限界は既に来ていた
馬車から降りた時には、既に夕刻であった。
空は水色とラベンダーピンクのグラデーションに染まり、あと少しすれば夜の帷が降りるだろう。
(夕食を取ったら、勉強もしなくては)
やることはまだまだあるのだ、休んでいる暇はない。
正門を潜り、疲れ果てたローラを出迎えたのはローラが丹精込めて整えた夏の庭であった。
ローラの好きなものが詰まった、ローラだけの楽園だ。
やっと帰ってこれた。
安堵したら、何だかもう身体が動かなくなって……視界がくるりと回って。
「ちょっと、ローラ!
大丈夫!?」
ローラは静かに、モモの腕の中に倒れたのであった。
◆◆◆
「過労ですわね」
メアリーが大慌てで呼んだ医師は、事も無げにそう診断した。
王太子妃教育と、連日にわたる魔法の酷使でローラの身体は限界を迎えていたのだ。
「薬などは必要なさそうですね。
今日明日は療養し、ゆっくりされるといいでしょう」
「はあ……」
貴族の令嬢や夫人を主に診ている、王都で唯一の女医は皺の刻まれた瞳を細めて微笑んだ。
「どうぞ、お大事に」
「ありがとうございました、先生」
医師を見送るために共に退室したメアリーを見送った後、ローラは表情もなく寝台に沈んだ。
天蓋のレースから、天井が透けて見える。
「……」
何も考えなくていい時間なんて、いつぶりだろうか。
思い返せば、かなりハードなスケジュールをこなしていたように思う。
「倒れるのも無理はない、か……」
不甲斐ない、そう思ってしまう自分に言い聞かせるようにローラは一人呟いた。
消化の良いミルクパン粥を夕食として食べた後、部屋でぼんやりとしていたローラはノックの音に視線をドアへと向けた。
「はい」
「アタシよ、今ちょっと良いかしら?」
その野太い声とそれに見合わない女言葉は、紛れもなくあの教育係だ。
少し迷った後、ローラは寝間着の上に薄手のカーディガンを羽織り、ドアを開けた。
「もう休みたいので、手短にお願いします」
「ええ、分かってるわ。
これを渡そうと思ってね」
穏やかに微笑んだモモが差し出してきたのは、金と紫のリボンで結わえられた可愛らしい布袋であった。
「……サシェ、ですか?」
「ええ、そうよ。
アタシお手製の、とっても眠れるヤツなの♪」
黒猫の刺繍が施された布袋からは、嗅いだことのないスパイシーながらも甘やかな、複雑な香りがする。
異国情緒を感じるその香りは馴染みのないものだが、爽やかさも感じるその香りは嫌いなものではなかった。
「貴方の世界にある植物なのかしら?」
「ジンコウっていう、昔の高貴な人が炊いていたりしてた香木ね」
「そう……」
受け取った香袋を、そっと鼻先に近付ける。
成る程、確かに心落ち着くような気がした。
「ゆとりある心を作るにはまずは睡眠、しっかり寝ないとお肌も心も元気を無くすわよ」
「……」
「貴女寝不足なんでしょう、それ枕元に置いてしっかり寝なさい。
……明日の事は、明日考えましょう?」
確かに、明日もスケジュールは詰まっている。
ブロッサム家が支援している孤児院の訪問に、魔法院での魔法訓練に、王妃の約束もある。
(他二つはともかく、王妃様との約束は破れないわね)
そっと溜息をついたローラが、香袋の黒猫を撫でる。
モモは、もしかしたら黒猫が好きなのかもしれない。
そう考えながらローラはちらりと青い瞳でモモを見上げた。
「ありがとうございます、今日はこれで休ませてもらいますね」
「うふふ、おやすみなさい」
片手を振り、モモはドレスを翻して軽やかに立ち去っていく。
その後ろ姿を見送った後にそっと扉を閉じたローラは、ベッドに腰掛けながら香袋を摘み上げる。
「ジンコウ、知らない香りだわ……」
すん、と鼻を鳴らしてから枕元に香袋を置く。
魔法の酷使で眠れなくなる事は何度かあったが、試したマッサージや安眠グッズなどはあまり効果がなかったように思う。
ふわふわの枕に頭を乗せ、ただぼんやりと息をする。
異国めいた香りが、何故か心を落ち着かせていく。
眠れずとも、身を休めるだけでもしておこう。
ローラはそっと目を閉じ、静寂に身を任せるのであった。




