君が痛みを奪うから、俺はあなたを攫う
秋風が、神殿の渡り廊下をすり抜けていく。祈りを終えたリシェルは、手を胸の前で握りしめた。まだ指先に痺れが残っている。
リシェルは人の痛みを引き受け、傷を癒す聖女だ。
王太子の病は芳しくない。彼の命が終わりに近づくとき、リシェルは引き受けて死ぬだろう。
回廊をゆっくりと歩いてくる、影。
「…ラセル」
少し日に焼けた顔、褐色の髪に紺色の瞳、騎士はリシェルに気づき、ゆっくりと足をとめた。__右腕を後ろに隠して。
「ラセル、見せて」
「いけません」
ラセルはまるで怯えるように一歩下がった。
「私は猛獣ではないわよ?」
「知っております。__だからこそです」
リシェルは有無を言わさずラセルの右腕に手をかざす。じわり、とした熱。焼けるような彼の痛み。
「リシェル様……!」
慌てたようにラセルが身体を支える。
「……平気。でも肩を貸して」
無言でラセルは部屋まで送ってくれた。物言いたけな瞳。でもそれに無理に笑って見せる。
この騎士は、これだから。
「……たちが悪い」
聞こえないくらいの呟きをひとつ。少しでも長く側にいられれば良いのに。
密やかな願い。
それが崩されたのは5日後のことだった。
「王太子殿下、危篤! リシェル様、すぐお越しを」
侍従に呼ばれて、覚悟を決める。今日が私の終わる日だ。視線が自然とラセルを探す。
彼は王太子のそばに静かに控えていた。俯いたまま。
ふと、目が合う。ラセルの瞳が大きく揺れる。
「あなたの主人は助かるわ」
柔らかく微笑んで、王太子の手を取れば、重たい痛みに襲われる。
___死の気配。
ごふり、と口から赤がこぼれる。
「やめろ、リシェル!」
ラセルが叫ぶ。可笑しいの。こんな時なのに笑いが込み上げてくる。あなた、叫ぶような人じゃないでしょう?
リシェルは尚も王太子の手を握り続ける。
「やめてくれ……!」
それはどろりとした懇願だった。まるで、忠誠、愛情、狂気、それらをすべてにつめたような。
手を取られ、王太子から引き剥がされる。
「ラセル?」
その瞬間、彼に強く抱きしめられた。それは縋り付くような、失いたくないという抱擁。
「ラセル、だめよ。あなたは騎士でしょう? 主人を救わないと」
胸を掴まれた気がした。涙が出そうになるのを堪え、諭す。
「嫌だ」
異常に気付き、他の騎士がやってくる。
「何をしている?」
ラセルは答えず、リシェルを腕に抱いたまま、無言で剣を抜く。
「どけ」
その声は低く、冷たく、しかし何より守るという意思があった。
「リシェル様は死なせない」
「俺が許さない」
言い切り、肩に抱え上げられる。
「どうか攫われてください。責任は全て俺に」
反逆__その言葉が浮かぶ。
「やめなさい。ラセル」
「いいえ、やめません」
一度、リシェルを下ろし、一瞬のキス。でもそれで伝わった。伝わって、しまった。
何も言えなくなったリシェルを抱え上げて、ラセルは夜闇に消えた。
月の光が王都の屋根を淡くなぞる。ラセルの腕の中、リシェルはひたすら揺られていた。
腕の力は、強い。疲れているはずなのに、まるで手を離したら、リシェルが消えてしまうと言わんばかりに。
「……降ろして。歩けるわ」
ラセルは無言でぎゅっと腕の力を強める。
「……怖い」
溢れた声があまりにもらしくなくて、リシェルは聞き返した。
「後悔してるの?」
いいえ、と彼は首を振る。
「離したら……あなたが消えてしまいそうで」
苦しそうに眉を寄せて。
追っ手の迫る声がする。ラセルは速度を速めた。
森に入り、枝葉が頭上を覆うと、ラセルはやっとリシェルを降ろした。
けれど、リシェルの手は、繋がれたまま。
「疲れたでしょう、ラセル」
ラセルはようやく立ち止まり、その焦げるような瞳をリシェルに向けた。
「あなたが無事なら、どうでもいい」
「……っ」
胸の奥が揺れる。彼の指が、リシェルの頬に触れた。優しく、確かめるように。
「リシェル様、今だけは、俺を拒まないで」
囁く声が、夜の冷たさを塗り替えていく。リシェルはそっと頷く。拒む理由なんて、最初から、ないから。
「後から後悔するんじゃない?」
「しない」
即答だった。
「あなたが救われれば、それでいい。もう傷など引き受けないでください」
「ずっとあなたが”誰かの痛みを肩代わりするためだけの世界”なんて壊してやりたかった」
強い眼差しに囚われ、息が止まりそうになる。喉が熱くなった。
ラセルはそっとリシェルの手を取る。指を絡め、離さない。
夜風が二人の間を通り抜ける。
その冷たさで、リシェルは自分が震えていることに気づいた。これは怖さか、それとも……
ラセルは、迷いなくリシェルを抱き寄せる。その瞬間__気付いてしまった。
この恋は止められない。だから震えるのだと。
彼の心臓の音だけが、妙にやさしく響いていた。
城を捨ててから、どれほどの日々が流れただろう。
王都から半日ほど北へ離れた、小さな村の外れ、そこに二人は暮らしていた。
慎ましやかな石造りの家は、かつての華やぎとは程遠い。けれど、今の二人には十分すぎるほどだった。
「……起きてたのねラル」
ここで名乗るのは偽名。裏手から薪を抱えて戻ってきたラセルは、穏やかに頷いた。
「おはよう、リシェ」
穏やかに微笑んで耳元で、
「リシェル」
囁きが耳を打った。
リシェルの顔が真っ赤に染まる。くすくすと笑いながら、ラセルはリシェルを覗き込んだ。
「俺は後悔してない。リシェルは? もう痛くないか?」
「ラセル……」
そっと引き寄せてキスをひとつ。
「私、今、幸せよ」
それが、全てだった。




