お暇な休日と禁断の関係
楓花にキスをされた。
それもふざけて頬にするキスではなく、遊びとしては少々度が過ぎている唇同士のキスだった。
風邪を引いて意識が朦朧としていたが、マシュマロのように柔らかい感触は一夜が明けた秋の朝にも、確かに唇に残っている。
すっかり熱も下がったし、寝不足が原因で起こる酷い頭痛も無くなっていた。
少し寒気がするが、今日1日大人しくしていれば明日からは問題なく学校へ行けるだろう。
布団から出ると秋の朝の冷たい空気が体を包む。
フローリングが冷えていて、長い間布団に入っていたことで変に熱くなっていた足の裏に気持ち良かった。
立ち上がるとやはりめまいがする。
時計を見れば8時を過ぎていて、大体10時間ほど連続で寝ていた計算になる。
風邪が原因というより、寝過ぎて立ちくらみがしてしまったといったところか。
1階に降りると千幸たちが朝食の準備をしていた。
慣れない手付きで目玉焼きを作る千幸、焼き上がれば自動で飛び上がるにも関わらずトーストの出口を真剣に見つめる弟の徹と進二、寝ぼけながら椅子に座って牛乳を飲む彩矢と、それぞれが一生懸命である。
「おはよう」
「あ、お姉ちゃん。起きて大丈夫なの?」
一番に反応したのは千幸だった。
相変わらずのジャージ姿で危なっかしくフライ返しを握っている。
「うん、一晩寝たらすっきりしたから」
「ふーん、そう」
全く無感動に呟いて、卵が2つ落とされたフライパンに視線を戻した。
もうすぐ焼き上がりなのか、パチパチと良い音が鳴っている。
「全く、まだ秋なのに風邪を引くなんてだらしないぞー! 腹でも出して寝てたなー?」
「ねてたなー?」
進二と徹の2人が病人ということを忘れて私に突進して来た。
「腹なんか出してないわ、このヤロー」
それはお前らだろうという感情をこめて、弟2人の首に両腕を回して軽く絞める。
はなせー、と言いながらも弟たちは何故か嬉しそうだった。
ぐびぐびと牛乳を飲む彩矢も一緒に笑う。
最近は吹奏楽部で忙しかったのでこうやって馬鹿をやるのもご無沙汰だ。
何か新鮮な気分になる。
震える手でフライ返しを握り締め、千幸は息を止めてフライパンから皿へ目玉焼きを運ぶ。
本人の中でも上手く出来たようで、フライ返しを持ったまま小さくガッツポーズをしている。
料理が全くダメな千幸だが、自分の出来ることにはチャレンジを惜しまない頼れる妹だ。
頼れる、なんて口に出すと照れて不機嫌になってしまうから、言わないけれど。
「千幸、何か手伝うことあるかな?」
「ない。病人は座ってて」
ぴしゃりと言われて、結構治ったんだけどなぁ、と小声で呟くしかなかった。
机に並べられたのはトーストと黄身が半熟の目玉焼きと少し焦げたソーセージ、そしてヨーグルトだった。
捧家における日曜日定番メニューである。
「そういえば、父さんと母さんは?」
「まだ寝てる。昨日公園ではしゃぎすぎて爆睡」
パックのジュースをコップに注ぎながら、千幸が呆れている。
私が学校で倒れている時、私を除いた捧一家は少し遠めの運動公園へピクニックに行っていた。
昔から家族で出掛けると、両親は子どもよりはしゃぐ。
学生時代、陸上を通じて知り合った2人はスポーツが好きで何をやるにも真剣なので、公園なんかに行くと一生懸命に遊ぶ。
一生懸命で一生懸命過ぎるために体力を残しておかないので、その日の夜はもちろんすぐ眠るし、次の日の午前中もなかなか起きない。
いつもはそれでも良いのだが、流石に今回は私が風邪で寝込んでいるというのに朝食の準備を小さい妹たちに任せるのだから相当な放任主義なのかなと感じる。
好きなことをすれば良い、それが両親の口癖だった。
聞こえは良いが、代わりに私たちも好きなことをさせてもらうよ、という宣言にも取れる。
食品メーカーに勤めていた父親は一緒に就職した母親とそのまま結婚すると、何故か一緒に寿退社したらしい。
普通に考えればおかしい話だがここからがもっと変で、なんと2人でパン屋を始めた。
実家がパン屋で、いつか自分も開業するのが夢だったという話は、酔った父親から何百回と聞かされている。
