巡って来たチャンスと損な性格
チャンスというのはそうそう巡って来るものではない。
それは勝負の世界でも普段の暮らしでも言えることだ。
また次があるからと前向きになるのは大切な事だが、ある程度反省はしておかないと、もし再びチャンスが巡って来ても失敗してしまう。
そういう意味で、私は今どんな行動を取るべきだろうか。
体育の時間、数学のテストと2回もチャンスを逃している。
これから放課後になって、私は吹奏楽部、楓花はラクロス部に行ってなかなか出会う機会も無いので既に今日はノーチャンスかもしれない。
そもそもどうしてこんなに私は頑張っているのか。
同級生の同性の友達に頭を撫でて貰いたいという、異性ならともかく同性としてよく分からない目的の為に普段より余分に盛り上がって、余分に落ち込んでいる。
感情の起伏が激しいと疲れてしまうのに。
いくら私が目的のために頑張ろうと、本来やるべきことは待ってもくれないし消えてもくれないので、できるだけ無駄な体力を使いたくない。
「なーんか、チャンス転がってないかなぁー」
授業中なので、誰にも聞かれないような小さい声で呟く。
石ころでもあるまいし、道端に転がっているものでも無いのだが、つい教室の床を見つめてしまう。
落ちているのは、長い髪の毛とか消しゴムのカスだけだ。
「ではー、次、読んでくれるかな」
丁度、私の前の席に座っているクラスメイトが教科書の音読を当てられた。
先生は順番に当てていく方式なので、次に私が指名されるだろう。
「取りあえず、授業に集中かな」
既に授業は6時間目に突入している。
まだまだ諦めきれない私は何か無いかとチャンスを伺っていた。
教壇では女性の国語教師が古文の文法について解説をしている。
カテゴリ的には国語に属する古文だけれど、少し日本語寄りの外国語だと私は思っている。
でも英語と違って日常で使う場面もないので、あまり好きな教科ではなかった。
勉強の好き嫌いは日常生活で使えるか使えないかで判断しているわけではない。
でも、私と古文は馬が合わないようだ。
それでもノートは取らなくてはならないし、学期末にはテストを受けなければならないので、シャーペンを走らせるしかない。
今日は頭を撫でられることを気にしていたので、どの授業にも集中できていない。
これではたとえ楓花に褒められても意味がないのだ。
上手く言葉では言い表せられないけれど、頭を撫でられるありがたみ成分が半減してしまう気がする。
「集中……しなきゃね」
上手くいかないことは上手くいかないで割り切るしかない。
それを嘆いて普段やるべき事を蔑ろにするのは許せない。
そして、全てをやりきった上で見返りを求めたい。
かなり気が付くことに遅れてしまったけれど、今から今日を一生懸命にやろうと思った。
そう決意すると、不思議と集中できるような気がした。
チャンスというのはそうそう巡って来るものではない。
しかし、意外にもチャンスは再び回ってきた。
今日はそういう日なのかもしれない。
「えと、すみません、今から部活に行かなくてはならなくて……」
「そうか……それは悪いわね」
「本当にごめんなさい」
掃除当番を終わらせて音楽室に向かおうと廊下を歩いていると、先生と楓花が何やら揉めていた。
揉めているといえど、喧嘩や説教ではなく、両方が遠慮と困惑と申し訳無さで溢れている。
「どうしたの、楓花」
声をかけた私に、あー、有栖、と返事をした楓花は事情を説明してくれた。
今日の日直だった楓花は、学級日誌を書いた後、ラクロス部の練習の為にグラウンドへ向かおうとしていた。
そこを先生に捕まってしまったらしい。
なんでも簡単な事務作業を頼まれたようだ。
日直の仕事をしていた楓花以外の生徒は部活か帰宅をしていて捕まらなかったらしい。
しかし、楓花も急いでいるようで。
「大会が近いからすぐに部活行かなきゃならないんだけど、簡単な仕事らしいから終わらせ てからでもー」
試合形式となると最初から主力メンバーである楓花がいないのがマズイことは、運動部ではない私でも理解できた。
でも、楓花は――私もだが――こういう時に、無下に断れない性格なのである。
実践練習は1分1秒でも長くこなしたいのがレギュラーとしての、そして新部長としての願いだろう。
