三人の日常、守るべき時間
ティセには、日課がある。
朝は誰よりも早く目覚め、食事をして、身支度を整える。冒険者ギルドの開業時間と同時に、ギルドホールに入る。そして、依頼掲示板を確認し、自分が得意で、こなせそうな、討伐系のクエストを選ぶ。
ただし、単独で引き受けられる範囲の依頼ばかりだ。単独では危険はともなうが、自由度は高い。特にティセは、できるだけ午前中で終えられる依頼を好む。どれだけ報酬がよくても、長期の護衛依頼や連日の探索依頼には、決して手を出さない。
それは、彼女が剣士である前に「家族」の生活に責任を持っているからだった。
ティセは、午後の空がまだ青い時間に帰る。そう決めている。
帰り道、ティセは、戦闘の返り血がまだ乾ききらないアーマー姿のまま、市場に立ち寄ることが多い。肩にはうっすらと血痕が残り、腰の鞘からは、凍気が微かに漏れている。
一六歳の少女には、とても似つかわしくない、異様な出立ちだ。
それでも人々は彼女に冷たい目を向けることはない。むしろ、いつものように声をかけてくれる。「お疲れさま、ティセちゃん」「今日も早かったね」そんなやさしい言葉が、戦いの疲れをそっと溶かしていく。
市場の人々は、みんな知っている。幼い彼女が、ひとりで二人の子どもを育てていることを。毎日必ず夕方には帰宅するために、どれほど無理をして戦ってきたのかを。
だからこそ、誰も戦士としての彼女を、みようとはしない。市場で、彼女のことを「薄氷」の二つ名で呼ぶものはない。みんな、彼女に対して、普通の一六歳の女の子として接している。
ティセには、市場のみんながオマケをする。旬の果物を一つ多く入れる、お釣りを多く渡す、廃棄することがわかっている商品は、無料で持たせる。
意外かもしれないが、彼女は、そうした好意に、深く礼をいうことはない。周囲の客に、ティセばかりが贔屓されていることを知られないためだ。ただ、静かにうなずき、受け取る。
市場の人々は、ティセのこの仕草が、大好きだ。
ティセは、そうした「ほどこし」に甘えなければ、生きていけないと知っている。強がりをいえる立場ではない。それでも、背筋を伸ばして歩く彼女の影には、いつも不安と責任がまとわりついていた。
ティセは、真に気高いからこそ、守るべきもののために、どう振る舞うべきかを間違えない。自分のプライドを守るのではない。二人の子どもを守るのだ。
◇
買い物袋を手に、彼女は市場を後にし、家路をたどる。その足音の軽さが、命を削って戦った直後のものとは、とても思えない。
家に着くと、ミーナが戸口で出迎えてくれる。
「おかえり、ティセ。今日は早かったね」
「うん、ちゃんと昼で終わる仕事を選んだから」
そのやりとりがあるだけで、どれほど心が満たされるか。ティセ自身にも、言葉にできない。今日も生きて帰れた。戦場にいるときの緊張から、本当の意味で解放されるのは、この瞬間だ。
ラセルは、たいてい、そのあとから飛び出してくる。
「ティセおねーちゃん、聞いて! 今日ね、お庭に、チョウチョが来たの!」
小さな報告が、小さな家の空気を、もっと、やさしく包む。
夕食の支度は、なるべく三人で一緒に行うのが習わしだった。ミーナは包丁の扱いにも慣れてきて、最近ではきゅうりやトマトの薄切りも上手にこなせるようになった。
ティセの横で真剣な顔をしながら、切った野菜をボウルに入れていく姿には、少しだけ「お姉さん」の誇りがにじんでいる。
ラセルは野菜を洗う係だ。蛇口をひねるのはまだ危なっかしいが、手を濡らしながら、楽しそうにきゅうりを転がしたり、時には水を飛ばして、ティセに、小さく怒られたりする。
そのすべてが、彼らの「家」の音だった。
ときどきラセルは、途中でおもちゃに気を取られてどこかへ消える。が、ミーナが「もう!」と呼べば、あわてて戻ってくる。そんなやりとりも含めて、三人の風景であり、何にも代えがたい日常だった。
ティセにとって「夕食は絶対に三人で」が不文律だった。
どんなに疲れていても、どんなに依頼が厳しかった日でも、帰ってきて食卓を囲む時間だけは手放さない。もちろん、時にはこの不文律が守れないこともあるけれど。
暖かなスープと、焼きたてのパン。あたたかい湯と、笑い声。そして三人が一緒にいる。誰かが欠けても、この風景は成り立たない。
この風景を続けること。それが、ティセにとっての戦う理由であり、生きる理由だった。
「明日も、早く帰ってくる?」
ミーナがそう訊ねると、ティセは微笑んでうなずいた。
「もちろん。夕食は、三人で食べるんだから」