朝早くから夜遅くまで働いて、そのお陰で私には家事全般の能力が身に付いた。
そんな忙しい両親だが、肝心な時、例えば誰かの誕生日だとか私の高校入試の合格発表の日などは当たり前のように家にいて祝ってくれる。
要所要所を締めるのがポリシーらしく、お陰で普段は家を空けているにも関わらず、捧家の子どもたちは親の愛情不足でグレることもなく、すくすくと育っていた。
「おねーちゃん、薬」
「お、ありがとう」
危うく飲むことを忘れてしまうところだった。
子どもの頃からあまり風邪を引くことがなかったので、食後に薬を飲むのをつい忘れてしまう。
薬を飲む習慣がないことは良いことだが、それのせいで肝心な時に飲み忘れをするのはよくないことだ。
洗顔や歯磨きなどを一通り済ませてから部屋に戻ると、朝の日差しがうっすらとベッドを照らしていた。
「うー、何をしようか」
今日も朝から夕方まで部活のつもりだったので課題は済ませている。
だからといって、フルートを吹いていると風邪がぶり返しそうで怖い。
体を動かすとこれまた体調が悪くなってしまうかもしれないし、弟妹たちと遊ぶのもうつしてしまう可能性を考慮して出来れば避けたい。
つまりは、やることがないのだ。
「仕方ない、大人しく寝ているか……」
崩れた布団を直して、中へと潜り込む。
フルートと勉強を取ったら私には何も残らないのかと若干へこむ。
病み上がりに出来ることも限られてくるのだが、なんだか仕事人間みたいで嫌になる。
布団に入って天井を見つめると、再び楓花にキスをされたことを思い出した。
「ファースト……キス…………だよね」
人生初のキスだったが、不思議と嫌悪感は無かった。
受け入れてしまって良いのかは別として、楓花と恋人のような関係になるのも悪くないと考えている私がいる。
本当に倫理観とかは完全に無視だ。
確か同性愛が容認されている国もあった気がするが、生憎ここは日本。
同性愛はまだ認められていない。
もちろん、それくらいは楓花も知っているだろう。
でも、彼女は私にキスをしてきた。
女子校に通っている私はふざけてキスをするクラスメイトを見たことがある。
しかし、昨日の楓花は少なくともふざけているようには見えなかったし、唇に唇を重ねてきた。
目が合った時に一瞬残っていた楓花の思いつめた表情がよみがえってくる。
すぐに驚きの表情に変化したが、私はそれが忘れられなかった。
「キスってあんな感じにするものなのかな……」
昨日、ファーストキスを終わらせたばかりなので偉そうなことは言えないが、知っている限りでは、悲しいものではないはずだ。
楓花は何に悩んで、どうして悲しい表情で私にキスをしたのだろう。
恋愛経験が無い私には分からないことばかりだった。
それからあれこれ考えてみたものの、結局のところ答えは出ずに眠ってしまっていた。
次の朝、起きてみると昨日のようにめまいがするわけでもなく、いつも通り元気な私に戻っていた。
いつもの時間に起床し、いつものように身支度を整えて朝食やら弁当やらを作り学校へ行く。
唯一、楓花と顔を合わせることに少しの恥ずかしさがあり、楓花のキスに関してまだ明確な答えは出ていないけれど、それはそれ。
これまでキスほどはいかなくても、頬に付いたクリームを舐め取ったり思いっきり抱きしめられたり、近いことはやっている。
長い間親しくやっているので今更こんなことで関係性が壊れることはないだろうと楽観し、家を出た。
だが、それはどうも見当違いだったのか。
「え。今日、楓花休み?」
昼休み、一緒にご飯を食べようと隣のクラスへ足を運んだが、楓花は欠席をしていた。
何かと移動教室が忙しく、昼休みまで知らなかったがどうも体調不良らしい。
一瞬、心がきゅっと痛んだ。
一昨日に私の看病をしてくれたから、風邪がうつってしまったのではないだろうか。
普通の看病ならまだしも、手を繋いだりキスまでしたりしてしまったのだ。
それだけ伝染の確率も上がるだろう。