吹奏楽部でも、大会近くになると個々の技術よりも各パートの調和が大切になってくるので、原則的に全員が参加することになっている。
音楽とスポーツの差はあれど、団体競技の根本は同じに違いない。
「じゃあ私にまかせて、楓花」
もしかしてこれはチャンスなのではないか。
幸い、吹奏楽部は近日に大会はない。
毎日の練習は当然欠かせないが、今日1日だけならばその分だけ私だけ居残り練習をすれば取り戻せるだろう。
「待って。有栖も部活行かなきゃ。新しく部長になったばかりでしょー?」
「大丈夫。今日は元々合わせる予定は無いし、霧崎には後半から指導するつもりだったか ら」
不安そうな声を出す楓花を安心させるために今日の部活の予定を述べる。
嘘偽りなく、今日は大丈夫なのだが、そのことを伝えても楓花は遠慮がちだった。
「でもー」
「はいはい、行った行った」
「あ、有栖ー」
尻込みする楓花の背中を無理矢理押して行く。
散歩に行きたくない犬を無理やり連れて行くように。
その場合だとリードを引っ張って行くから、背中を押している今の状況とは真逆だけれど。
ワタワタと慌てる彼女だったが、その場に留まることを諦めたのか何度も何度も謝りながらグラウンドへと走って行った。
走った勢いで長い髪の毛がふわりとなびく。
走った時に綺麗な長い髪がふわりと舞うのを何回も羨ましいと感じたことがある。
その度に何回も髪の毛を伸ばしてみようと思うのだが、面倒くささが先立って断念してしまう。
やはり急いでいたのだろう。
楓花の背中は、すぐに小さくなっていった。
褒められるためにとった行動ではない、と言ったら嘘になるが、単に人から――楓花から――感謝されたことに胸があたたかくなる。
「じゃあ、先生行きましょうか」
「助かるわ、捧さん。すぐに済むからね」
もう一度だけ楓花が去って行った方向を見てから、先生と一緒に職員室へと向かった。
「ありがとう捧さん。本当に助かったわ」
「いえいえ。大したことはしていないですから」
書類を整理して、ノートをロッカーに配っただけで“簡単な事務作業”は終わった。
本当に大した仕事ではない、簡単なものだった。
これくらいなら先生がやっても良いんじゃないかと思ったのは秘密である。
一礼をして、職員室から出ると早歩きで音楽室へと向かう。
既に、副部長へ遅れるという連絡はしてあるが、急いだ方が良いのは間違いない。
「よし、部活頑張るぞ」
秋になったとはいえ、教室の外でエアコンが効いてない廊下は蒸し暑い。
30分だけとはいえ遅れたことには変わりないから、汗をかくのを承知で早歩きをする。
「困った……これ今日帰れるかな……」
「でも、仕方無いですよ~、探すしかないですって」
決意を新たに音楽室へ向かっている途中、国語科資料室の前に2人の若い女性の先生が立っているのを見つけた。
音楽の宮園先生と家庭科の児島先生だ。
「どうかしましたか?」
「あ、捧さん。ちょっとね」
「うん、ちょっと……ね」
歯切れの悪い2人に首を傾げて見せると、髪を後ろで束ねた児島先生が周りを何回か見た後に私の耳元で、
「実は、明日の会議で使う大切な資料を、間違えて保管用の段ボールに入れちゃって」
と囁いた。明日の会議はどうも大切なものらしい。
わざわざ耳元へ囁いたということは、他の先生には秘密なのだろう。
バレたら大目玉に違いない。
現に、もう片方の――ショートカットの――音楽の宮園先生は顔色が優れない。
宮園先生は地元の音大を卒業していて吹奏楽部顧問見習いの立場である。
直接指導するのは40歳を過ぎたベテラン教師であくまでその補佐をするのが仕事だ。
何でも会議は部活動関連のものらしく、書類も部活動に関係したもののようだ。
吹奏楽部の顧問である水野先生は“修羅”と呼ばれるほど怖い人なので顔色が悪くなるのも無理はない。
部活では技術面だけでなく勉強面、特に授業態度が悪かったり課題を出していなかったりといった話が先生の耳に入ってしまうと、音楽準備室に呼び出されて滅茶苦茶叱られる。友達が受けているのを見たが、木を十分な時間じっくりと燃やしたように、白く灰になっていた。
「良かったら手伝いましょうか?」
何回か先生のお叱りを受けたことがある私は、ついそんな台詞を出してしまった。
音楽室へと急がなくてはならないのに。
もう既に30分も遅刻しているというのに。
