デートとシーソーの夢
「date……人と待ち合わせてどこかへ出かけること……って何を調べてるの、私」
電子辞書のスイッチも切らずに、パタンと閉じる。
さっきから全く進んでいない課題用ノートも閉じて、天井を見上げた。
そこには課題の答えも書いてなければ、私の心をもたげる悩みについての解決策も当然だが現れてこない。
「有栖……」
その名前を口にすると意味もなく胸が高鳴ってしまう。これは今に始まったことではなく、恐らく中学時代からのことだ。
有栖、それは私の大切な人の名前。これからも呼び続けたい名前でもある。
「デート、誘っちゃった……」
目を閉じて台所でのやりとりを思い出す。あの時の有栖はどぎまぎしていたが、どちらかといえば私がどうにかなりそうだった。
断られたらどうしよう、デートってどういうことですか、と真顔で問われたらどうしよう。
そんなことばかりを考えてドキドキしていた。
有栖ならば酷いことは言ってこないと予想できるものの、私にとってはやんわりと断られるだけで辛い。
何にせよ、OKを出してくれてよかった。
椅子に座って首だけをずっと上に向けていたのでクラッと来た。
このまま続けていると気分が悪くなってしまう。
課題を再開することもないだろうから、ベッドの上に倒れこむ。
仰向けになって天井を見るけど、やっぱり答えなんて書いてなかった。
「何が、しょうがないなぁ、よ」
私は有栖をデートに誘うとき、そう頭に付けた。
言い訳がましく聞こえるこの言葉を文頭に付けたのは、千幸ちゃんとの会話が原因だ。
「最近、忙しいお姉ちゃんのためにどこかへ出かけてきてください」
英語のテスト範囲に分からない所があると、彼女の部屋に呼ばれた私に告げられた一言だ。
有栖は気がついていなかったけれど、あの家の弟妹達は姉のことを本当に慕っている。
家事をしてくれる存在だけでなく、そもそも存在自体が親の代わりなのだろう。
いるだけで、安心する存在というわけだ。
だから、次女である千幸ちゃんは姉に負担をかけさせられないと不安に思う。
もっと年下の徹くんや進二くん、彩矢ちゃんはそこまで考えられないにせよ、何だかんだ言うことを聞いているあたり良いお姉ちゃんと思っていることに間違いはないのだ。
そして、そんな可愛い妹のお陰で幸運にも有栖とデートをすることになった。
まさに渡りに船といったところ。
本当は休日に朝から夜までゆっくりと出かけたいところだが、贅沢は言えない。
有栖も私も部活で忙しいのだ。
明日だって運良く職員会議で部活がないだけで、普段ならデートどころではない。
特に有栖は強豪の吹奏楽部に所属しているだけあって、休日も全日練習がある。
一緒に出かけられることなんて明日の逃せば冬休みになるのではなかろうか。
「明日どこ行こうかな……」
想像すらしていなかった幸運でデートに誘えたのは良いが、こちらも予定していなかったことなので、どこに行こうとか何をして遊ぼうとか、とても重要なことについて全く計画が無い。
誘った以上こちらが先導していかなければならないのに、気の利いたプランが浮かんでこないから困りものだ。
「有栖も私と同じなら良いんだけれど」
正直、私は場所なんてどこでも良かった。
何をするでも良い。
映画でも良いし、買い物でも良い。
それどころか、他愛もない話をしながら並んで歩けたならばそれで十分だった。
そこに目的地もゴールもなくて良い。
私にとって何をするかではなく、有栖といることの方が重要なのだ。
有栖はどうだろう。
この考えに賛同してくれるだろうか。
駄目だ、もう今日は寝てしまおう。
頭が回らないというか、効率が悪いまま何かを続けていても意味が無い。
課題は明日の朝早く起きて済ませることにして、目覚まし時計をいつもより早くセットして、電気を消して布団へ潜り込んだ。
私と有栖でシーソーをする夢を見た。
こっちに私、向こうに有栖が座ってシーソーをする夢。
周りは公園ではなく、ただ真っ白な世界だった。