そこまで考えて、楓花のキスは私の風邪を貰う為の自己犠牲だったのではないか、と3秒ほど分析して、絶対無いなとその可能性をゴミ箱に捨てる。
心当たりがあるので楓花の様子がとても気になったが、彼女のクラスメイトでも体調不良としか聞いていないようで、私は弁当を片手に教室へと戻るしかなかった。
「しょうがない、適当に誰かと食べるかー」
「なら、私と食べないかい、ありやんよ」
その声を聞いて、そのまま教室へ歩き出そうになったが、さすがに無視をするわけにもいかず、振り返るのも億劫だが挨拶くらいはしておこうと未来の方へ向き合った。
「やほー、ありやんったら不機嫌そうだね」
「そう見える? なら、あまり関わらない方が良いかもね、不機嫌なのが伝染しちゃうし」
「ふぅちゃんの風邪みたいに?」
その言葉は私を動揺させるには十分だった。
こういう反応を見て楽しんでいることは知っていたが、動揺を外に出さずにはいられなかった。
「ま、冗談冗談。最近、風邪が流行ってるみたいだし。いくらありやんが風邪でそれをふぅちゃんが看病した結果うつっちゃったからって、責任を感じることなんて無いって」
「もう、そう思ってるなら変な冗談言わないでよね。少なからず私にも責任はあるんだから」
私の風邪が直接うつったわけではないかもしれないけれど、心配させてしまったことが原因ということもあり得る。
あとから聞いた話では、霧崎が電話をして楓花が保健室に駆け付けた際、相当急いで来たのか大汗をかいていたらしい。
相当心配をしてくれていたのだろう。
私も楓花が倒れたと聞いたら全力でダッシュするに違いない。
病は気から、と言うように無駄に心配させた結果が、彼女の体調を崩させたのか。
こんなことは考えても無駄な推測なのだけれど、やはり責任は少なからず感じてしまうものだ。
いくら他人に関係ないと言われても、なかなか気分が晴れないのが捧有栖である。
「立ち話もなんだからさ、取り敢えず食堂に行って昼食タイムにしようよ、ね?」
「もう、分かったから肩を掴むな!」
小学校の頃にやった電車ごっこのように、未来が私の肩を掴んでくるものだから周りの注目を思いっきり集めてしまう。
楓花ほどではないけど、未来もそれなりに美人でコミュニケーション能力も高いので人気なのだ。
急いで肩の手を振り払うと、未来はころころと笑っていた。
どうも私は未来に子ども扱いされているようで嫌になる。
食堂は昼休みなだけあって、それなりの賑わいを見せていた。
それでも、たった2人が座れないほどの満席具合ではないので、適当に空いている席を見つけて座る。
私は弁当を持参しているが、未来は何も持っていないので食料を求めて席を立った。
5分ほどして帰って来た彼女は、フライ定食を載せたトレイを持ってくる。
「フライ美味しいよね。ここの結構サクサクだし」
「へー、結構食堂に来るんだ」
「うん、大体ね。購買でパン買うこともあるけど。ありやんみたいに弁当派ではないかな」
「未来って料理出来るの?」
「イマイチかな。カップ麺とかロールキャベツが得意料理よ」
「なんなのよそれ」
何だかよく分からない返答にどっと疲れが増す。
結局、未来には煙に巻かれてしまうのだ。
「それで? ふぅちゃんは風邪?」
「昨日は連絡していないし、詳しいことは分からないかな。今日もてっきり来るのかと思ってたし」
「ふーん。土曜日は元気だったの?」
「えーと、土曜日は──」
楓花の様子を思い出そうとして、部屋でキスされた方を思い出してしまった。
急いで頭の中の想像を消したけれど、顔がだんだんと熱くなってくる。
未来に変なところを見せるのはあまりよろしくない。
「土曜日は、元気だったよ」
「へー」
未来が何かに反応している。
その証拠に口角が僅かに上がっていた。
これは良くないことを考えている時の顔である。
「土曜日に何かありましたな」
「っ!」
何もなかったよ、と言うにはもう遅かった。
どうして私は、感情を隠すことが苦手なのだろう。
小さい頃から嘘や隠し事が苦手だったし、ババ抜きではジョーカーを持つとすぐに見破られた。