多分、楓花の仕事を肩代わりしたことに気分が緩んでいたのだろう。
すぐにその発言を取り消そうと思ったが、
「本当に!?」
「助かるよ、先生助かっちゃうよ!?」
ここまで目を輝かされたら断るわけにもいかなかった。
1度口にした言葉はあまり撤回するものではない。
1人の生徒に頼る2人の先生という構図がとても面白いことは気にしないでおくことにする。
自分が急いでいるのに困った人がいると無視出来ないのは損な性格だ。
そして、自分の用事も妥協が出来ないから睡眠時間を削ることになってしまう。
今のところは大丈夫だがいつか倒れてしまうのではないかとよく心配されることが申し訳ない。
宮園先生が教室の鍵を回して、国語科資料室に入ると中はホコリが漂っている酷い有様だった。
普段は使われない教室なのだろう。
古い資料や場所を取る膨大な文献などが段ボールに詰められ保管されている。
物置部屋と称するのがしっくりくる室内は、普通の教室の半分ほどの大きさのスペースに段ボールがテトリスの様に敷き詰められていた。
「え、ここから探すんですか……」
もちろん、ここはゲームの世界ではないから、いくら綺麗に敷き詰めようと段ボールが消えることはない。
教室いっぱいの箱は軽く50を超えているのではなかろうか。
「さて、やりますか」
隣で腕まくりする児島先生。
「ごめん」
同じように腕まくりをしながら、うつむく宮園先生。
「まぁまぁ、ミスはあるって。長い教員生活、まだまだ大変な事はあるさ。こんなことで負けてたら続かないって」
児島先生は落ち込む背中をポンポンと叩いた。
「そうかなぁ……そうだよね!」
「これ終わったら、飲みに行こう。もちろん、奢ってくれるよね?」
「うん、梯子しよう!」
「あのー、先生方……?」
感動的なやり取りをしているが私の話とか意見とか文句とかはすべてスルーされてしまっている。
そもそも口に出していないので汲み取れと言う方が無茶なのだが、だからといってあからさまに文句は言えない私である。
そもそも2人とも夜遅くまでやるテンションだが、私はすぐにでも終わらせて部活へと向かいたいところなのだ。
「よし。じゃあ捧さん、これお願い」
「お、おも……」
児島先生からいきなり重い段ボールを手渡されて困惑しながら、何とかそれを床に降ろす。
かなり前に貼られたガムテープはしなしなになっていて、上手く剥がれてくれない。
爪でカリカリと削ってみるが、あまり効果は無かった。
仕方ないのでテープを無視して無理矢理開けてみようとするが、弱そうに見えるテープは蓋を閉じるという役目をしっかりとこなしていて、びくともしない。
1箱目から既に心が折れそうになる。
最悪の場合、これをあと数十回は繰り返さなければならない。考えるだけで気が遠くなってしまう。
「もう、剥がれてっ」
イライラしながらやって遂に剥がれたかと思うと、それには書類が入っておらず、古い本が何冊も敷き詰められた箱だった。
テープを剥がすために費やした時間は全て無駄だったわけだ。
箱詰めをしたのはきっと仕事が粗い人だったのだろう。
せめて、箱に中の物について書いておいてくれれば良かったのだが。
「ははは……」
乾いた笑みが漏れてしまう。
悲しいのか空しいのか、自分が怒っているのか泣いているのかさえ、よく分からなかった。
私を苛立たせている原因がもう1つある。
それは室温だ。
季節は既に秋なのだが、夕方でもまだまだ暑い。教室や職員室では冷房が効いているし、自動販売機は冷たい飲み物しかない。
ここまで話せばわかるかもしれないが、国語科資料室は教室ではないので空調は整備されていない。
加えて、部屋に唯一ある窓は、段ボールによって隠されてしまっているので現時点では開けることができない。
つまりドアから入って来た空気が循環しないので閉じ込められていた熱気が部屋から出て行くことが無く、室温が全く下がらないのだ。
劣悪な環境でよく分からない作業を永遠と続ける。
拷問に近い苦行に私は付き合わされてしまっているのだった。
「捧さん、次はこの箱をお願い」
「はい……分かりました」
手伝いましょうかと言ったこと、国語科資料室の前を通ったこと。
今更後悔しても関係ないようなことを考えながら、これ以上何かを考えてしまうと苦しいだけなので、ひたすら無心で書類を探すのだった。




