中を流されたりすることが嫌なわけではないが、どうしても恥ずかしさに勝てない。
あと、楓花に裸を見られることで何か越えてはいけない一線を越えてしまう予感がある。
それから楓花が洗面所から出て行って、私は解けないパズルを与えられた子どものように、ただただ心の中で難解な自らの感情を転がすのであった。
あれから楓花の作ってくれた豪華な和食セットを食べ終わって、いつものようにテレビゲームを楽しんだ。
相変わらず、弟妹達は楓花に懐いていたが、今日ばっかりは仕方ないと思った。
楓花が捧家に来る時のおきまりで、弟妹達がお風呂に入るタイミングで台所に並んで私たちは食器洗いを始めるのだった。
「ごちそうさまでした」
「いえいえ、お粗末さまでした」
お皿にのっている焼き魚の骨やら皮やらを流し台の三角コーナーに捨てながら、隣でスポンジを泡立てる楓花を横目で見る。
あぁ、家事を手伝ってくれる優しい旦那さんと結婚したら、毎日こんな感じなのかな。
今に始まったことではないこの恒例の皿洗いの風景が結婚という2文字を念頭に置いて考えてみると、どこか心にこそばゆい感触を覚える。
私達はしばらく無言だったが、食器同士がぶつかる音や水が流れる音で会話をしているような雰囲気だった。
その空気はとても心穏やかなもので、私自身お風呂に入っている時と同じくらいリラックスできた。
洗い物も終盤に差し掛かったころ、先に口を開いたのは楓花の方だった。
「有栖、今日なんか変じゃなかった?」
「ど、どこが?」
内心ドキリとしながら食器に付いた泡を水で洗い流す。
楓花の方に向き合ってしまうと、ボロが出てしまいそうだ。
「なんかねー、張り切ってたというか。特にバスケの時間とかさー」
「いつもと変わらないはずだけどね。私、球技とか苦手だからせめて一生懸命やってないと成績落ちるかなって」
もっともらしいことを言いながら、脳内で楓花に今日1日のモチベーションの正体を話すかどうか会議にかけた。
まず、話すことに賛成派が、別に隠すことでもないし、もしかしたらこの場で頭を撫でてくれるかもしれない、と主張した。
「なるほどねー。有栖らしい理由だ」
「結局、沢山失敗しちゃったけどね。試合も負けちゃったし。関心・意欲の面ではともかく、技術的な面では評価低いだろうなー」
しかし反対派も、そんな変なことを話したら楓花にどう思われるか分からないし、失敗ばかりして夕食まで作って貰って、これは本当の“頭撫で”と認めていいのか、と反論する。
「そんなに気にすることじゃないよー。体育の先生はそれぞれ個人の能力は知っているから、授業態度を重視するって言ってたしー」
「でなきゃ、体育の成績は恐ろしいことになるからね……」
何秒間かだけ考えてみたが、結局言わないことにした。
冷静に振り返って見ると、今日は部活も炊事もサボったことになる。
今日1日を総合的に見てみると、決して褒められるような日ではなかった。
「あ、そうだー。改めて言っておくよー、今日の放課後は本当にありがとうねー」
「もういいよ、それは。十分すぎるほどお礼は貰ったから。今度、夕食のみそ汁の作り方教えてね」
「そんなことで良ければ、ぜひぜひ」
「あ、もちろん、大会が終わってからで大丈夫ですので」
よろしくお願いします先生、と言いながら頭を下げる。
「いいよー、それくらい。いつでも教えてあげるよー」
「ほんとに? 助かるよ、先生」
毎日のように炊事をやるからには、どんどん上手くなっていきたい。
そのためには、上手い人から教わるのが一番だ。
「でもねー、先生と呼ばれるからには授業料が欲しいところだねー」
「授業料? クレープ奢ろうか?」
「ふふっ、それは有栖が食べたいだけじゃないのー?」
「あ、しまった……」
思わずクレープを出してしまった。
楓花の指摘通り、クレープを食べたいという欲求が無意識のうちに出てしまったのだ。
「奢るとかじゃなくても大丈夫だよ」
もちろん、また一緒にクレープ食べに行こうね、と付け加える楓花。
その一言に喜んでしまいそうになる私だけれど、あまり表に出し過ぎるとまた恥ずかしいことになるので、なんとか心に止めておく。
「物とかお金じゃなくてー、ちょっとした頼みなんだけど……」
「なに? 私が出来ることなら遠慮なく言ってみて」
楓花は少しだけ迷った素振りを見せた後に、私の両手を取った。
「さっきお風呂で言ってた、あなたって言い方をさせて欲しいかなー。お皿洗ってる時だけで良いからさ」
「え、えぇ……」
つい微妙な反応になってしまう。
楓花は気に入っているようだが、私としては結構恥ずかしいのだ。
どうしても赤面してしまうので、隠すのが大変だし。
「ダメかなー?」