高校生になってもそれは変わらず、特に楓花や未来にはよく笑われる種になっている。
正直なところは有栖の良いところ、そう言ってくれた人は今どう過ごしているのだろう。
「ま、良いや。教えてくれなくても」
「えっ?」
意外にも未来はあっさりと引き下がる。
いつもなら彼女が面白いと感じたことには執着が強いのに。
何か他に別の手を考えているのではないかと勘繰ってしまう。
「これはあんまり踏み込まない方が良い気がして」
「また例の直感ってやつ?」
未来は自分を未来が見える女と称している。
実際、未来なんて見えるはずなく優れた洞察力と直感によるものだと種明かしもしている。
よく分からないけれど、感情を読み取られやすい私は翻弄されっぱなしだ。
「直感ばっかりに頼ってると怪我するんだから。後悔してもしらないよ」
「そうかな? 私は直感も正真正銘の私だと思ってるのよ。直感も実力の内って感じ。だから、失敗しても後悔しないのよね」
「どーだか」
未来は世渡りが物凄く上手いので関係無いのかもしれない。
私とは反対の損をしない性格なのだろう。
ちょっぴり羨ましかったりする。
「あ、そうだ。一緒にご飯食べる目的を思い出した。ありやん、ちょっと相談に乗ってくれない?」
「唐突ね。あんまり時間が無いから手短に頼むわよ」
「了解。私の友達の従妹の話なんだけどね」
「いきなり面倒臭そうな気がする……」
私はお弁当を食べ終わり、片付けながら溜め息を吐いた。
友達の友達から聞いた話でね、という前振りから始まる話は大体信憑性が薄いか、面倒臭い話である。
「その子が恋をしたの。すごく深い愛情を抱いてる」
「あー、恋愛関係か」
それなら私は力になれそうにない。
未来の交際経歴は知らないけれど、少なくとも昨日ファーストキスを済ました人間が上回っている気はしなかった。
そして楓花との関係を恋愛と無意識に捉えている自分に顔が熱くなる。
「それでその相手っていうのが、なんと学校の先生らしくって」
「うわぁ。どうするの、それ」
「でも、先生も満更じゃないらしい」
「いやいや、ダメでしょ」
下手したら生徒は退学、教師もクビになりそうだ。
「それで相談なんだけど、正式に告白するべきかって」
「うーん、反対」
「やっぱり、ありやんは即答かー」
未来は嘆息して、椅子へもたれ掛かった。
「それって誰も幸せにならない気がする。駆け落ちして心中みたいな」
そんな文学作品があったような気がする。
大体、ハッピーエンドにはならないのがオチだ。
「やっぱり、禁断の関係だから?」
「それもあるけどね。世間から良い目で見られないよ」
そこで禁断の関係という言葉について、私自身思い当たりがあることに気がついた。
世間から良い目で見られないよ、その言葉が未来の口から発せられたように感じる。
「私もそんな経験無いからさー、相談されても困るのよねー。だから、色々な人に聞いてアドバイスの材料を探し回っているとこ」
「そうなんだ……」
その色々な人に楓花は含まれているのだろうか。
何故だか怖くて聞けなかった。
放課後の音楽室は、人数が少なく、練習はまだ始められそうにない。
後輩が挨拶をしてくるのに返して、椅子に座る。
挨拶の中には、土曜日に倒れた私を心配する声が多く、想像以上に心配をかけていたことを知る。
後で謝罪をしなければ。
フルートの準備をしながら、私は昼休みの食堂でのやり取りを思い出していた。
教師と生徒、女性同士。
どちらも禁断の関係だ。
世間から良い目で見られないよ、自分で発した言葉がトゲのように心に刺さっている。
今すぐ抜いてしまいたいのだけれど、実際に手で抜いてしまえるわけもなく。
もし日本が同性愛を普通に受け入れる国だったら、もし私か楓花が男だったら。
ただただ無意味な『もしも』を考えて繰り返すだけ。
「────長」
日曜日に思っていたこととは真逆で、会えば解決するという考えが会いづらいに変化していた。
まさか楓花に会いづらいと思う時が来るとは思わなかった。
「──部長」
では、このまま会わないのか?
