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第14話 ――知らなかった横顔

放課後の教室に、私は一人だった。


机の上には、英語のプリント。

赤ペンで直された解答用紙。


補習。


たった一人の。


窓の外は、まだ明るい。


誰もいない教室は広くて、

自分のペンの音だけが、やけに響く。


関係代名詞。仮定法。時制の一致。


……全然、分からない。




ドアが、開いた。


「失礼します」


聞き覚えのある声に、背筋が伸びる。


振り返ると、ひなたが立っていた。


鞄を抱えて、少し照れたように。


「……なんで、ここに」


「小笹先輩に聞きました。透先輩、補習だって」


みな子。


……やりやがったな。




ひなたは、ドアの前で少し迷ってから、

隣の席の椅子を引いて座った。


近い。


昨日の展望台より、物理的に。


教室の蛍光灯が、やけに明るい。


夕暮れでも、夜でもない。

ただの放課後の、白い光。


この距離で、この明るさで、向き合うのは。


……照れる。


「あの」


「はい」


目が合う。


一秒。


二秒。


「……勉強、やろう。勉強。」


「……そうですね。勉強。」


ふたりとも、プリントに目を落とす。



ひなたの説明は、分かりやすかった。


驚くほど。


「ここの関係代名詞、先行詞が人だから who で――」


「あ、それでこっちが which になるのか」


「そうです。で、この文は主格じゃなくて目的格なので――」


すらすらと、淀みがない。


ペンを持つ指が、テキストの上を滑るように動く。


見慣れたはずの後輩の横顔が、

少し、違って見えた。




……そういえば。


この子、入学式で答辞を読んでいた。


壇上で、まっすぐ前を向いて、原稿も見ずに。


あのときの記憶は、男だった頃の僕のものだ。


体育館の後ろの方の席から、

「すごい子がいるな」とぼんやり思った。


東帝大の文科三類を志望している、という話も聞いたことがある。



あのとき壇上にいた一年生が、

今、隣で、英語を教えている。




「……先輩?」


「あ、ごめん。聞いてた」


「本当ですか?」


「本当本当」


ひなたが、少し怪しそうにこちらを見る。


でも、すぐに柔らかく笑って、

プリントに視線を戻した。


「じゃあ、次の問題いきますよ」


「……はい」


敬語が逆転していることに、

たぶん、ふたりとも気づいていた。



窓の外が、オレンジ色に変わり始めていた。


「ここまで分かれば、来週は大丈夫だと思います」


ひなたが、プリントをとんとんと揃える。


その仕草が、やけに手慣れていて。


また少し、知らない顔を見た気がした。


「ありがとう」


素直に、言えた。


ひなたは、一瞬だけ目を丸くしてから、


「……いえ」


と、小さく笑った。


鞄を持って、席を立つ。


ドアの前で、振り返る。


「先輩」


「うん」


「次は、ちゃんと点取ってくださいね」


後輩の顔だった。


でも、目は。


少しだけ、あの夜と同じだった。


「……善処します」


ひなたが笑って、ドアが閉まる。


一人になった教室で、

私はプリントを見下ろした。


ひなたの字で書かれた補足メモが、

余白にいくつも並んでいる。


丁寧で、きれいな字。


……知らなかったな。


こういう顔をする子だったんだ。


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