少し古い、水色のペンキに塗られたシーソーと私と有栖だけしか存在しない。
せっかく有栖が夢に出て来てくれたのに、あまり楽しい夢ではなさそうだ。
「有栖、シーソー飽きない? 降りて、あなたの隣に座りたいな」
夢の中の私は少し大胆だったが、有栖はそんな言葉には耳を傾けずにただ笑っているだけだった。
ギッコン、ギッコン。
真っ白な世界はシーソーが軋む音しかしなかった。
他に音がしないから怖いほどに静かだった。
もしかすると、私が声を発していると思っているだけで、実は音として有栖に伝わっていないのかもしれない。
だから、有栖はただ笑うだけ。
ギッコン、ギッコン。
メトロノームの様に規則正しいリズムを刻む。
なんなの、この夢は。
私はなんとなく嫌になってシーソーから降りようとした。
しかし、足に力が入らない。
「有栖、私シーソーから降りたいな」
相変わらず有栖は笑顔のまま。
シーソーからも降りてくれないし、そもそもシーソーを動かすことを止めてくれない。
結局、目覚めるまで私達はシーソーの上で過ごした。
「ん……、もう朝か」
目覚まし時計が鳴った時間はいつもより1時間早い。
まだ寝たい欲望を振り切る為にカーテンを開けた。
外からの日光が部屋に差し込んでくる。
それにしても、今の夢は何だったのだろう。
「ちょっと怖かったな」
あのまま起きることが出来ないならばどうなっていたのだろう。
有栖の笑顔を一生見ていられるけど、私の言葉に答えてくれることはないし、彼女に触れることも出来ない。
寝る前に変なことを考えたからだろうか。
よく、現実で追い詰められている時には、何かに追いかけられる夢を見るらしい。
実際、勉強が上手くいかないテスト週間は虎に追いかけられる夢を見たことがある。
有栖とのデート先に関する悩みが少し歪んだ形で夢に出てしまったのかもしれない。
顔を洗って軽く体操をしてから、ノートを広げて課題を再開する。
一度寝てみると頭の中がスッキリとして進みが良い。
終わらなかった部分だけでなく、昨夜終わらせた部分から間違いをいくつか見つけることも出来た。
もし昨夜の内に無理矢理終わらせていたならば間違いだらけの課題が出来上がっていただろう。
思ったより早く課題が終わったので、結果的に30分の早起きになってしまった。
制服に着替えて朝食とお弁当の準備をする。
野菜を切ってフライパンで炒めると、じゅうっと良い音が鳴って、野菜の甘い匂いが台所に香った。
「ふーん、ふ、ふーん」
野菜を炒める箸の動きに合わせて鼻歌が出てしまう。
心から今日のデートを楽しみにしているのだろう。
冷凍食品のハンバーグやらコロッケやらをレンジで解凍しながら、朝食用の食パンをトースターにセットする。
昨夜セットしておいたご飯をお弁当箱に詰め終わると、丁度パンが焼き上がった。
それを皿に乗せておいて、冷めない内に食べようと急いで弁当を完成させる。
粗熱を取るために蓋を開けっ放しにしておいて、私は朝食の前に座る。
パンにイチゴジャムを塗り、紙パックのコーヒーをコップに注いだ。
まだ眠気の覚めない身体には苦いコーヒーが美味しい。
朝の苦手な私はこの1杯が欠かせないのだ。
朝食を食べ終えシンクの中に皿とコップを置いて、弁当箱の蓋を閉める。
それを弁当用の小さなカバンに入れたら昼食の出来上がりだ。
時計を確認、丁度良い時間だ。
洗面所で歯を磨きながら、髪が跳ねていないか確認する。
今日はデートが控えているので、身だしなみは念入りに整える必要があるのだ。
穴が空くほど鏡を見つめ、何の問題も無いことを確認する。
「よし、これで大丈夫かな」
用意した昼食と鞄を持って、部屋から出る。
今日は良い天気だ。
このままの天気が続いてくれたらと思う。
校庭には赤トンボが飛んでいる。
秋というお題で絵を描いたような夕焼けと赤トンボのセットがとても綺麗に見える。
まだまだ熱そうなアスファルトの上を歩きながら、校門前のバス停を目指す。
「あー、流石に多いね」
