静かな朝、剣とパンのにおい
ティセリア=アークロンド(ティセ)は、夜明け前に目を覚ました。
まだ十六歳。けれど、その横顔には、年齢以上の落ち着きと、気高さが宿っている。柔らかく波打つ淡金の髪が肩にかかる。眠たげな目を開けると、凍った湖のように澄んだ青目が、朝日でさらに透き通った。
誰もが振り返るほどの美しさを持ちながら、彼女の表情には、少女らしい無邪気はない。重たい責任を、正面から受け止める覚悟がみえる。いかなる男性であっても、軽い気持ちでは、声もかけられない。
ティセは、布団を抜け出す。冷たい石の床に、足が触れる。華奢な足首が一瞬すくむが、彼女はすぐに立ち直る。
まだ火を入れていないキッチンに、そっと足を運び、まきストーブに火をくべると、部屋にかすかな温もりが広がっていった。
柔らかな寝巻きに包まれたその姿は、まるで絵画のように静かで美しかった。だがその目には、眠気ではなく、朝を迎える者としての覚悟が宿っていた。
「よし」
小さく呟き、パンを焼き、野菜を刻む。台所は一歩動けば壁に届くような狭さで、食器は欠けた陶器と手作りの木皿しかない。
ティセは、丁寧に手を動かす。ほんの少しの干し肉と、子どもたちが好きな蜂蜜を添えて、木の皿に三人分を並べた。
大人は、この家には、ひとりもいない。わずかな報酬をやりくりしながら、この部屋で三人は暮らしている。決して豊かではないが、静かで、あたたかな朝の光景だった。
朝食の準備が整う頃、階段の上から眠たげな声が聞こえてくる。
「ティセおねーちゃーん、ミーナが、ぼくの毛布取ったぁ」
「取ってないもん!ラセルが寝返りしすぎるからでしょ!」
ぱたぱたと小さな足音が続き、食卓へ駆け下りてくるふたり。
ティセはふっと微笑んで、テーブルを指差した。
「はい、けんかは後。食べながら話しなさい」
ミーナはお行儀よく椅子に座り、背筋を伸ばしてナイフとフォークを構える。七歳の女の子で、明るい栗色の髪をふたつ結びにしているのが特徴だ。
表情には幼さも残るが、その口調や態度には、年齢を超えた落ち着きがある。ラセルの世話を焼きながらも、ティセの言葉には誰よりも敏感に反応する。聡明で心優しい少女だった。
一方、ラセルは、相変わらずティセの腕にぴとっとしがみついたまま。離れようとしない。五歳の男の子で、くせっ毛の明るい茶髪が跳ねている。
チャンスがあれば、いつまでもティセにくっついている。くりくりした瞳で、ティセを見上げながら、甘えた声を出す。ティセのことが大好きで「ティセおねーちゃん」と呼ぶときの声は、少し甘ったるい。
「ティセおねーちゃん、今日も冒険のお仕事?」
「うん。お昼には帰れる仕事を選んだから、心配しなくていいよ」
「おねーちゃん、剣のお仕事じゃなくて、お店の人とかにはなれないの?」
ミーナが、おずおずと訊ねた。
ティセはパンに蜂蜜を塗りながら、少しだけ目を伏せた。
「なれるよ。なれたらいいなって、時々思う。でも・・・剣の方が、私には向いてるから」
それは半分、本音。剣は好きだ。でも、もう半分は、嘘。本音では、いまとは全く異なる暮らしを求めている。
それは、ティセがまだ、両親と暮らしていた過去の暮らし。子どもとして「誰かに守られる側」にいて、笑っていられる日々を求めている。しかしそれは、ティセが十歳の時に、失われていた。
彼女はまだ十六歳だ。世間から見れば、ミーナたちとそう大きくは変わらない年齢である。それでも、子どもたちの前では、決して「子どもらしく」あってはならないと、心に決めていた。
甘えたり、わがままを言ったり、怖がったりするのは、自分ではなく、ふたりだけに許されるもの。彼女が少しでも揺らげば、この小さな日常が崩れてしまうかもしれない。
だからこそ、ティセは自分の「子どもらしさ」を封じ込め、守る者として立ち続けていた。
「食べ終わったら、お皿を洗ってね。今日は帰ったら一緒にお散歩行こう」
「ほんと!? ミーナ、リボンつけていく!」
「ぼく、カエルつかまえる!」
「それはやめて!」
笑い合いながら、朝が過ぎていく。
ティセは、剣を腰に下げて玄関に立つと、最後にふたりを振り返った。
「鍵はちゃんと閉めてね。知らない人が来たら、絶対に開けちゃだめ」
「うん。あのね、ティセ」
ミーナがふと、言葉を選ぶように続けた。
「ティセは、わたしたちのお母さんじゃないけど、わたしたちは、家族だよね?」
その言葉に、ティセの指先がわずかに震えた。『家族』。その響きが、こんなにも胸に刺さるものだったなんて思わなかった。
これまで、心の中で、何度もそう「願ってきた言葉」だった。けれどもティセは、自分の口からは、この言葉をいえなかった。
自分は、きちんと、二人のことを守れていない。食べ物も、着るものも、教育も、とても満足には与えられていない。だから『家族』だなんて、自分からは、とてもいえないと思っていた。
だけど、いま、ミーナがそれを言ってくれた。
顔を上げるのが少しだけ恥ずかしくて、でも嬉しくて。ティセは、そっと微笑んだ。
ティセの胸に、小さな痛みと、温かい何かが同時に広がった。
「家族だよ」
ぎゅっと、ミーナを、そしてラセルを順に抱きしめて、彼女は静かに扉を開けた。
冷たい朝の空気が、頬を撫でる。
剣の鞘が音を立てたとき、彼女の背筋は再び凛と伸びていた。
彼女はもう、子どもではいられない。
誰かを守ることで、大人としての時間を生きていくのだ。
この小さな家に、笑顔がある限り。