対話篇・言葉
翌日、登校すると靴箱に手紙と――なにこれ?こじゃれた紙袋の中に、粉々に砕けた薄茶色の物体。端の方は完全に粉になっている。
手紙には「迷える子羊ちゃんへ」と書かれていた。たぶん、先輩だな。
手紙を開くと
「昨日はありがとう!とっても嬉しい!いやーやっぱにーちぇんはうちに来る宿命だったんだよ。キミがゲートを繋いでくれたから、悲願は果たされた。というわけで、”至宝の果実”をキミに送ろう」
と記されていた。怪文書じみてんな。
”至宝の果実”、ということは、どうやら食べ物であることは間違いない。見た感じ、クッキー?なのか。先輩の、手作り……。でもなんで割れてるんだ……。
試しに一口、食べてみようと手を伸ばした瞬間、それは神風のごとく現れた。
「ちょっと待ってー!!」
先輩だ。俺が持っていたクッキー(らしきもの)を奪い取って、必死に隠している。
「なんすか、先輩」
「い、いや、ね?ちょーっと、失敗しちゃったから!今度ちゃんとしたの持ってくるから!ね、今は我慢して」
「別に気にしないっすよ」
「ダメ!ダメなの!こんな、粉々になったの、感謝を伝えるには、失礼だし!」
「いいって言ってるのに……」
「とにかく!ダメなの!!キミにふさわしい”至宝”が準備できたら、またあげるから!じゃ!」
ものすごい勢いで走っていった。クッキーの袋を、全力で抱きしめて。あれじゃ、余計粉々になると思うんだけど。
「言葉ってさ、難しいよね」
今日もまた唐突に先輩が現れて、深そう(深いとは言っていない)なことを喋りかけてきた。
「今日は何ですか?ソシュール?チョムスキー?」
「いや、今日は”言葉”そのもの」
先輩の”対話”は、いつもこうやって始まる。先輩が気になるテーマを持ってきて、一緒に考える。いつも、先輩が謎の語彙力を発揮して解決せずに終わる。まるで”かんガエル”シリーズのまねっこ。
「言葉ってさ、シニフィアンとシニフィエがあって、合わさって出来てる。どっちが欠けても、成立しないんじゃない?あ、シニフィアンとシニフィエ、”音”と”意味”、ね」
意外と対話中は解説をしてくれるので、多少は理解度があがってきている気がする。それでも、難しい時は難しいが。
音と意味。確かに。発話した音に意味が乗るから伝わる。しかし、前提があってのことだ。
「最初に、”この音”に”この意味”をのせる、って誰が決めたんすかね。その前提がズレてたら、間違って伝わりますよね」
「それはね、正確にはわかんないけど、コミュニティ内で自然と決まったんだと思うよ。”これ”を表したいときに”こう”言おうって。この音と意味の結びつきが”恣意的必然性”。だから、コミュニティ外の人には、うまく伝わらないんじゃないかな」
先輩が難しい顔をして宙を仰いでいる。
「音、もしくは意味。どちらかがない場合、言語としては成立していない。もし耳が聞こえなかったら、音は絶対伝わらない。でも、意味は伝わるよね?ジェスチャーとか、雰囲気で。その一方、意味がない音、たとえば……”がらめにことらとい”、なんて言っても”で?”って終わっちゃう。これって、意味のほうが優先度高いのかな?でも言葉がないと、曖昧だね」
謎の言葉、”がらめにことらとい”。たしかに、これが伝わっても……ん?待てよ……。
「意味が乗ってなくても、何か伝えようとする”意思”は伝わるんじゃないっすかね。伝えたい気持ちはわかる、ような」
「なるほど、例えばブルシャスキー語で何か言われてもわかんないけど、何か伝えようとしてることはわかるもんね。」
なんだその言語。初めて聞いた。ホントにあるのか異世界の言語なのか、どっちかわからん。
「でもさ、よく考えたらジェスチャーとかは音じゃないけど、意味の外的表れだよね。シニフィアンと言っていいかも。ハイコンテクストだから、正確な意味は伝わらないけど。やっぱり、シニフィアンとシニフィエは切り離せないのか。言葉にして言わないと伝わらないこともあるし。あ、でも言葉にしたら伝わらない、ってこともあるかも。シニフィエがシニフィアンに固定されちゃう可能性が」
「あれはどうです?”おなかすいた”と、”これ食べてもいい?”。シニフィアン?が全然違いますけど、シニフィエ?はどっちも”食べたい”」
「ほう。それはセマンティクスとプラグマティズムの違いだね。まっすぐ意思を伝えるか、間接的に伝えるか。その意味は、コンテクストによって決まる。語用論的意味決定だね」
だんだんわかんなくなってきた。いつもの感じ。俺がついていけなくなってからが本番。
「……あのさ、キミに質問」
「なんですか?」
「キミって、言葉の裏、読める方?」
「なんですか、それ」
「キミってさ、いつもまっすぐ話すじゃない?正直というかさ?そんなキミでも、人の言葉に敏感になったりするのかなって」
先輩、誰かに何か嫌味を言われたのか……?なんでこんなことを。
「どうしたんですか?何か、あったんですか」
「ううん、私じゃなくて……」
言葉に詰まる先輩。珍しく、長考してる。なんか、顔色悪い……?
「もし、もしだよ?自分の気持ちを、正直に伝えられなくて。……違うシニフィアンで発話している人がいたら、キミは……気づける?」
なんだそれ。違う言葉で、本当の気持ちを伝えてる、てこと?
「どうですかね……。その気持ちが、何かによりますね。それと」
「それと?」
「ハイコンテクスト。顔色や雰囲気。明らかにいつもと違うと、わかるんじゃないですかね」
「……そっか」
先輩は少しうつむいて、すぐ顔をあげた。そこにはいつもの先輩。よかった。先輩がどうかしたわけじゃなかった。
「違う話、しよっか」
その後、やたら専門用語の多い”生成文法”とやらを一方的に聞かされた。対話とはいったい。