有栖が困った顔をした。
バス停の前には多くの生徒でごった返していた。
部活動が無い分、時間帯が重なってしまったのだろう。
恐らく、次にバスが来ても私達は乗れそうにない。
「こんなことなら外で待ち合わせておけば良かったかもね。楓花にわざわざ迎えに来ても らったからワンテンポ遅れたかも」
「そうだねーごめん」
「楓花は謝らなくて良いよ、私が頭回ってなかっただけだから」
慌ててフォローする有栖。
そんなことで謝られてしまうと、こちらが申し訳無くなってしまう。
迎えに行くことを提案したのは私だ。
「でもほら、どっちかが途中で捕まるかもしれないから、ヘタに別れて行動するのは良くないよー。それに……」
私は空いている右手で有栖の左手をギュッと握る。
有栖は目を白黒させた。
「楓花さん……?」
「有栖に1秒でも早く会いたかったしー」
ぴくっと握った手が反応した。
有栖は私と正反対の方を向いて、そうだへっ、と照れている。
舌が回っていないところを見ると、かなり焦っているに違いない。
そんな行動をされたら、もっと可愛い反応が見たくなってしまうのは仕方無いことだ。
私はぐっと体を寄せて有栖の左腕を抱いた。
周りには下校中の生徒がいるが関係無い。
吹奏楽部の部長なんて白百合学園では憧れの存在だ。
プラスして頭が良くて美人とくれば、女子高でも狙っている生徒は多い。
けれど、私は有栖を他の子に渡すつもりはない。
家へ通ったり、時々デートへ出掛けたりと親密な関係性を築いているのは私だ。
だから、その貴重なデートの機会を活かさないのは勿体ない。
思いっきりイチャイチャしようと考えていた。
私は有栖の一番になりたいし、特別でいたい。
「ちょっと、楓花! みんな見てるからっ」
周りの生徒達は大多数が微笑ましい表情でこちらを見ている。
中には面白くなさそうな顔をしている人もいるけれど。
「有栖は私にベタベタされてるところ、見られたくない?」
今日の私は少し意地悪かもしれない。
でも、困る有栖がとても可愛いから仕方無いという理由にしておく。
「いや、嫌じゃなくて、むしろ────」
「むしろ?」
「その、威厳というか、ほら吹奏楽部の後輩とかも見てるし……」
普段の部活での有栖はとても厳しいと噂だ。
一度、後輩を鬼の如く叱ったと聞いたことがある。
演奏に一切の妥協を許さず、完璧をいつも求め続ける姿は正に鬼と呼ぶに相応しいらしい。
私が知っているのは弟妹達にお母さんの様に振る舞う有栖か、照れて困る有栖か、デレデレする有栖かの3択だ。
有栖が怒っているのは嫌だけど、私の知らない姿を1度見てみたい気もする。
今度、こっそり吹奏楽部を見に行ってみようか。
そんなことを考えていると、私の手から急に有栖が腕を抜いた。
びっくりしたので有栖に抗議しようとするが、彼女の目線は別の人に向けられていた。
「こんにちは、捧先輩」
目の前には銀色の長い髪をした女の子が立っていた。
同級生の中でも高い部類の私と同じくらいの身長で、顔立ちはとても整っている。
有栖のことを先輩と呼んでいるのだから私の後輩でもあるのだろうけど、そんなこと関係無いくらいに大人びた雰囲気だ。
髪に付けた女の子らしい真っ赤なヘアピンが、大人びた雰囲気とコントラストになって絶妙なバランスとなっている。
「霧崎……」
私は霧崎という名字を知っていた。
確か名前は棗で、有栖と同じフルートパートの期待の新人だったはずだ。
詳しいことはよく知らないが、白百合の吹奏楽部は先輩1人に対して後輩が1人から2人ついて指導を受ける方式のようだ。
1年間学んだことを後輩に教えるという行為を通して、定着させるという目的だろうか。
あと、上下関係をはっきりさせる為でもあり、1人対少人数だけあって後輩に抜かされると目立つので、先輩側にも良い緊張感を持たせられるらしい。
そして、有栖が直々に指導しているのが霧崎さんなのである。
「今日は1人か?」
「はい、る──友人は用事があるらしく、急いで帰ってしまったので」