それは無理な話である。
もしかしたら、この時も風邪で寝込んでいるかもしれない。
赤い顔をして苦しんでいる彼女の姿を想像する。
だが、部活終わりに楓花の部屋を訪ねる勇気が私には有りそうにない。
「捧部長」
「え?」
「やっと返事をしてくれましたね」
気付けば目の前に霧崎が立っていた。
音楽室には大体の部員も揃っている。
どうやら霧崎は何回も呼んでくれていたらしいが、長い間スルーしていたようだ。
そのことを謝って、軽く咳払いをしてから今日の部活の指示を出す。
「今日は各自で練習すること。合わせて練習はしません。あと」
部員みんなを見渡してから私は頭を下げる。
「土曜日はすみませんでした。部のみんなには、私の体調管理が原因で迷惑と心配をかけました。謝罪します」
土曜日にあんな醜態を晒したのだ、今日も考え事をして腑抜けてはいられない。
だが、いくら集中しようと思っていても出来ない時は出来ないものだ。
そもそも、本当に集中している時は集中しようと考えないわけで。
結局は張りぼてで、簡単に見破られる虚勢なのである。
「部長、まだ体調が悪いのですか?」
「い、いや。もう治ったけど」
その率直な問いにたじろいでしまう。
言葉こそ敬語だったが、彼女の表情は平坦で、単純に真実だけが知りたいという目をしていた。
「いえ、今日の部長の音がどこか悲しそうだったので」
「そ、そうかな?」
自分で実感が無いので結構な重症なのかもしれない。
音が悲しそうとは、演奏者の精神状態が演奏そのものに影響を与えていることを示しているのだろう。
彼女とは半年ほどマンツーマンでやっているので、細かい変化も分かるのかもしれない。
「流石、霧崎ね。外に出さないようにしてたのがバレてしまうなんて」
「部長の素晴らしい演奏を毎日聴いていますからね。調子が悪いと分かりますよ」
「そうやって言ってくれるのが嬉しいかな」
音の調子が分かるだけでなく、年上にも率直に意見が言えるのは大きな長所だ。
やはり、彼女をパートナーに選んで良かったと思う。
白百合学園の吹奏楽部には、部長がマンツーマンで指導する人間が次期部長という伝統のようなものがある。
前部長から指導を受けていた私は自分が部長になるなんて、想像が出来なかったけれど結局は吹奏楽部の長を名乗っている。
もちろん、この伝統通りだとフルート担当以外の人間が部長になることが無くなってしまうので必ずしもそうではないのだが、私のパートナー選びは他の人よりは慎重に選ぶ必要があった。
そんな中で霧崎を指名したのは、彼女の吹奏楽に対する情熱と冷静な判断力を買ってのことである。
「そういえば、今日って小鳥遊先輩はお休みですか?」
「え、あ、うん」
唐突に霧崎の口から楓花の名前が出て驚いてしまう。
珍しく霧崎が楓花に用事があるのだろうか。
「体調不良みたい。何か用件があるなら伝えておくよ」
伝えておくよ、の言葉が上手く出なかったことが少し悲しい。
今は楓花に会いたくないと考えている自分が心のどこかにいるのか。
「いえ、部長を看病した時の買い出しのお釣りをお返ししようと思いまして」
今日の休み時間に楓花のクラスまで来ていたのだが、欠席だったので困っているようだった。
「明日か明後日には来るんじゃないかな。その時に渡せば?」
「はい、そうします……あの、もう1つ聞いて良いですか?」
そう言って、彼女にしては珍しく何か言いにくそうにしている。
「ん? 霧崎、どうかした?」
「私がこんなことを聞くのは出過ぎた真似かもしれませんが、小鳥遊先輩と何かあったんですか?」
「…………どうして、そう思うの」
「いえ、一昨日、私が買い物に行く前と後では小鳥遊先輩の様子が全く違いましたので。そして、部長の調子が悪くて、小鳥遊先輩が欠席しているこの状況から推理してみると、何か良くないことがあったのかなと」
布団を被って寝ていられた私と違って、楓花は勢いでキスをしてしまった精神状態を隠さなければならなかったのだ。
それを霧崎に見破られても仕方がない。
「特に悪いことはなかった、うん」
「…………そうですか」
どこか納得出来ない表情の霧崎だったが、それ以上は何も追求して来なかった。
私が話しにくくしているのを感じ取った故の後輩の優しさなのかもしれない。
「とにかく、本調子になってないのは指摘通りかも。1日でも早く感覚を取り戻すよ。このままだと、全体練習の時に偉そうに指導なんて出来ないからね」
「はい。また厳しい指導をお願いします」
優しい笑みを浮かべる後輩に応えられるように、何かと抱えた問題を解決しなくてはと改めて感じる私だった。




