十、熊の博士は大志を抱く
主な登場人物
・藤谷 鷹太郎 ・藤谷 美虎
・紅亜
・望月 典馬 ・笠井 蛍冴
「鷹太郎、死んでる?死んでるよね?」
かすかに、幼げな少女の声が頭上から聞こえる。天使?いやまさか。
瞼を徐々に開いていくと、目の前には美少女の心配そうな顔があった。
「なんだ、紅亜。お前も死んだのか」
額にデコピンをされる。
「いたっ」
「そんなわけないでしょお。ほら、早く起きて。特訓始めるよ」
紅亜は呆れるようにそう言うと、立ち上がって俺の視界からはずれた。
あたりを見渡す。遊具が錆びたブランコと滑り台しかない、廃れた雰囲気の小さな公園。ここは……天月公園?なんで?
体を横にしていたベンチから頭を上げると、なにやら体のあちこちが痛む。あぁ、美虎にボディプレスを食らったんだった。……いい加減、もうこれ以上の臨死体験は勘弁してもらいたい。
「こっちこっち」
俺の前にはじめて現れたときと同じ、朱色の着物を着た紅亜が手で招いてくる。
「あー分かったよ。待てって」
仕方なくベンチから立ち上がり、紅亜の元へ向かう。天気は曇り空。今にも雨が降ってきそうな雰囲気だ。なんかテンション下がるなぁ……。
「じゃあ、今から特訓をはじめまぁす」
……。
「そっ、そこはいえーい、でしょ!」
いや知らんけども。
「じゃあ、今から特訓をはじめまぁす」
「ぃえーぃ」
「声が小さい!はいもう一回!」
コホンと小さく咳払いをして、
「じゃあ、今から特訓をはじめみゃ……」
噛んじゃったよ。てかどんだけ特訓はいるのに時間かけなきゃいけないんだよ。
「……はじめまぁす!礼!」
「え、あ、おっお願いしまぁす!」
なんで試合みたいになったんだ。審判か君は。
「よしおっけー!じゃ、今からやることを説明するね」
黙って頷く。紅亜は依然としてはりきっているようだが、俺はやっぱりどうにも気乗りしない。
でも、こいつを彼女にするためには、ライオンを一人で……死ぬんじゃねぇか?俺。
「ちょっと! 聞いてよ!」
ぼんやりしていた俺に紅亜から喝が入る。
「聞いてるよ」
「……むぅ。で、今からやるのは、熊猫族の基本となる武術《舞爛拳》の練習。お手本を見せるから、それを真似してね」
そう言うと、紅亜は以前やった風鈴のような音の鳴る指パッチンをする。すると、前とは比べ物にならないほどの大量の黒い煙が出現し、徐々にその奥から巨大なシルエットが姿を現していく。
黒煙が晴れた先にいたのは、熊だった。そう、かなり巨大な熊さん。つか、この大きさはありえない。全長5メートルほどある。
「よーく見て、真似するんだよ」
すると紅亜も、黒い煙と共にパンダに変化する。それから間も置かず、目にも留まらぬ速さで巨大な熊へと走っていくその様は、まるで勇猛果敢な騎士のようだ。
一方熊の方もこちらへ向かってくる白と黒の生命体に気づき、右手を上へ挙げて攻撃の態勢をとる。
紅亜の奴、真正面から突進してるけど大丈夫なのかあれ。あんな熊にぶん殴られたら、大怪我じゃ済まされないぞ。
だが、そんな心配は必要なかった。紅亜は熊の右手が振り下ろされると同時に、突如その場から姿を消し去り、次の瞬間には熊が鈍い悲鳴をあげて前のめりに倒されていたのだ。
一体、何が起こったのかわからなかった。何今の?なんで姿が消えたの?マジック?
人間に戻った紅亜は別に喜びを表情に浮かべるわけでもなく、「こんぐらいできてあたりまえでしょ」とでも言いたげな顔をしていた。えー、マジで。
「今のが舞爛拳。相手が攻撃を仕掛けてくる直前のタイミングで背後に回りこみ、強烈な一撃を叩き込む。回り込み、叩き込む。分かった?」
「理屈は分かるけど、そんなの人間の俺には無理だろ。なんだ、その……フランケン?」
「舞爛拳!」
「っていうの。っつか、あんなのがこの公園に居たら、その内大騒ぎになるんじゃないか?」
俺は紅亜の後方に倒れている巨大な熊を指差す。
「だいじょぶだいじょぶ。あの熊、あたし達にしか見えないから」
じゃあなんだ。道行く人には、一人で格闘ごっこをしているただの痛い人に見えるのか。俺が。
「ほら、やるだけやってみよー!」
ノリノリで腕を掲げる紅亜。そんな簡単に言わないでくれ。幾度の死線を乗り越えてきた俺でも、さすがに熊さん相手はキツイだろ。
「……ちなみに、あいつには触れるのか?」
「え? 何言ってるの。そうじゃなきゃ倒せないでしょ?」
ま、そりゃそうか。自分は触れるけど、あちらは触れない、みたいな都合の良い設定を期待してたんだけど。
「……まぁ、いっか」
やるだけやってみればいいか。どうせピンチになれば、あいつが術とか使って助けてくれんだろ。きっと。
「じゃ、再始動!」
紅亜がはつらつな声色でそう叫ぶと、うつ伏せに倒れていた熊が突如起き上がり、素早くボクサーの様な構えをとってきた。おい待てや!さっきよりもバージョンアップな熊さんじゃねぇか!
