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第6話 ――境界のない身体

家に帰ると、玄関の明かりがついていた。


「おかえり、透」


母の声。

いつもと同じ調子。


それが、少しだけ胸に刺さる。


「……ただいま」


靴を揃える。


この家も、家族も、私の居場所も、何一つ変わっていない。


変わったのは、私だけだ。


夕飯は、あまり覚えていない。


箸を持つ手。

湯気。

妹のどうでもいい話。


ちゃんと受け答えはしていたと思う。


でも、意識はずっと、別のところにあった。


「先にお風呂、入っていい?」


そう言うと、母はすぐに頷いた。


そのやり取りすら、昨日の続きみたいで。



脱衣所で、制服を脱ぐ。


ブラウス。

スカート。

下着。


視線を落とすのが、少し怖い。


でも、逃げられない。


鏡の中には、昨日も見たはずの私がいる。


東雲透。


女子高生。


……でも。


「……はあ」


小さく息を吐いて、浴室に入った。


湯気が、視界をぼかす。


シャワーを浴びると、熱い水が肩を伝って流れ落ちた。


身体に触れる。


腕。

胸。

腰。


どれも、もう「知っている」感触なのに、

同時に、まだ「他人」のままだ。


男だった頃の身体の記憶は、はっきり残っている。


重心の位置。

歩くときの感覚。

何も考えずにしていた動作。


それが、今は一つひとつ、意識しないと噛み合わない。


浴槽に浸かる。

お湯が身体を包む。

浮力で、輪郭が曖昧になる。


胸も、腰も、脚も、

形の違いが、少しだけ溶けていく。


……こうしていると、

男とか女とか、どうでもよくなる。


でも。


ひなたの顔が、浮かぶ。


「今は、近い気がします」


その言葉を思い出した瞬間、


胸の奥が、きゅっと縮んだ。


近い。


それは、身体の距離だけじゃない。


声。

視線。

立ち位置。


もし、私が男のままだったら。

もし、事故がなかったら。


この「近さ」は、なかったはずだ。


私は、男だった。


でも、今は女で。


ひなたは、私を“先輩”として見ている。


同性として。


その視線を、

私は受け取ってしまっている。


「……ずるいな」


誰に向けた言葉か、自分でも分からない。


彼女の気持ちを、

男だった頃よりも、


近くで、直接感じてしまう。


それを、


拒む理由はあるのに、


拒む覚悟が、追いつかない。


お湯の中で、指を握る。


開く。


この手で、誰かに触れたら。


触れられたら。


そのとき、私は――

男でも、女でもなく、



ただの「東雲透」になれるんだろうか。



長く浸かりすぎたらしい。


少し、のぼせてきた。


湯船から出ると、

身体に残った水滴が、冷たい。


タオルで拭きながら、思う。


答えは、まだ出なくていい。


ひなたに、

みな子に、

家族に、

そして、自分に。


私は、もう一度、

「待つ側」になっただけなんだ。


風呂場の鏡が、少し曇っている。


指でなぞると、そこに、はっきりとした輪郭が現れた。


女の身体をした、私。


……それでも。

この気持ちまで、

嘘になったわけじゃない。


そう思えたことだけが、

今夜の、唯一の救いだった。

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