先輩はこれからお帰りですか、そう尋ねる彼女の横顔を見つめる。
向こうは私の視線に気が付いているのだろうか。
「あ、あぁ……そうだ」
私を一瞥し、有栖は少し慌てた。
さっきの急な対応といい何かがおかしい気がする。
「そうですか」
それまで有栖と目線を合わせていた霧崎さんが私の方を向いた。
「こんにちは、小鳥遊先輩。噂はよく聞いています」
「えっ」
どうして私の名前を知っているのだろう。
こちらは有栖から霧崎さんの話を聞いているが、実際に会ったことはないはずだ。
あと、噂とは何のことだろうか。
うっすらと笑みを浮かべる霧崎さんに、有栖は焦った様子で、おい、と言って制止した。
「すみません、部長」
手短に謝罪する霧崎さん。
しかし、笑みを完全に隠しきれてはいなかった。
「では、私はこれで。明日からもまたご指導をよろしくお願いします」
最後に深々とお辞儀をした彼女は、踵を返して歩いて行った。
「今のが霧崎さん?」
彼女が見えなくなった辺りで有栖に尋ねる。
「そう、霧崎棗。私が指導している1年生」
有栖はまだ変な様子だ。頭の回転が追い付いていないのか、ロボットの様な平坦な声を出している。
怪しい。
漠然にそう感じた。
私は恋愛の経験はゼロに近い――むしろ好きになったのは有栖だけだ――が、今の有栖と霧崎さんのやり取りに恋愛の類いを予感した。
それが的外れだとしても、何か私に言えない秘密が2人の間にありそうだ。
「結構、仲良いの?」
「ま、まぁね……個人指導しているわけだし。でも、上下関係はハッキリしてるつもり」
「ふぅーん」
これは何かを隠している、間違いない。
それが何か現時点では分からないが、少なくとも隠すくらいだから後ろめたいことの可能性が高い。
最悪、有栖と霧崎さんが恋仲ということもあり得るかもしれない。
「ふ、楓花?」
「美人だね、霧崎さん」
少しの嫉妬交じりに聞いてみる。
「そ、そうだな。結構頭も良いんだ。練習熱心だし、上達も早い。そして何より自分の能力に謙虚だ。だから、努力を怠らない」
「ふぅーん??」
そこまで話した有栖は、しまったという顔をした。
話し方でわかる。
少なくとも有栖は霧崎さんにプラスの感情を抱いている。
努力家で自分の能力に謙虚な人間────有栖の大好きな人間だ。
有栖は自分の出来ることは全て全力でやる努力型の人間である。
私は出来ることは出来るだけやるけれど、やっぱり何処かで妥協する。
しかし、有栖にはそれがない。
だから寝る時間も極端に少ない。
彼女の就寝時間は、今日やるべき事が終わった時だ。
いつか、倒れてしまうのではないかと心配するけれど、本人はブラックコーヒーでカフェインを摂取しているから眠くないし大丈夫だなんて、意味のわからないことをいつも言う。
絶対に大丈夫じゃない。
そんな有栖だから霧崎さんの様なストイックそうな人間がお気に入りなのだろう。
その証拠に、後輩のことを語る有栖の目は輝いていた。
それは後輩が単に誇らしいのか、それとも────
「楓花さん……その、行きませんか」
「そうだねー」
いや、こんなことを考えるのは止めよう。
確かに、今夜は宿題が手につかないかもしれない。ベッドに入ってもなかなか眠られないかもしれない。
今すぐ本当のことを有栖に問い詰めてみたかったし、何なら霧崎さんもこの場に読んで話がしたいのが本音ではある。
だが、今は何も考えずにデートを楽しもう。
面倒なことは後回しで、有栖との時間を楽しむんだ。
「どうする? バス待とうか」
「うー、でも次のバスには乗れそうにないねー」
見たところバス停には列ができていて、次の便には乗れそうになかった。
普段は部活なので知らなかったが、列は相当の長さだ。
「次の次を待っても良いけど、遊ぶ時間が短くなりそう」
「うん。だから、有栖さえよければだけど……」
私は有栖の手を握り直し、引っ張って行った。
2人だけの世界へと、有栖を招待するために――――。