びびり気味の俺を見兼ねて、紅亜は気休めの言葉をかけてくる。
「だいじょぶ、こっちが攻撃をしかけてこない限り、クマーク博士は何もしてこないから」
「嘘つくな!クマーク博士すり足でどんどんこっちに近づいてきてるぞ!」
ずっ、ずっ、と砂を巻き上げ近づいてくる博士。恐怖で体が震える。鼓動が跳ね上がるように回数を増す。
それでも、大丈夫、大丈夫と自分に自己暗示をかける。次に戦うのはライオンだ。体躯ばっかり大きいだけの熊なんかにびびっていられるか。
一歩、足を踏み出してみる。すると、自然に二歩、三歩と歩みを進めることができた。もう……このまま突っ切れぇ!!
「うらぁぁぁぁ!」
恐怖に体が支配されることを恐れ、大声を出してクマーク博士へと走っていく。今更だけど、クマーク博士って絶対パクっただろ!
天候はどんより曇り空からなんとまさかの晴れ。そのお陰か、俺のテンションもいつの間にか最高潮だ。
クマーク博士まであと3メートル、というところで先手の攻撃を打ち出してきたのは、やはりあちらだった。大木のように太い腕が、俺目がけて襲いかかってくる。すかさず左へ飛んで攻撃を避けようと試みたが、やはり遅かった。右腕に強烈な重さがのしかかり、骨が悲鳴をあげる。巨大な拳から伝わる感触に、吐き気がするほどの不快感を覚えた。
俺はそのまま前転をするようにクマーク博士の横へ飛び、距離をとって態勢を立て直す。右腕はかろうじて俺の胴体にくっついているような状態で、まったく力が入らない。脱臼、もしくは骨折か。
痛みに顔を歪めながらも、ちゃんと状況を整理するべく頭をフル回転させる。
クマーク博士のジャブ、思ったより全然早いぞ。しかも、重い。……だが、近づかなきゃダメージは与えられない。タイミングさえ計れば、なんとか避けきれる可能性はあるが。」
舞爛拳だか腐乱拳だか知らないが、あれは元々そこらの人間には無理な武術だ。
だが、それを応用した違う方法なら、俺でもできる……と思う。
紅亜へ目をやると、腕を組んでじっとこちらを見据えていた。色々期待してたんだけど、助けてはくれなそうだな。
俺は先程と同じ、すり足で近づいてくるクマーク博士に視線を戻す。
さっき見たときより、怖く感じてしまう。実際に怪我を負ったからだろう。
でも、逃げたいとは思わない。
「覚悟しろやクマァク!!」
震える声で自身を鼓舞し、震える足で地面を蹴り上げる。
クマーク博士は依然ボクサーのように両手を胸の前で構えたまま。その状態から、腕が伸ばされる瞬間。そこが狙い目だ。
全速力でクマーク博士との距離を縮めていく。5メートル、4メートル、3メートル……。
だが、そこで予想外の問題が生じた。クマーク博士がなんと、足をチアリーダーのように天へ向けて振り上げてきたのだ。かかと落としの構え。
うわマジかよ!やばい殺される!
……などと焦る必要はなかった。むしろよろこぶべき状況になったのだから。
俺はすぐさまクマーク博士の股の下を飛び込み前転で潜り抜け、相手の背後をとった。
右手は使えない。左手は威力が弱い。
なら、足を使うまでだ!
「くたばれ博士ぇぇぇぇ!!」
俺は全体重を左足におき、渾身の一撃となる右足の蹴り上げを、クマーク博士の股間に叩き込んだ。
そもそも熊にとって股間が急所であるのかは分からなかったが、一か八かだ。
…………。
沈黙。
恐る恐る顔を上げてみれば、クマーク博士は俺の顔を見つめ、「え?今なにかした?」とでも言うように呆けた表情をしていた。
頭の中に、ベートーベンの「運命」が流れる。ててててーん。
だが、そんな絶望もすぐ消え去った。
ここへ現れ出たときと同じように、風鈴のような指パッチンの音でクマーク博士は黒い煙に包まれたのだ。
煙が晴れたところには、先程の巨大な熊はもう居なかった。
「鷹太郎!いえーい!」
その代わり、そこには紅亜が笑顔で立っていた。ハイタッチを要求してきたので、それに素直に応える。
「まさかクマーク博士に一撃叩き込めるなんて!見直したよ!」
「なんかその口ぶりだと、俺がボコボコにされるのを予想してたみたいなんだけど……」
実際、右腕が重傷なんだけどな。
「まあね。鷹太郎がボコボコにされて、降参するまでやろうと思ってたから」
「はぁ……そんな特訓何のためにもならないだろ」
「何言ってるの!これで鷹太郎も『股蹴り』っていう新技を覚えたでしょ!」
あー……もうどうでもいいや。早く帰って休みたい。つか、右腕痛い。
「なぁ、じゃあ特訓は成果があった、って事でいいんだよな」
紅亜は満足気に頷く。
「まあそうかも」
そうかもってなんじゃい。
「なら頑張った俺の願いを聞いてもらえないか」
「えー……う~ん、別にいいけど。……あっ、ち、ちゅーとかはだめだよ!それ以外!そーいうの以外!」
そんなの頼むかよ。いや、頼んでしてくれるのなら喜んで頼むけど。
「そうじゃなくて……お前今日ここに来るときに、どうやって意識のない俺を運んできた?」
「え?背中に乗せてきたけど、それがどうかしたの?」
乗せてきた、というのはパンダの状態でのことだろう。それなら。
「じゃあ、帰りも俺を乗せてくれ。まさかこの後も特訓が続くなんてことはないだろ?」
◇ ◇ ◇
人の目がある街中を、パンダの背中に揺られながら家へと帰る少年。
以前は落ち着いて乗っていられないほどのスピードだったが、今回は時間をかけて、ゆっくりと道を進んでいる。
あぁ……心地良い。もうずっとこのまま揺られていたい……。
まぁ当然ながら、そんな俺の願いは叶わないわけで。