なんだか楓花の表情が少し寂しそうになったので、取り敢えず話題を繋がなければならないと感じて、お風呂に入っている時から思っていた疑問をぶつけてみることにした。
「ダメってわけじゃないけど……その1つだけ質問しても良い?」
「うん」
「どうして私が旦那さん役なの? 私も女の子なんだけど……」
「えー、だって私がお嫁さんやりたいよー」
それは私の疑問に対する答えとしては少し的外れだった。
私はシンクの周りに飛び散った水滴を台拭きで拭きながら、そんなものかねぇ、と続ける。
「そんなものだよー。でも、有栖がお嫁さん役やってくれるならそれでもいいかなー」
「うーん」
それも何だか恥ずかしいことになりそうな気がする。
試しに、スーツ姿の私が帰宅して楓花に出迎えてもらう場面と、逆に楓花をエプロンで出迎える場面をそれぞれイメージしてみた。
「…………やっぱり、旦那さんで良いかも」
「でしょー? ちょっとやってみようよ、あなた」
「う、うん」
こうして、私と楓花による新婚生活のミニお芝居が始まった。
お芝居といっても、しっかりとした台本があるわけでもないし、そもそも今後の方向性も決まっていない状態である。
「お、おーう、今帰ったぞー」
「あなた、お帰りー。お仕事お疲れさま」
「ふぅー、今日も疲れたなー」
ものすごく不自然で棒読みな私に対して、楓花は女優のように自然な演技をしていた。
計らずとも、白いエプロンが新婚のお嫁さんという役を演出する小道具となっている。
「お風呂にする? ご飯にする? それとも――――」
ベタなセリフが飛び出したなぁと思っていたが、途中でそれも止まってしまった。
かわりに楓花は自分のエプロンの端をもじもじと握る。
さっきまで私の目をしっかりと見ていたのに、視線はやや下を向いて、頬をうっすら赤く染めていた。
あまりにも上手な照れの演技に鼓動が速くなるのを感じる。
楓花は私のアクション待ちのようだった。
「えーと、どうしよっかな~」
わぁぁあああ!
下手を通り過ぎて意味の分からないセリフを言ってしまった。
この流れでそんなこと言う旦那さんなんてこの世にはいないだろう。
演技であろうと、世間の男性がそうするように自分の欲望に任せて第3の選択肢を自然に選べるほど、私は演技派女優ではないのだ。
でも、このままだと本気で演技をする楓花が少しかわいそうだ。
「じゃ、じゃあ、ですね、ここはーやっぱり……そのー」
もじもじしている楓花を直視できずに、他の場所に視線を動かしながら、私も結局3番目の選択肢にしようと思った矢先――、
「おねーちゃんたち、何してるの?」
Tシャツ姿になった千幸がお風呂からあがって来た。
お茶を飲むために片手にはコップが握られている。
「ち、ちさ!? い、いまの……見てた?」
「見てたよ。おねーちゃん、学校で劇でもするの?」
「そ、そうなんだー、もうすぐ文化祭も近いからー、あはははは」
「ふーん」
丁度、千幸が言い訳になりそうなことを言ってくれたので、そういうことにしておく。
そうでなければ、新婚生活ごっこをしていた説明が付かない。
誤魔化すことで余裕が無い中、楓花の方をチラリと見てみると良いところ(私にとっては違うが)で邪魔が入ったからだろう、少し残念そうな顔をしていた。
「楓花先輩は上手いけど、おねーちゃんは凄く棒読みだったから練習が必要だね」
千幸はこちらに視線を合わせることなく、お茶を飲みながら台所を去って行った。
やっぱりか、不自然だったか、妹よ。
こういう恋愛関係の耐性というか免疫というか。
それがあまりにも私に欠けているのでこうなるのだろう。
結局、新婚生活ごっこは有耶無耶になり、続きはまた次の機会ということになった。
次回までに、3択問題に対する良い返事を考えておいて、余裕を持った演技が出来るように練習しようと心に誓うのであった。
秋の夜中はやはり少し肌寒い。
ベッドに寝転がりながら、今日浮かび上がって来たいくつかの疑問に関して私は頭を悩ませていた。
やることはやったので、既に午前2時を回っている。
「新婚……生活か」
私だって憧れが無いわけじゃない。
今日だって、恥ずかしかったけれど別に嫌ではなかった。
でも、それでもその相手がカッコいい男の子ではなく、同性の親友というのはどうなのだろう。
もう一度、会社帰りの私が楓花に出迎えられる想像をしてみる。
「うーん、やっぱり恥ずかしいなぁ」
やはり“あなた”という呼ばれ方がしっくりこないのだ。
特に楓花からは新婚生活になっても名前で呼んで欲しい気がする。
「って、何考えてるんだろ私。楓花と新婚生活って……」
疲れると思考が変な方向に行くのかもしれない。
取り敢えず、これ以上楓花に遊ばれないように“大人の余裕”を育てていかなければならないことだけは確かだと結論付けて、目を閉じた。